埴輪とは
「埴輪(はにわ)」について、子どもの頃に習った記憶はあっても、詳しく覚えている人は少ないかもしれません。埴輪が作られた時代や目的を確認しておきましょう。
古墳に並べられた土器
「埴輪」とは、3世紀後半~7世紀にかけて造られた「古墳(こふん)」から出土する、素焼きの土器のことです。
古墳は丘のように土を高く盛り上げた「墳丘(ふんきゅう)」を持つ大きなお墓で、豪族や王などの身分の高い人が埋葬される場所でした。
大阪府にある「大仙陵(だいせんりょう)古墳」など、全長486mもの大きな古墳もあります。段状の墳丘や堀を持つ古墳もあり、造るために大工事が行われたことがうかがえます。
埴輪は、こうした墳丘の上や周囲に、多数並べられていました。古墳に埴輪を置く目的は、盛り土の崩れ防止や死者の魂をしずめるためと考えられています。
古代日本の文化風習を知る貴重な資料
古墳や埴輪が作られた頃の日本では、文字が普及していませんでした。このため、古墳から見つかる埴輪や副葬品は、当時の様子を知る貴重な手がかりとなっています。
例えば、人の形をした埴輪からは、古代人の服装や髪型、職業などが分かります。家の形の埴輪を見れば、当時の住宅事情もイメージできるでしょう。
また、動物や人の埴輪は、葬儀のワンシーンを再現したものとされています。参加者の顔ぶれや持っている道具によって、葬儀の規模や内容を推測することができます。
国宝に指定された埴輪も
埴輪の中には、国宝に指定されたものもあります。最初に国宝となった埴輪は、群馬県太田市内の長良神社から出土した「武装男子立像」です。弓と剣を持ち、甲冑(かっちゅう)に身を固めた完全武装の姿が印象的です。
2020(令和2)年には、群馬県高崎市の「綿貫観音山(わたぬきかんのんやま)古墳」から出土したすべての埴輪と副葬品が、国宝に指定されました。なかでも一つの台に3人の子どもが乗っている「三人童女」は、ほかに例がない珍しい埴輪として注目を集めています。
古墳時代の現群馬県には、有力な豪族がたくさんいて、古墳に使用するために大量の埴輪を製造していたようです。このため、熟練の技術者が育ったと考えられ、ほかにも精巧な作りの埴輪がたくさん出土しています。
埴輪の種類
埴輪は、作られた時代によって、さまざまな種類が存在します。最初はシンプルな形状でしたが、次第に、人や動物を表す埴輪も作られるようになりました。
主な埴輪の種類と、それぞれの特徴を見ていきましょう。
円筒型のシンプルな埴輪
埴輪の中でも、最も早くから作られ、出土数も多いのが円筒型のシンプルな埴輪です。
横から見ると壺(つぼ)のようにも見えますが、底は作られておらず、胴体の部分に、丸や四角の透かし穴が空いています。
上の方にくびれがあり、口がラッパのように広がった「朝顔形円筒埴輪(あさがおがたえんとうはにわ)」と呼ばれるタイプもあります。
円筒埴輪は、墳丘を囲むように、列になって出土するケースがほとんどです。このため、聖域である古墳を周囲から区別する、結界(けっかい)や仕切りのような役割を持っていたと考えられています。
人や動物、家型の埴輪
円筒埴輪に対して、人や動物、家などをかたどった埴輪を「形象(けいしょう)埴輪」といいます。家や道具類は4世紀の中頃に、人や動物は5世紀後半頃から作られるようになりました。
武器や武具、位の高い人しか持てない特別な道具などの埴輪は、墓の主の権威を示すとともに、外敵から墓を守る役割を持っていたとされています。
動物の埴輪では、鳥・馬・猪・鹿・魚などの身近な動物のものが多く見つかっています。
特に目立つのが、装飾品を身に着けた馬の埴輪です。馬は高い財力や軍事力を象徴する動物として、大切に扱われていたのではないかと考えられます。
人物埴輪は、さらにバリエーションが豊富で、貴婦人から農夫まで、さまざまな階級の人が揃っています。
かわいいポーズや服装にも注目
人物埴輪では、ポーズや服装にも注目してみましょう。例えば、埼玉県熊谷市の「野原(のはら)古墳」から出土した二つの人物埴輪は、大きく口を開け両手を振る姿がユニークです。
彼らは、葬儀の際に歌って踊る農民の男女と解釈され、「踊る人々」と呼ばれています。しかし近年は、馬の手綱(たづな)を取る男性2人組との説も出ています。踊るようなポーズの埴輪は、ほかにもたくさん見つかっており、本当は何をしていたのか、とても気になるポイントです。
服装や持ち物からは、人物の年齢や職業が想像できます。巫女(みこ)や力士・鷹匠などの埴輪も見つかっており、昔から多くの専門職があったことが分かります。
埴輪と土偶の違いも押さえよう
古代の日本では、「土偶(どぐう)」と呼ばれる人形も作られていました。「土偶」も「埴輪」も、大昔の人が作ったものですから、現代人にとっては違いが分かりにくいかもしれません。
両者の違いを、簡単に解説します。
土偶は縄文時代の素焼きの人形
「土偶」は、縄文時代に作られた素焼きの人形です。古墳のような特定の場所ではなく、日本全国の縄文時代の遺跡から広く出土しています。縄文時代は紀元前ですから、土偶は、埴輪よりもずっと古いことが分かります。
「埴輪」は、もともと円筒型のものから始まり、徐々に種類が増えていきますが、土偶は最初から生物の形をしているのが特徴です。
顔だけの平らなものから、手足がついた立体的なものまで、さまざまな形があり、人間の土偶には子どもや妊婦のほか、まるで宇宙人のような顔つきのものもあります。
埴輪とは利用目的が異なる
土偶が、何のために作られたのかについては、分かっていません。しかし、乳房があったり、お腹(なか)が大きかったりと、女性・妊婦をかたどったものが多いことから、安産や豊作を祈るための道具だったとの説が有力です。
また、ほとんどの土偶に、手足や腹部などを意図的に破壊してから埋めた形跡があります。魔除けや再生のおまじないとして、わざと壊して埋めていたのかもしれません。
いずれにしても、土偶には埴輪のような「墓を守る」ための用途はなかったといえるでしょう。
埴輪を通して、古代の日本に思いをはせよう
埴輪は文字がなかった時代の社会の様子を、現在に伝えてくれる貴重な史料です。動物や人物の埴輪は、当時の儀式を再現しているとされています。今にも踊り出しそうな人や、武装した人の埴輪を見ていると、はるか昔の暮らしのワンシーンが浮かび上がってくるようです。
どんな身分の人なのか、何をしているところなのかなど、子どもと一緒に想像しながら、じっくりと観察してみましょう。
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構成・文/HugKum編集部