小牧・長久手の戦いは、誰の対立? 場所も確認
「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」は、誰が、どこで、争ったできごとなのでしょうか。戦いの概要を見ていきましょう。
羽柴秀吉と徳川家康の対立
小牧・長久手の戦いは、1584(天正12)年に羽柴秀吉(はしばひでよし:後の豊臣秀吉)軍と徳川家康(とくがわいえやす)・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍との間で起こった一連の合戦を指します。
戦いが起こる約2年前、天下統一を目前にした織田信長が、家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた「本能寺の変」がありました。このとき、信長の長男・信忠(のぶただ)も光秀軍に攻められて亡くなります。
信長の天下統一事業の後継者として勢力を強めたのが、光秀を討って主君の仇(かたき)を取った羽柴秀吉です。一方、信長の次男・信雄は、勢力を強める秀吉の存在に危機感を覚え、かつて信長と同盟関係にあった徳川家康に協力を依頼します。
両陣営の戦いは、全国各地で繰り広げられ、開戦から終結まで約8カ月かかりました。
戦いが起きた場所は、現在の愛知県
小牧・長久手の戦いの中心地は、尾張(おわり、現在の愛知県西部)です。小牧は信雄・家康連合軍が本陣を構えた小牧山城を、長久手は秀吉軍と家康軍が直接、戦った地を指しています。
秀吉軍も、尾張と美濃(みの、現在の岐阜県)の境付近にある「犬山城(いぬやまじょう)」や「楽田城(がくでんじょう)」を拠点として、連合軍に対峙(たいじ)しました。
現在、激戦地となった長久手には「古戦場公園」が整備され、散策しながら当時の様子を学べます。園内に立つ長久手市郷土資料室では、戦いに関する特別展を開催することもあります。
小牧・長久手の戦いに至った経緯
小牧・長久手の戦いは、信長亡きあとの天下の覇権をめぐる争いの一つです。本能寺の変から、開戦に至るまでの経緯を見ていきましょう。
きっかけは、本能寺の変後の秀吉の台頭
小牧・長久手の戦いは、織田家の一家臣に過ぎなかった秀吉の急激な台頭がきっかけで起こりました。1582(天正10)年、本能寺で信長を倒した明智光秀は「山崎(やまざき)の戦い」で秀吉に敗れ、亡くなります。
その直後、織田家の重臣たちは清須城(きよすじょう:現在の愛知県清須市にあった城、現在は別の場所に再建)にて、新しい織田家当主を決める話し合いに臨みます。「清須会議(きよすかいぎ)」と呼ばれるこの話し合いで、諸将は信長の次男・信雄派と三男・信孝(のぶたか)派に分かれて争いました。
ところが秀吉は、織田信忠の子で、信長の孫にあたる三法師(さんぼうし、後の織田秀信)を推します。三法師は、当時まだ3歳の幼児でしたが、信長の跡継ぎであった信忠の嫡男(ちゃくなん)である以上は「正当な後継者」です。
こうして織田家の新当主は三法師に決まり、秀吉は織田家重臣の中でも力をもつようになりました。さらに秀吉は、信孝と織田家重臣の一人・柴田勝家(しばたかついえ)を「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」にて滅ぼし、自らの地盤を固めていきます。
織田信雄が家康に助けを求めて、戦いに発展
清須会議で秀吉に敗北した信雄は、尾張と伊賀・伊勢(いが・いせ、現在の三重県)の領主となります。柴田勝家と秀吉の争いでは秀吉に味方し、三法師の後見役として安土(あづち)城に入るなど、秀吉と良好な関係を築いていました。
しかし、間もなく秀吉は、信雄を安土城から追い出してしまいます。秀吉に織田家を乗っ取られると恐れた信雄は、自分の力だけでは対抗できないと徳川家康を頼ります。この信雄からの要請は、家康にとって秀吉を追い落とし、自らの勢力を拡大する絶好の機会でした。
1584(天正12)年3月、信雄は秀吉に内通した疑いのある家老3名を処刑します。この行為を口実に、秀吉は打倒信雄を掲げて出兵します。信雄・家康も挙兵し、小牧・長久手の戦いへと発展していきました。
小牧・長久手の戦いの内容と勝者は?
羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍は、1カ所で戦っていたわけではありません。全国各地で、両陣営の諸将による合戦がありました。小牧・長久手の戦いの経過と、その他の合戦の内容・勝敗について見ていきましょう。
小牧・長久手の戦いの経過
1584年3月、秀吉軍の有力武将・池田恒興(いけだつねおき)と森長可(もりながよし)が、尾張の犬山城を落とします。家康は犬山城の南方、羽黒(はぐろ)へ布陣した長可を「八幡林(はちまんばやし)の戦い」で破り、信雄とともに小牧山城に布陣します。
長可の敗戦を聞いた秀吉は、自ら大軍を率いて犬山城に入り、その後、楽田城を本陣として構え、信雄・家康軍と対峙しました。4月になり、秀吉は「ある作戦」を決行します。犬山から南東60〜70kmほどの場所にある家康の本拠地・岡崎城を襲撃するため、密(ひそ)かに2万ほどの大軍を派遣したのです。
しかし、秀吉の作戦は家康に筒抜けでした。家康はすぐに小牧山城から出陣し、犬山城と岡崎城のほぼ中間地点・長久手で秀吉軍と戦うことになります。
長久手の戦いは、家康軍の大勝に終わり、秀吉軍は池田恒興と森長可の2将を失ってしまいました。勝った家康は、素早く小牧山城へ帰還して秀吉の追撃をかわし、しばらくの間、両者はにらみ合うかたちとなります。
両陣営の戦いは、各地で展開された
尾張以外の地域では、両陣営を支持する武将同士の合戦が展開されます。
関西地方では、3月に反秀吉派の紀州根来(きしゅうねごろ)衆・雑賀(さいか)衆らが、秀吉不在の隙をついて、堺・大坂・岸和田城などを攻撃しました。4月上旬には伊勢で、秀吉の弟・羽柴秀長(ひでなが)が織田信雄の松ヶ島城を攻略しています。
遠く讃岐(さぬき、現在の香川県)では、信雄・家康軍に味方した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が秀吉方の十河城(そごうじょう)を攻略し、一帯を平定しています。
もともとは織田信長の側近だった二人の武将・前田利家(まえだとしいえ)と佐々成政(さっさなりまさ)が、能登(現在の石川県)で対決した「末森城の戦い」も有名です。利家は秀吉側、成政は信雄・家康側として戦い、利家の勝利に終わっています。
秀吉と信雄の和睦で、勝敗が曖昧なまま終幕
長久手の戦いに大敗した秀吉は、家康よりも信雄を中心に狙うことにします。秀吉軍に多くの城を奪われた信雄は、家康に断りなく、11月に秀吉との和睦(わぼく)に応じました。
和睦が成立した以上、信雄に協力しているかたちの家康にも、合戦を続ける理由がありません。やむなく兵を引き、長く続いた戦いは終わりました。その後、秀吉は家康をさまざまな手段で懐柔(かいじゅう)し、ついに臣従(しんじゅう)させることに成功します。
しかし、小牧・長久手の戦いに、本当の意味で勝利したのは家康だといわれています。家康は、長久手の戦場で数に勝る秀吉軍を相手に巧みに戦い、味方を勝利に導きました。戦死者の数も、秀吉軍約2,500人、家康軍約550人と約5倍もの開きがあります。
池田恒興と森長可を討ったことも、秀吉に大きなダメージを与える結果となりました。長久手の戦いで見せた家康の実力は天下に広く知れわたり、後に徳川家が政権を手にする足がかりとなったのです。
時代に大きな影響を与えた戦いを知ろう
小牧・長久手の戦いは、織田信長亡き後、天下人(てんかびと)への野望を明らかにした羽柴秀吉と、後に江戸幕府を開いた徳川家康の直接対決でした。
秀吉は、信雄を利用して上手に戦いを終わらせ、権力をもって家康を屈服させます。一方の家康は、実戦での力を世間に見せつけ、秀吉政権下でも別格の存在感を示して天下取りへの準備を始めるのです。
小牧・長久手の戦いを通して、二人の大物が時代を動かすさまをイメージしてみると、歴史への興味・理解がより深まるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部