平清盛は何をした人? 平安末期の時代背景とあわせて、生涯や人物像を解説【親子で歴史を学ぶ】

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平氏や源氏に代表される武士団の台頭によって、長く続いた平安の世は様変わりしました。特に、度重なる政争を勝ち抜いた平清盛とその一族の栄華は、時代をこえて語り継がれています。日本史上の重要人物の1人、平清盛の生涯や人物像を解説します。
<上画像は、広島県呉市の平清盛公「日招き像」>

平清盛とは

平清盛(たいらのきよもり)」の名前は知っていても、詳しいことまでは覚えていない人も多いのではないでしょうか。はじめに、清盛に関する基本情報を見ていきましょう。

平安時代末期に活躍した人物

平清盛は、平安時代の末期に活躍した武将です。朝廷に仕える武家の一つ「平氏(へいし)」の棟梁(とうりょう)として政界に進出し、多くのライバルを倒して政権を掌握しました。

上流貴族の仲間入りを果たした後、武士として初めて貴族の最高位である太政大臣(だいじょうだいじん)にも任命されています。

清盛は、従来の朝廷政治のやり方にならい、娘を天皇の后(きさき)にしたり、一族を朝廷の要職に就けたりして勢力を拡大しました。一武将が政治の実権をにぎったことは、その後の日本の歴史に大きな影響を与えるようになります。

平清盛公「日招き像」(広島県呉市)。呉市の本土側と倉橋島の間の潮流の早い海峡「音戸(おんど)の瀬戸」には、清盛が夕日を招き返して一日で切り開いたという伝説がある。この日招き像は「音戸の瀬戸開削800年」を記念して、1967(昭和42)年に建てられた。清盛像は日没の方向に扇を向けて立ち、海上交通の安全を守っている。

平清盛を取り巻く時代背景をおさらい

平清盛は、公家(くげ)中心の社会から武家中心の社会へと、政治の主導権が移るきっかけをつくった人物といわれています。

では、清盛が生きた時代の武士とは、どのような存在だったのでしょうか。「平氏」と「源氏」との関係も合わせて解説します。

武士の存在感が増す

平安時代の中期以降、地方の有力者による武装蜂起(ほうき)が相次いで起こります。

独自の武力を持たない朝廷は、地方の反乱を鎮圧するため、御所(ごしょ)の警護などを担っていた武家の力を借りるようになりました。

活躍の場を広げた武家は、朝廷の中で徐々に存在感を増していきます。清盛の父・平忠盛(ただもり)も、こうした時流に乗って朝廷の信頼を勝ち取った武将の1人です。

とはいえ、当時は、まだ武家の身分は低く、公家が中心の社会に入り込める余地はありません。

忠盛・清盛の親子は、武士として初めて、天皇の住まい「清涼殿(せいりょうでん)」へ上がることを許される身分となりますが、当初は他の公家から反感を買い、大変苦労したと伝わっています。

平氏と源氏の関係

朝廷に仕える武家の中でも、2大勢力となったのが「平氏」と「源氏」です。どちらも祖先は、天皇から姓を賜り臣籍に下った元皇族です。

「平(たいら)」の姓は桓武(かんむ)天皇、「源(みなもと)」の姓は清和(せいわ)天皇の子孫を表しています。平や源の姓を与えられた皇族はたくさんいて、「軍事貴族」と呼ばれる軍事専門職に就いたり、地方に土着したりして栄えていきました。

平氏と源氏は、ライバルとして語られることもありますが、必ずしも敵対していたわけではありません。例えば、清盛は源義朝(よしとも。源頼朝・義経らの父)とともに、「保元の乱(ほうげんのらん)」では、叔父の平忠正(ただまさ)と戦っています。

そのほか、源頼朝を支えて平家打倒に貢献する北条氏や三浦氏、畠山氏などの御家人(ごけにん)たちは、関東地方に土着した平氏の一族です。彼らは独立した武士団として、情勢に応じて手を組んだり対立したりしていたのです。

なお、「平家(へいけ)」は、清盛とその一族を表す呼称であり、他の「平氏」とは区別されています。源平合戦についても「平家」対「頼朝を代表とする源氏・平氏連合軍」の戦いと考えると分かりやすいでしょう。

平清盛の生涯

平清盛は、一代で史上稀(まれ)に見る栄華を手にしますが、彼の死後、平家の力は急速に衰えて、間もなく滅亡してしまいます。清盛の生涯と平家の命運は、ほぼ重なっているといってもよいでしょう。波乱に満ちた清盛の生涯を紹介します。

宮島の平清盛像(広島県)。出家後の法衣をまとった50代の清盛といわれる。厳島神社の大鳥居も見渡せるこの場所で都の方角を向き、国の繁栄を願っているとも。

平氏の棟梁の家に生まれる

清盛は、1118(永久6)年1月18日に、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の子として誕生しました。母親は、白河(しらかわ)上皇に仕えていた祇園女御(ぎおんのにょうご)、または彼女の妹という説が有力ですが、詳細は不明です。

出生については、忠盛に嫁いだ時点で、祇園女御は白河上皇の子を身ごもっており、やがて生まれたのが清盛とする説もあります。

いずれにしても、父の忠盛は朝廷に対して忠節を尽くし、都の治安維持や瀬戸内海に出没する海賊退治などの功績を挙げて出世します。

1132(天承2)年には鳥羽(とば)上皇に認められ、武士として初めて昇殿(天皇の住まいに行くこと)を許されるまでになりました。

源氏を抑え、武士の頂点に

忠盛の跡を継いだ清盛は、軍事貴族の一派として着実に力を付けていきます。

皇位継承を巡って、1156(保元元)年に起こった「保元の乱」で、清盛は源頼朝の父・義朝とともに後白河天皇派として参加し、勝利しました。

後白河天皇が、次の上皇になって権力をにぎると、清盛は上皇の側近・藤原通憲(ふじわらのみちのり)に接近し、朝廷内での勢力拡大に努めます。なお通憲は、出家したのちの法号で信西(しんぜい)とも呼ばれます。

清盛の勢力が強まる一方で、冷遇された義朝は不満を募らせていきます。

保元の乱から3年後、義朝は「平治(へいじ)の乱」と呼ばれるクーデターを起こしますが、清盛はここでも勝利して、武士の頂点に立つことに成功しました。

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異例の出世と一族の繁栄

平治の乱以降、清盛は上皇と天皇の間をうまく立ち回り、自らの地位を高めていきます。一族の女性を、皇室や摂関家(せっかんけ)に嫁がせて姻戚関係を強化し、多くの官位や所領を獲得しました。

1167(仁安2)年には、清盛は武士として初めて太政大臣に就任し、公家としても頂点に立ちます。

しかし、数年後には政界を引退して、福原(ふくはら、現在の神戸市)に住まいを移し、日宋(にっそう)貿易に力を入れて莫大な財産を手にします。

その頃の都では、清盛の不在をついて後白河法皇(法皇とは出家した上皇のこと)が平家に圧力をかけはじめていました。それを知った清盛は都に戻り、法皇を幽閉して独裁政治を始めます(1179)。

当時、富も権力も独占していた平家一門は、「平家以外は人ではない」といわれるほどの栄華を極めていました。

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ、京都市東山区)。951(天暦5)年に空也上人が創建し、当初は西光寺といわれた。空也の死後、比叡山延暦寺の僧・中信が六波羅蜜寺と改称した。平安末期、平正盛が付近に阿弥陀堂を建立して以来、平家とつながりができ、清盛の頃は当寺の一帯には、平家一門の屋敷が5200棟あまりもあったという。

清盛の最期と、平家の没落

後白河法皇を幽閉した後、清盛は高倉(たかくら)天皇に嫁がせた娘が生んだ皇子を「安徳(あんとく)天皇」として即位させ、幼い天皇を後見する形で権力の強化を図ります。

しかし、清盛の行動は、他の皇族や公家、武家の反感を買い、かえって平家を孤立させることになりました。

その後、安徳天皇の即位で、天皇になる望みを絶たれた後白河法皇の子「以仁王(もちひとおう)」が、全国の源氏に対して武装蜂起を呼びかけ、自らも挙兵します(1180)。

以仁王の挙兵は失敗に終わりますが、平家打倒の思いは着実に伝わっていきました。各地で反乱が起こるなか、清盛は熱病にかかって亡くなります。

残された一族は、勢いに乗る源氏や朝廷を防ぎきれず、1185(元暦2)年の「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」で滅ぶことになるのです。

平清盛の功績と人物像

平清盛の武器は、高い武力や政治力だけではありません。文化・経済においても偉大な功績を残したほか、人間としての器の大きさも持っていました。

清盛の主な功績と、性格が分かるエピソードを見ていきましょう。

厳島神社を改修

海賊の討伐や、宋との交易で海に縁のあった清盛は、海上の守護神を祀(まつ)る厳島(いつくしま)神社を深く崇拝していました。1164(長寛2)年には、清盛をはじめ平家一門の人々が、経典(きょうてん)を1巻ずつ書写したものを奉納しています。

「平家納経(へいけのうきょう)」と呼ばれるこの経典には、当時の高度な技法できらびやかな装飾が施されており、貴重な文化財として「国宝」に指定されています。

また、海に浮かんでいるように見える厳島神社の美しい社殿は、1168(仁安3)年に清盛が改修したものです。改修後は、多くの皇族や貴族が参詣し、広島の地に都の文化をもたらしました。

平家滅亡後も、厳島神社は武家の信仰を集め、足利尊氏(あしかがたかうじ)や毛利元就(もとなり)、豊臣(とよとみ)秀吉などの有名武将も参詣しています。1996(平成8)年にはユネスコの世界文化遺産に登録され、現在も国内外から多くの参詣者が訪れる人気スポットです。

参考:国宝・世界遺産 嚴島神社 【公式サイト】

清盛神社(広島県廿日市市)。1945(昭和20)年9月に襲来した枕崎台風により、厳島神社の裏手を流れる御手洗川が大規模な土石流を発した。そのとき大量に堆積した土砂で「西の松原」を延長した辺りを埋め立てた。1954(昭和29)年、その場所に、清盛没後770年を記念して創建されたのが清盛神社。前年から、清盛の遺徳を偲び「清盛祭」が始まっている。

日宋貿易に注力

清盛は、日宋貿易に目を付け、発展させたことでも有名です。当時、宋の船は、九州の博多までしか入れず、輸入された物資は陸路で都まで運ばれていました。

船が都の近くまで来られれば、貿易の効率が上がると考えた清盛は、現在の神戸港に当たる「大輪田泊(おおわだのとまり)」を整備し、大型船が入れるようにしたのです。

さらに、宋の商人を、後白河法皇に直接引き合わせ、円滑な取引ができるように計らいます。清盛の努力は、平家に莫大な利益をもたらしただけではなく、日本全体の経済や文化の発展にも大きく貢献しました。

穏やかな性格を示すエピソード

ドラマや小説では、強権的な人物として登場することの多い清盛ですが、実際は慈悲深く、温厚な性格だったと伝わっています。鎌倉時代につくられた説話集には、清盛について次のように書かれています。

・召使いなど身分の低い人も見下さず、一人前の人物として扱った
・冬に幼い従者が寒い思いをしないように、自分の布団(ふとん)で寝かせ、朝も起こさないように気を遣った
・つまらない言動をした人に対して、本人を傷付けないように面白そうに振る舞った
・失敗した人を、頭ごなしに怒鳴りつけるようなことはしなかった

平治の乱の後、源義朝の子どもたち(頼朝・義経ら)を処刑しなかったのも、清盛の優しさを示す証拠です。

源頼朝の助命には、清盛の継母「池禅尼(いけのぜんに)」が関わったとされていますが、敵の跡継ぎを助けるなど、当時の常識ではあり得ないことでした。

武家政権の基礎を築いた平清盛

平清盛は、身分の低さを乗り越えて朝廷に進出し、最高権力者にまで登り詰めた傑物です。武力・政治力・経済力・人間性すべてにおいて優れた能力を発揮して、歴史に名を残しました。

清盛自身は、貴族的な政治を行いましたが、武士でありながら政権を掌握した実績は、後の世を大きく変えることになります。江戸幕府の崩壊まで続く、武家政権の基礎を築いた清盛の生涯を学んでみると、歴史をもっと面白く感じられるかもしれません。

もっと知りたい人のための参考図書

ポプラ社 コミック版日本の歴史16「源平武将伝 平清盛」

 

山川出版社 単行本「『武士の世』を切り開いた政治家 平清盛」

 

小学館 学習まんがシリーズ「武士の世へ! 平清盛」

 

小学館版 少年少女学習まんが 日本の歴史6「源平の戦い」

 

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構成・文/HugKum編集部

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