スポーツクライミングの第一人者・野口啓代さん「自分に火をつけるのは、自分自身。可能性の芽が顔を出すのを、そっと見守ってあげてほしい」

東京五輪からオリンピック種目になり、子どもたちにも大人気のスポーツクライミング。そんなスポーツクライミングを牽引する存在といえば、16歳から数々の世界大会で優勝を重ね、東京五輪では銅メダリストに輝いた野口啓代(のぐち あきよ)さんです。小学5年生からスポーツクライミングをはじめた野口さんが、プロとして決意を固めるまでの親御さんのサポートや、変化するライフステージの中でもパワフルに挑戦し続ける原動力、そしてこれからの目標まで…たっぷりとお話を伺いました。

スポーツクライミングとは、偶然の出会い

――小学5年生のときに家族旅行で訪れたグアムで、初めてスポーツクライミングを体験したそうですね。

野口啓代さん:はい、2000年のことです。私の地元は茨城県龍ケ崎市なのですが、当時は周りにクライミングジムもなく、存在そのものを知りませんでした。それがたまたま旅先のゲームセンターにクライミングのアトラクションがあり、私と父と1歳下の妹の3人でハマって! 帰国後、同じ年につくば市内に『スポーレクライミングジム』という施設ができたので、父の運転する車で30分かけて毎週末通うようになりました。

2年ほど、週末だけジムで楽しんでいたのですが、小学6年生のときにはジムが主催する小さな大会に参加し始めて、中学生になると国内の大きな大会にも出られるようになりました。週末だけ登るのでは物足りないなと感じていたら、父が家業の牧場で使っていた古い牛舎の一角にトレーニングルームをDIYしてくれたんです。それからは家で登るようになりました。

――がんばりを、お父さまが目に見えるかたちにして応援してくれたのですね。

野口啓代さん:父もクライミングが大好きなので、父自身がもっと登りたかったのだと思います(笑)。

実家にあるトレーニングルーム。プロとして活躍するようになってからも、ここで練習することは、内省する大切な時間だったそう。

自分自身に可能性を感じられたことで、前に進めた

――クライミングを始めてわずか1年で、大会で優勝されています。当時からプロを目指していたのですか?

野口啓代さん:いえ。中学生になると、人と違うことをしていることが恥ずかしくて、「いつかやめてしまうだろう」と思っていました。ただ、とくに言葉はなかったけれど父が応援してくれていることは肌で感じていたので、葛藤していましたね。

クライミングに前向きになったのは、高校1年生から出場できる「世界選手権」です。出場が決まったのは高校受験が終わったころ。このとき、初めてトレーニング計画を立てました。学校から帰ったら自宅のトレーニングルームへ登りに行き、夜ごはんを食べたら父と走りに行く。気がついたら、自分で決めた練習のルーティンをこなす日々が楽しくって! 練習したらしただけ、できることが増えて、自分がどんどん強くなっていく手応えもありました。

――そして16歳の夏に迎えた「世界選手権」では、3位に入賞。どのような気持ちでしたか?

野口啓代さん:当時、日本人女性の決勝進出は初めて、表彰台に上がったのも日本人初でした。世界で結果が残せたこと。そしてトレーニングが楽しいという気持ちも相まって、「もっとがんばったら世界一になれるかも?」と、初めて夢が見つかったんです。一気にスイッチが入って、W杯にすべて出場し、優勝を目指す生活に変わりました。

野口啓代さん(左)と父・健司さん。自宅のトレーニングルームにて。

――学校生活と競技はどのように両立したのですか

野口啓代さん:私は高校生から本格的に競技を始めたので、受験を控えた中学生のころは、まだクライミングへの熱い気持ちはありませんでした。ただ、クライミングを続ける可能性はあったので、親と相談して、自宅から自転車で通える大学付属の私立高校を受験したんです。

ありがたかったのは、通っていた高校にすごく理解があったことです。私が入学した当時、競技中心の生徒は初めて。でも、W杯に行ったり、トレーニングで学校をお休みしたりすることを全面的に応援してくださって。非常にクライミングと向き合いやすい環境を作っていただきました。

――親御さんは、競技優先の日々に対してどのような様子でしたか?

野口啓代さん:ただただ見守ってくれていました。

中でも2つ、すごいなと思っていることがあります。一つは、物心ついたときからずっと、決定権を私に与えてくれたこと。もう一つは、絶対にNOを言わなかったことです。無理やりやらされたり、先回りすることも一切なく、「学校を休んでクライミングをしたい」にもNOはありませんでした。この経験が、いま私が自分のしたいことにリミットをかけないことにつながっているように思います。

――信頼してくださっていたのでしょう。

野口啓代さん:はい。そういう意味でいえば、大学を半年で辞めて、プロとしてやっていく覚悟を決めたときも印象に残っています。

大学進学を前に、推薦で大学に進むのか、それとも大学へ行かずプロの道を目指すのか、とても悩みました。当時、クライマーでプロはいなくて、なったとしても“自称プロ”。ライセンスもありません。

母は、私がマイナースポーツだけでやっていくことを心配していました。でも父は、今までと変わらず「大学はいつでも行けるから、世界一の夢を叶えなさい」と応援してくれて。

迷った結果、推薦入学で大学に入学しましたが、入学した年の夏に開催されたW杯で初優勝し、世界一という夢を叶えられて。「自分にはクライミングしかない」と、プロとしてやっていく覚悟が決まり、帰国後に退学届けを出しに行きました。

現役のスポーツクライマーとして、W杯を転戦していたころ。

――野口さんは悩みながらも、プロとしての一歩を自分で踏み出されています。子どもが自分で夢や可能性を見つけるため、親御さんはどんなふうに見守ったりサポートしたりするのがいいですか?

野口啓代さん:お子さんの「やりたい」を大切に、親御さんは環境を整えてあげるだけで十分じゃないでしょうか。

私もそうでしたが、何より大切なのは本人の自主性だと思います。クライミングを通して多くのお子さんを見ていますが、フィジカル要素や親御さんが熱心かどうかはあまり関係ありません。どんどん伸びる子は、「登りたい」とか「負けたくない」とかっていう、強い気持ちがあります。自分に火をつけるのは、自分自身でしかないんですよね。

――どうすれば、自分で自分に火がつけられるのでしょう。

野口啓代さん:子どもは素直なので、楽しいっていうポジティブな気持ちや、自分もできるっていう自信が大きな原動力だと思います。私も初めての世界大会で3位に入賞したことで、「世界でやっていける!」と自分に可能性を感じて、一気に進んでいけたので。

――自信をつけるって難しいですね。

野口啓代さん:とても難しいですね。ジムでいちばんなのか、クラスでいちばんなのか、それとも自分の「できた」という感覚なのか。その子自身の考えやタイミング、年齢によっても感じ方は違うと思います。いつ、何があるか分からないからこそ、可能性の芽が顔を出すのを、そっと見守ってあげてほしいです。

オリンピックでもらった銅メダルを父・健司さんにかけてあげる野口さん。ずっと応援してくださった親御さんにとって、これ以上ないよろこびでしょう。

クライミング歴25年、魅力をもっと広めたい

――クライミングのいちばんの魅力はなんですか?

野口啓代さん:常に新たな出会いがあり、いつも新鮮な気持ちで挑めるところでしょうか。

スポーツクライミングは、「ホールド」という突起物を壁に付けて、「課題」と呼ばれるコースを設定します。課題は、大会の場合、一度しか登れません。つまり自分に与えられた4分間や5分間のうちに登れなかったら、もう二度とその課題に挑戦できないんです。トレーニングをするクライミングジムの場合も数週間単位でホールドは付け替えるので、その期間に登れなかったら終わりです。

私はクライミングを始めて25年くらい経ちますが、いまだに初めての出合いがあります。だから、やってもやっても、まったく飽きることがありません。

風化により自然にできた岩の突起をつかみ、登る「外岩」でのフリークライミングにも力を入れていきたいそう。

――引退後は、クライミングとどのように向き合っているのですか?

野口啓代さん:夫が現役の選手なので、夫のサポートや娘の育児をしつつ、クライミングの体験会や講習会、イベントやメディア活動など、クライミングの普及活動を行っています。あとは、海外の外岩に登りに行ったりもしていますね。現役からは引退しましたが、一人のクライマーとして活動しています。

2023年度からは、地元である龍ケ崎市が「スポーツクライミングのまち龍ケ崎」と掲げたこともあり、一緒に活動しています。大会を誘致したり、地元の学校にクライミングウォールを設置したり。クライミングの魅力を、もっとたくさんの人に知っていただければと思っています。

子どもたちに向けた講習会のようす。多くの子どもが集まり、大人気。

――2023年からは、小中学生向けの全国大会も。

野口啓代さん:はい。龍ケ崎市で「AKIYO’S DREAM with RYUGASAKI」という全国大会を、年に一度開催しています。子どもたちがW杯のような舞台を味わえる、夢を与えられるようなものを地元できないか? と、市と一緒に企画しました。

今年の大会は終わったばかりなのですが(取材:2026年2月)、北海道から沖縄まで全国各地から、それに中国や韓国など海外からも子どもたちが参加してくれて、うれしかったですね。

「AKIYO’S DREAM」は、大会の規模は大きく、敷居は低くがモットー。初心者大歓迎で、課題もクライミングを始めた初日に登れるくらい簡単なものから設定しています。なぜなら、誰にでも大会のデビュー戦はありますし、1位になるだけが大会じゃないと思うからです。趣味で楽しむお子さんも、本気でプロを目指すお子さんも、一緒にひとつの大会を楽しめるように工夫しています。

「AKIYO’S DREAM with RYUGASAKI」の課題は、まさにW杯さながら。

母親だからと自分にリミットをかけず、挑戦し続けたい

――野口さんは、2023年にご出産されました。お子さんが成長していく中で「自分はこれをがんばりたい」というものが出てきたら、どういうふうに応援してあげたいですか。

野口啓代さん:わが家は夫婦そろってスポーツクライマーですが、私も夫も親とはまったく違う道を選びました。でも私たちの親は、子どもが自分で見つけた道を全力でサポートしてくれたんです。私も同じように、娘が自分で見つけた道を全力でサポートしてあげたいですね。

――サポートにはさまざまな形がありますが、お子さんが小さな今、とくに心がけていることは?

野口啓代さん:小学生くらいまでは、親の行動範囲が子どもの行動範囲だと思うんです。私も親が海外旅行に連れていってくれたことで、クライミングと出会えました。娘にも同じように、私たちがいかにたくさんのチャンスを与えて、いろんな世界を見せてあげられるか。赤ちゃんのころから、国内外いろんなところに連れていって、まずは出会いを増やしているところです。

お子さんと野口さん。旦那さまが出場したパリオリンピックでの、貴重なオフショット。

――子育てと仕事は、どう両立していますか?

野口啓代さん:夫の大会をサポートしたり、クライミングで海外遠征したり、忙しいときは1〜2週間ほど家を空けることもあり……。正直、子育てと仕事を両立できているかは分かりません。私や夫の親がわが家に泊まり込みで面倒を見に来てくれるので、安心して仕事やクライミングに向き合えて、娘はスクスクたくましく育ってくれている。ほんとうにありがたいです。

――限られた時間の中で、お子さんの心を満たすために工夫していることはありますか。

野口啓代さん:私たちが長期間、家を空けた後は、必ず家族旅行をします。親のエゴかもしれませんが、我慢をさせてしまったぶん、目いっぱい子ども優先の日を作っていますね。

――旦那さまは、育児に対していかがですか?

野口啓代さん:夫は私よりもずっと子煩悩かもしれません(笑)。家族旅行中はもちろん、お休みの日にも、前後のトレーニングの疲労や大会前であることなどは関係なく、ひたすら娘の相手をしてくれます。娘はどんどんパパっ子になっていきますね。

――親御さんに旦那さま、家族のサポートがありがたいですね。

野口啓代さん:も昔も、家族のサポートが私の背中を強く押してくれます。

すごく自分勝手な母親ですが……私は「母親だからできない」という制約を、自分の中に作りたくないんです。周りからも「お子さんがいるからやめておこう」と思ってほしくありません。

2025年、フィンランドで超高難易度の「The Globalist」(V14)という外岩を女性として世界発となる完登

スポーツ選手は、現役時代がいちばん輝いていたという考えもあると思いますが、私は引退してからの方が大きなことに挑戦したいと思っています。今は「AKIYO’S DREAM」の規模をもっと大きくしたいですし、自分自身のクライミングにももっと挑戦したいですし、クライミングを他のスポーツに引けを取らないくらい人気種目にしていきたい。そのためにも、自分にできることは何でもしていきたいんです。

16歳のときに「クライミングでやっていこう!」と感じたときと、今も同じような感覚なのかもしれません。年齢や母であることを言い訳にせず、私は私。自分にリミットをかけず、これからも何事にも挑戦していけたらと思っています。

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お話を聞いたのは

野口啓代 プロクライマー

茨城県龍ケ崎市出身。2008年ボルダリング ワールドカップで日本人初となる優勝。通算4度(2009年、2010年、2014年、2015年)の年間総合優勝という快挙を果たし、ワールドカップ優勝も通算21勝を数える。競技人生の最後の舞台となった東京2020大会では銅メダルを獲得。現在は自身の経験をもとにクライミングの普及に尽力している。

取材・文/ニイミユカ

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