山本周五郎賞、芥川賞、大佛次郎賞など、さまざまな賞に輝く作品を生み出してきた作家・吉田修一さん。その多彩な作風が幅広くファンを惹きつける吉田さんの最新作は、古典エンターテインメント『アンジュと頭獅王』。美しい日本語のリズムで描かれる世界を楽しむコツ、作家としての思い、執筆エピソード、文学と教養などについて伺いました。
リズムに身をゆだねて楽しいひとときを
新境地! 古典エンターテインメントとは
――インタビューの前編では、「本が人生に与えてくれるもの」と題して、子ども時代の読書体験や読書の楽しみ方、新作の『アンジュと頭獅王』について、お話を伺いました。
――『アンジュと頭獅王』は、古典エンターテインメントということですが、古典エンターテインメントとは?
吉田修一(以降、吉田)『アンジュと頭獅王』は、昔から伝わる説話集・説経節『山椒太夫』をもとに、口語調でオリジナルストーリーを加筆した書き下ろし作品です。古典というと古めかしい、難しくて読みにくいというイメージがありますが、お話自体は五百年、千年のときを超えて今に伝わっています。考えてみると、それはすごいことです。それをじっくり味わえば、きっと大切なものが見えてくるに違いない。そう考えて、タイムレス、つまり時空を超える素晴らしい価値をもつ古典文学に挑戦しました。
――古典分野の「エンターテインメント」なのですね?
吉田 いくら素晴らしい文学でも楽しく読めなかったら、「読みなさい」と与えられる教科書のように退屈してしまいます。そこで、現代のエンターテインメント作品のように、読書の楽しさやおもしろさをたっぷり味わえるよう、七五調の言葉のリズムに気を付けて読みやすい口語体で書きました。読書好きの人でも、音読する習慣のある人はそれほど多くはないとは思いますが、ぜひ、一度、声に出して読んでみてください。
――では、早速読んでみます。
まずは『アンジュと頭獅王』を音読で楽しんで
吉田 どうでした?
――スラスラ読めるって、こんなに気持ちいいものなのですね! 古典は読みにくくて、ちょっとハードルが高いなあという印象がガラリと変わりました。
吉田 ベタな古典では、敬遠されてしまいますからね。
――「御物語(おんものがたり)」「あらいたわしや」など、現代では使われなくなったけれど、美しい印象の日本語がそこかしこに散りばめられています。
吉田 美しい言葉の連なりや、日本語の流れるようなリズムをたっぷり味わってもらえるとうれしいです。
さまざまなエンターテインメントの工夫
――ルビ(ふりがな)もあるので、「えっと、どう読むんだっけ」と一瞬戸惑いそうな漢字や、慣れない固有名詞などもラクラク読めます。これなら、中学生以上はもちろん、小学校高学年くらいから読めそうです。
吉田 古典文学は長く伝えられてきた宝物です。若い世代や子どもたちがその宝物に親しんでくれたらうれしいです。
――ところどころ、文字がとても大きなページがあって、まるで文章が目に飛び込んでくるようです。
吉田 印象的なセリフや名場面を目でも味わってほしいと思い、工夫しました。
――本全体に、エンターテイメントとしてのさまざまな工夫がなされているのですね。
吉田 もちろん、物語自体も工夫しています。古典文学をベースにしていますが、後半はオリジナルの書き下ろしを加え、時代が不思議に交差する物語に仕立てました。内藤新宿御苑、歌舞伎町などといった実際に存在する街や、サーカス、花園神社の酉の市など現代のイベントなども登場します。古い時代と現代の様相をブレンドした空想の世界、物語の世界を、若い世代、特に子どもたちにも楽しんでほしいと願っています。
作家の思いと創作エピソード
「小説を書く」とは?
――吉田さんにとって、「小説を書く」とは?
吉田 私は、20年以上にわたって小説を書いてきました。作品によって自分の立ち位置が違うこともありますが、基本的には自分自身が作品世界に入り込んで、さまざまな出来事に遭遇する人の行動や気持ちの変化をそばでじっと見ていて、それを文章で書くという感じです。神霊が乗り移る「寄(よ)り坐 (ま) し」とか、恐山のイタコのように、どこからか降りてきた登場人物に乗り移られた自分自身が書いている感じもあります。
――自分自身の気持ちや考えを登場人物に投影されることは?
吉田 そういうスタイルの作家もいるでしょうけれど、私の場合は、ないですね。自分のことを小説に書きたいという欲求がないので、自分自身を裸にするというか、ヌードをさらすようなスタイルにはならないのです。そもそも、私はあまり自分自身に興味がなくて、人はどういうとき、どんな気持ちで行動するかに興味があります。
『アンジュと頭獅王』の世界
――『アンジュと頭獅王』執筆時も、作品世界に入り込まれましたか。
吉田 作品世界にどっぷり浸かって書くという姿勢は、年々、強くなっていると思います。今回の作品も、ゾクゾクするような臨場感がありました。たとえば、慈悲の心を傾けて主人公の頭獅王をいろいろと手助けをする「お聖(ひじり)さん」の長セリフは、原典をなぞりながらとても気持ちが良かったです。
――お聖(ひじり)さんが、あらゆる神さま仏さまに誓いを立てて、何とか頭獅王を守ろうとするシーンは圧巻です。言葉の重なりとともに、感動が波のように押し寄せてきました。他人のためにこんなにも献身的になれるなんて、人間とはなんと尊いのだろうと感じました。
吉田 前回もお話したように、「慈悲の心」は作品の土台となる大切なテーマです。作品中、アンジュや頭獅王に慈悲の心を傾ける人物が多く登場します。いろいろと困難なことやしがらみがある中で、自分が大変なときに助けてくれる人がいるというお話は、私たちに大切なことを教えてくれると思います。慈悲の心で人に接することは、自分自身が満たされるということ。それこそ、何にも代えがたい人生の真の喜びだと思うのです。そうした時代を超えて大切に守られ、尊ばれてきた価値のあるものを描きたかったのです。
――しかし、作品世界に深く入り込んで書くのは、とても大変なのでは?
吉田 いいえ、入り込んだほうが楽というか、自分自身が充実してイキイキしていますね。その証拠に、書き上げてしまうと、まるで抜け殻になったように感じます。
――芝居の役になりきって演じる役者さんのようですね。
吉田 物語中の人物の人生を「生き切る」というタイプの役者さんとは、共感し合えるのかもしれませんね。
人生を豊かに彩る教養について
文学を読む意味とは
――最近の子どもたちの楽しみといえば、ゲームです。読書してほしいと考える親も多いようですが、文学を読む意味とは?
吉田 文学はさまざまな楽しみや娯楽がある中の一つ。つまり、オプションの楽しみというか、読みたい人が読むものだと思います。とはいえ、全体的な風潮として文学が読まれなくなる方向に傾くのは寂しいですね。
――どうしたら、この流れが変わるでしょうか。
吉田 難しいですね。読書の楽しみや喜びを知らない人は「文学に何の意味があるの? 読書にはどんなメリットがあるの?」とよく言いますが、確実にメリットはあるんですよ。ただし、それは読書体験を重ねていくうちに、少しずつわかっていくものです。目に見えて効果があるというものではなく、本人がじわじわと感じるものなのです。ですから、読書好きの人が感じ取っている豊かさを、それを知らない人に向かって声高に主張しても、決してわかってはもらえないでしょう。
――子どもを読書好きにしたいと悩む親には、なかなか具体的な解決策が見えず、何とも辛い話です。
吉田 無理やり読書を強要するよりも、まずは親が読書を楽しむ。親が楽しんでいる姿を子どもに見せるほうがいいんじゃないでしょうか。
吉田 『アンジュと頭獅王』は、もっと気軽に古典文学を知ってもらいたいという願いから、楽しさとわかりやすさを意識して書きました。しかし、ちゃんと本を読んできた人にしか分からない部分もあります。読書を重ねてさまざまな文学に親しんできた人だからこそ、より深く理解できる、じっくり味わえる言葉や表現を選んでいるからです。本を読んできた人というのは、会って話すと、分かる人には分かるもの。読書によって得た教養が隠れされた宝物に光を当て、深い喜びをもたらしてくれると思います。
――ありがとうございました。
吉田修一/長崎県生まれ。97年に『最後の息子』で文學界新人賞を受賞し、デビュー。2002年には『パレード』で山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で芥川賞を受賞。純文学と大衆小説の文学賞を合わせて受賞し話題となる。07年『悪人』で毎日出版文化賞と大佛次郎賞を受賞。10年『横道世之介』で柴田錬三郎賞を受賞。19年『国宝』で芸術選奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞を受賞。2016年より芥川賞選考委員。近刊に『アンジュと頭獅王』『吉田修一個人全集 コレクション1青春』等。
「人の幸せに隔てがあってはならぬ。慈悲の心を失っては人ではないぞ」――太宰府に流謫された父の信条を胸に刻む頭獅王は、邪見なる山椒太夫と息子・三郎に姉アンジュを責め殺され、執拗な追っ手から逃れ逃れて時空を超え、やがて令和の新宿へたどり着く。再び宿敵の親子と対峙した頭獅王は、慈悲の心を果たして失わずにいられるのか――。ヒグチユウコ描き下ろしの装画をまとった吉田修一の新境地。二十一世紀版山椒太夫物語。
文・構成/ひだいますみ