築城当時の姿を残す「彦根城」の魅力。気になる歴史や特徴も紹介

滋賀県にある彦根城は、琵琶湖周辺を観光するなら見逃せないスポットです。天守や櫓など多くの建物が、築城当時の姿のまま保存されており、歴史的にも高い価値を持っています。彦根城の歴史と特徴、おもな見どころを紹介します。

彦根城とは?

江戸時代初期に完成したとされる「彦根城(ひこねじょう)」は、戦国の気風を残しつつも、平和な時代を感じさせる美しいたたずまいが魅力です。

場所や特徴など、彦根城の基礎知識を見ていきましょう。

国宝に指定された天下の名城の一つ

彦根城は、築城から400年以上にわたり、戦火や解体による消失の危機を免れ、ほぼ築城当時の姿を残しています。

天守が現存する貴重な城として、1952(昭和27)年には国宝に指定されました。国宝指定の天守は、彦根城を含めて姫路城・松本城・犬山城・松江城の5カ所しかありません。

城内には、茶室や庭園も整備され、春には桜が咲き誇ります。JR彦根駅から徒歩約15分とアクセスもよく、美しい景色と歴史的な価値が楽しめると、国内外から多くの観光客が訪れています。

彦根城天守(滋賀県彦根市)。近江の京極高次(きょうごくたかつぐ)が城主を務めた大津城から移築したと伝わる。通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、三層三階地下一階の複合式望楼型で、牛蒡積(ごぼうづみ)の石垣で支えられている。五重の江戸城より低くするために、四重の大津城をあえて三重に縮小して移築した。別称・金亀城。

戦いから城を守る設備も特徴的

彦根城が立つ琵琶湖(びわこ)周辺は、もともと石田三成(いしだみつなり)の領地で、当時は「佐和山(さわやま)城」が立っていました。石田氏が「関ヶ原の戦い」に敗れた後は、徳川家の重臣で徳川四天王の一人「井伊直政(いいなおまさ)」が入城します。

佐和山は、関東と関西をつなぐ重要な地だったことから、徳川家康は井伊家に対して、西側の豊臣勢力を監視するため、新しい城を築くよう命じます。こうして完成したのが「彦根城」です。

敵の監視を目的に建てられた彦根城は、いつ攻め込まれてもよいように、戦いへの備えが随所に見られます。

大きな堀や急な石垣で敵の侵入を防ぎ、入ってきた敵は「狭間(さま)」から弓や鉄砲で狙い撃ちできるようになっています。

外側からは分からないように、漆喰(しっくい)で塗り固めた「隠し狭間」は、彦根城の大きな特徴です。いざというときに壁を突き破って攻撃する仕組みですが、一度も使われることはなく、美しい外観が保たれています。

彦根城の歴史

築城の経緯や歴史を知るのも、城見学の楽しみの一つです。着工から現在までの、彦根城の歴史を簡単に解説します。

20年の歳月をかけて築城

彦根城は1604(慶長9)年、徳川家康の命令によって築城が決まりました。

豊臣方の動きを見張る重要拠点として、工事は幕府主導で急ピッチで進められます。佐和山城をはじめとする近隣の城や寺院から使える建物や石垣を運び、再利用したほどでした。おかげで、天守を含む主要な部分は、1607(慶長12)年頃には完成します。

残りの工事は、1614~1615(慶長20)年の「大坂の陣」で中断され、1622(元和8)年頃にようやく終わりました。

解体の危機を迎えたことも

時代が江戸から明治に移り、1873(明治6)年に廃城令が公布されると、彦根城でも解体工事が始まります。

しかし、1878(明治11)年、北陸巡幸の帰りに彦根を訪れた明治天皇の勅命(ちょくめい)によって解体は中止され、残った建物は保存されることが決まりました。

天皇が勅命を下した理由は定かではありませんが、随行していた大隈重信(おおくましげのぶ)、または近江(おうみ)の寺に嫁いでいた天皇の従妹(いとこ)が、保存を願い出たといわれています。

天皇が訪れなければ、彦根城も、ほかの多くの城と同じ運命をたどっていたのです。

彦根城の見どころ

彦根城の敷地内には、櫓(やぐら)や庭園など、見どころがたくさんあります。それぞれについて、見学に役立つ基礎知識を見ていきましょう。

多くの重要文化財

彦根城には、天守のほかにも、当時の姿を残す建物がいくつかあり、国の重要文化財に指定されています。特に、佐和口(さわぐち)付近にある「馬屋(うまや)」は、他の城には残されていない貴重な建物です。

2015(平成27)年に本格的な保存修理が行われ、「柿葺(こけらぶき)」の美しい屋根が復元されました。

入り口から天守のある本丸へ続く坂を登っていくと、「天秤櫓(てんびんやぐら)」が現れます。

正面の防御の要とされ、敵が攻めてきたときは堀を渡る橋を落として、本丸への侵入を防ぐ役割を果たしていました。本丸の手前に立つ「太鼓門櫓(たいこもんやぐら)」は、合図に使う太鼓を置く場所です。

なお、天秤櫓や太鼓門櫓の建物は、佐和山城や長浜城など、他の場所から移築したものと考えられています。

天秤櫓。時代劇の撮影でもたびたび使われるこの天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。長い多聞の左右に、一対の隅櫓(すみやぐら)を構え、いかにも「天秤ばかり」のような形をしている。櫓の手前に見える「廊下橋」を、戦時には落とすのだ。

 

また、琵琶湖側には、裏側の防御の要「西の丸三重櫓(にしのまるさんじゅうやぐら)」があります。江戸時代には、琵琶湖の様子を監視する場所として使われていました。

音色にこだわった「時報鐘」

太鼓門の近くには、かつて城下の人々に時間を知らせていた「時報鐘(じほうしょう)」があります。

もともとは普通の鐘でしたが、12代藩主・井伊直亮(いいなおあき)の時代に、音を改良するため大量の小判を投入して鋳造(ちゅうぞう)されました。

完成した鐘は、美しい音がもっと遠くまで届くようにと、「鐘の丸」から太鼓門のある高台に移されます。

こだわりの音色は「日本の音風景百選」に選ばれ、現在も1日に5回、実際に音を聞くことができます。隣の茶屋「聴鐘庵(ちょうしょうあん)」でお茶を飲みながら、幕末の音色に耳を澄ませてみてもよいでしょう。

美しい二つの庭園

「楽々園(らくらくえん)」、「玄宮園(げんきゅうえん)」と呼ばれるエリアも、彦根城の見どころの一つです。

楽々園は、かつての下屋敷「槻御殿(けやきごてん)」のことで、主に客人の接待や藩主の隠居所として使われていました。幕府の大老を務め、後に桜田門外の変で倒された井伊直弼(なおすけ)は、隠居していた11代藩主・直中(なおなか)の子として槻御殿で生まれています。

4代藩主・井伊直興によって建てられた楽々園。直興亡き後、倹約令などにより建物は縮小していったが、11代藩主・井伊直中の隠居に際して増改築が行なわれ、楽々園は最大規模に。その大きさは現在の建物のおよそ10倍もあったという。

 

玄宮園は、槻御殿の庭として造られた、広大な回遊式庭園です。国の名勝に指定されており、美しい景観を眺めながらのんびりと散策を楽しめます。

彦根城の人気の秘密を知ろう

彦根城は国宝の天守をはじめ、重要文化財や名勝を一度に見学できる貴重な場所です。実戦に備える工夫と、庭園や小判の鐘など、平和を象徴する設備が同居しており、長い時間の流れを感じさせてくれます。

天守や櫓で「時の鐘」が聞こえたら、まるで江戸時代にタイムスリップした気分を味わえるかもしれません。

「いろは松」。表門橋方面に向かう中堀沿いにある松並木。47本あったことから、この名がついた。現在は34本残っており、当時の面影を偲(しの)ばせている。3代藩主・直孝が、諸国から取り寄せた竹木を城内に移植する際に、通行の妨げにならないようにと、根が地上に出ない「土佐松」が植えられたという。

 

参考:【公式】 国宝 彦根城

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構成・文/HugKum編集部

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