井伊直弼は何をした人? 政治への関わりから生涯まで詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】

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井伊直弼は日本史の教科書に登場する、幕末の重要人物です。安政の大獄を主導し、最終的には暗殺されたことから、あまり良くないイメージを持つ人も少なくありません。実際の井伊直弼がどのような人物だったのか、生涯や功績を解説します。<画像は皇居外桜田門(左)と井伊直弼イメージ(右)>

井伊直弼とは?

「井伊直弼(いいなおすけ)」の名前は知っていても、詳しいことまでは覚えていない人も多いでしょう。まずは直弼の人物像について、簡単に紹介します。

幕末政治で大きな役割を果たした人物

井伊直弼は、彦根藩(ひこねはん)の13代藩主で、後に江戸幕府の「大老(たいろう)」となった大名です。大老は、幕府の役職の中でも最大の権力を持ち、政策のすべてに関与する重要なポジションです。

直弼は、幕府の代表として、当時の日本が抱えていたさまざまな問題に取り組み、幕末の国政で大きな役割を果たしました。直弼のおかげで、日本は欧米列強による植民地化を免れたともいわれています。

一方で、直弼が主導した「安政の大獄(あんせいのたいごく)」は、度を越えた苛烈(かれつ)な処断が批判の対象となっています。

井伊直弼の生涯

井伊家は、徳川将軍家とつながりが深く、老中や大老として幕政に関与できる譜代(ふだい)大名の家柄です。しかし、直弼はもともと、大老はおろか、藩主になることすらできない立場にいました。

誕生から「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」で亡くなるまでの、直弼の生涯を詳しく解説します。

彦根城内で生まれた

直弼は、1815(文化12)年に、彦根藩主・直中(なおなか)の14男として、彦根城内の「槻御殿(けやきごてん)」で誕生します。

城の北東に位置する大名庭園「玄宮園(げんきゅうえん)」から国宝・彦根城天守を望む(滋賀県彦根市)。1604(慶長9)年に工事が始まり、約20年かけて完成した平山城の近世城郭。城全体の保存状態が最もよく、江戸時代の政治体制をあらわす代表的な城といわれる。ちなみに、城内の広さは甲子園球場の約13倍。別称は金亀(こんき)城。

 

このとき父の直中は50歳で、すでに家督を3男・直亮(なおあき)に譲っていました。母親は、側室の「お富の方」で、35歳のときに直弼を生んでいます。

兄弟が多いうえに側室の子だった直弼には、家督を相続することも、他家に養子に入る見込みも、ほぼありませんでした。17歳になった直弼は、藩からあてがわれた屋敷に移り、わずかな手当てをもらいながら部屋住み生活を送ることになります。

彦根藩の藩主に就任

彦根藩主で直弼の兄にあたる直亮には、実の子どもがいませんでした。直中の11男・直元(なおもと)を養子に迎えて、跡を継がせる予定でしたが、直元は藩主になる前に病死してしまいます。

そこで、部屋住みだった直弼が、新たに直亮の跡継ぎに指名されたのです。直元の死から4年後の1850(嘉永3)年には直亮が亡くなり、直弼は35歳で彦根藩主に就任しました。

思わぬ成り行きで藩主となった直弼ですが、熱心に藩政改革に取り組み、名君と呼ばれる存在になります。幕政にも深く関わり、早くから開国を進言するなど存在感を見せつけました。

幕府の大老に就任

1858(安政5)年4月に、直弼は13代将軍・徳川家定(いえさだ)の意向で「大老」に就任します。実は、大老職は常設されていたわけではなく、必要に応じて臨時に設けられる役職でした。

当時の幕府は、欧米列強への対応や病弱な将軍・家定の世継ぎ探しなど、急いで解決しなければならない問題を多く抱えていました。そのため、強い権限を持つ大老が必要とされ、家柄も能力もふさわしい人材として直弼が指名されたのです。

政治の実権を手にした直弼は、さっそく問題の解決に着手します。就任直後には「日米修好通商条約」に調印し、将軍の跡継ぎ問題にも決着をつけました。

桜田門外の変で暗殺される

日米修好通商条約は、日本にとって不利な内容だったうえ、勅許(ちょっきょ、天皇の許し)を得ずに調印したことで、世間の批判を浴びます。

また、自身が推薦する紀州徳川家の「慶福(よしとみ)」を家定の跡継ぎに決めたため、「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)」を推していた水戸藩や薩摩藩などから直弼に対する不満の声が上がりました。

さらに直弼は、開国政策に反対する人々を徹底的に弾圧します。「安政の大獄」と呼ばれる弾圧により、後がなくなった反対派は、ついに直弼の暗殺を企てるようになりました。

1860(安政7)年3月、直弼は江戸城に出勤する途中の「桜田門」付近で反対派の襲撃に遭い、44歳の生涯を終えます。

江戸城「桜田門」(東京都千代田区)。1860(安政7)年3月3日、直弼を乗せた駕籠(かご)は、外桜田の藩邸から江戸城に向かう。60余人の行列に、水戸脱藩浪士17人、薩摩藩士・有村次左衛門の計18人による襲撃を受けた。直弼の死は秘匿され、表向き3月28日が豪徳寺(世田谷区)の墓碑に記された命日である。

井伊直弼は、どんな人だった?

部屋住みから幕府の大老にまでのし上がった井伊直弼とは、どのような人物だったのでしょうか。強引な政策や弾圧の裏事情も合わせて解説します。

青年時代の井伊直弼

直弼は、青年時代の大半を、彦根城内に与えられた屋敷で過ごします。当時、跡継ぎ以外の男子は、他家の養子になる以外に世に出る手段はなく、直弼も例外ではありません。

直弼は、そんな自分の境遇を、地中に埋もれて花の咲かない木に例えていました。自分の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と呼んでいたことも、広く伝わっています。

「埋木舎」(彦根市)。直弼は17歳から32歳までの15年間を、300俵の部屋住みとして、ここで過ごしている。建築年代は不詳だが、1759(宝暦9)年の銘が入った瓦が見つかっており、少なくとも直弼が居住する七十数年前には建てられていることが分かる。解体修理工事を経て、1991(平成3)年から一般公開されている。

 

ただし、直弼は人生を悲観していたわけではありません。このまま何もしなければ、本当に埋もれ木になってしまうと、自らを奮い立たせていたのです。

武術・国学・茶道・和歌・能など、あらゆることを熱心に学び、藩主の息子にふさわしい教養を身に付けていきました。

評価が分かれる井伊直弼の政治

地元・彦根藩では名君とされ、領民からも人気のあった直弼ですが、大老としての評判は芳しくありません。

勅許を待たずに条約を締結したことや、「安政の大獄」で多くの優秀な人材まで処罰したことは、現在も批判の対象となっています。

一方で、直弼の政策が外国の侵略や内乱から日本を救ったとする見方もあります。「日米修好通商条約」は日本に不利な内容が多かったものの、アメリカと手を組むことでヨーロッパ諸国をけん制できるメリットがありました。

欧米と戦っても勝てない現状を理解していた直弼にとって、アメリカを敵にまわす選択肢はなかったのでしょう。後日、直弼は朝廷に使者を送り、調印に至った経緯を説明して天皇の同意を取り付けています。

「安政の大獄」についても、日本人同士で争っている場合ではない状況で、政情を安定させるために、やむを得ず断行したものと考えられています。

井伊直弼大老銅像(滋賀県彦根市)。玄宮園の近く、桜橋駐車場のそばにある彦根城金亀児童公園内に立っている。最後の官職・正四位上左近衛中将の正装で、旧彦根藩士らによって建立された。銅像は彦根城のほかに、横浜・掃部山(かもんやま)公園にも立つ。神奈川県立博物館には、横浜の銅像の「初代頭部」が展示されている。

教科書には載っていない井伊直弼を知ろう

井伊直弼は、先の見えない部屋住みの立場でも希望を失わず、自己研鑽(けんさん)を怠りませんでした。そんな直弼の努力と責任感の強さが、日本の運命を大きく左右することになります。

教科書に載ることのない直弼の本当の姿を知り、幕末の歴史への理解に役立てましょう。

時代背景をもっと知りたい人のための参考図書

小学館版学習まんが  少年少女日本の歴史「幕末の風雲」

小学館版学習まんが  少年少女日本の歴史  スペシャルセレクション「まるわかり幕末維新」

小学館文庫 逆説の日本史19 幕末年代史編2「井伊直弼と尊王攘夷の謎」

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構成・文/HugKum編集部

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