ハンムラビ法典とは
ハンムラビ法典は、法律を定めた文書の中でも古いものの一つとして知られています。いつ、誰が作ったものなのか見ていきましょう。
紀元前18世紀ごろハンムラビ王が制定
ハンムラビ法典は紀元前18世紀ごろに、バビロン第1王朝のハンムラビ王によって制定された法典です。ハンムラビ法典が作られるよりも前に存在した、アッカド法やシュメール法などをもとに制作されました。
前文・本文・後文で構成され、刑法・民法・商法・訴訟法など内容は多岐にわたり、高さ2.25mにもなる岩石で作られた石碑に、「楔形文字」で内容が記されています。完璧な状態で発見されたわけではなく、一部分が削り取られた形跡があり、翻訳されている条文の数は282条です。
1901~1902年にイランで発掘
ハンムラビ法典が記された石碑は、1901〜1902年にイランの古代都市スーサで発掘されました。バビロニアを征服したエラム人が戦利品として自分たちの国に持ち去ったので、本来あった場所と離れた場所で発見されたのです。
発見したのはフランスの発掘調査チームで、1901年に二つの断片、翌年にもう一片が掘り出されて復元されました。
パリのルーブル美術館にハンムラビ法典碑の現物があり、実際に見られます。東京都池袋の古代オリエント博物館、岡山市立オリエント美術館などにもレプリカがあります。
ハンムラビ王の功績
ハンムラビ法典は、制定した人の名前がそのまま使われています。ハンムラビ王とは、どのような人物だったのでしょう。
メソポタミアを統一した偉大な王
ハンムラビ王は古代オリエントの支配者の1人です。多数の小国が集まっていた、メソポタミアと呼ばれるチグリス川とユーフラテス川流域にある地域を統一した人物として知られています。
メソポタミアは楔形文字や農業など、さまざまな文化が発展した場所です。ハンムラビ王はハンムラビ法典の編纂以外にも、灌漑用水路の建設や商業・交易の整備などを行い、バビロン第1王朝を発展させた功績を持ちます。
ハンムラビ法典の内容
ハンムラビ法典の条文は、刑法・民法・商法・訴訟法など内容が多岐にわたります。代表的なものを見ていきましょう。
刑事や民事などの判例が中心
ハンムラビ法典は法典と呼ばれていますが、法律書というよりはハンムラビ王が過去にどのような判決を下したかをまとめた、判例集に近い内容です。条文の例をいくつか見ていきましょう。
・第24条…強盗にあって命を落とした人がいた場合、犯人が捕まらなくても市や市長が被害者に銀1マナ(金銭)を与える
・第108条…居酒屋の女将が酒の代価である穀物を受け取らずに金銭を受け取り、穀物の代金よりも高い金額を請求した場合、そのことが事実であるなら、居酒屋の女将は水の中に投げ込まれる
・第229条…建物の建設を依頼された大工の手抜き工事によって建物が倒壊し、その家の主人が亡くなった場合は大工も死罪になる
このように刑罰の内容を定めるだけでなく、犯罪被害者の救済や商業活動、製造責任に関する条文も存在します。
「目には目を」の同害報復が有名
ハンムラビ法典と聞いて、「目には目を、歯には歯を」の一文を思い浮かべる人は多いでしょう。実際には、下記のような内容が記されています。
・第196条…もし彼がほかの人の目を傷つけたならば、彼自身の目も傷つけられなければならない
この条文は復讐を推奨するものではなく、報復のやりすぎを防止する側面がありました。当時の社会は身分による差別があったため、身分が低いものほど刑が重くなる点もポイントです。
第196条は上層自由人の身分の人に適用され、上層自由人が一般層自由人の目を損なったり骨を折ったりした場合には、金銭を払えば許されることになっていました。傷つけられた側の身分が低いほど、支払わなければならない金額が低く設定されていたのです。
女性や奴隷の権利も定められる
結婚や再婚など、女性の権利に関する条文もあります。例えば夫が兵士として出征した後の、妻の暮らしに関するものも含まれています。
・第133条…出征した兵士で捕虜となった者の家に蓄えがまだある場合は、その家の妻は再婚が禁止され、違反すれば溺死刑となる
・第134条…出征して捕虜となった者の家に財産がない場合には、その家の妻は再婚してもよい
ハンムラビ法典の前文には、「正義を顕すために、強者が弱者を虐げないために」とあります。また後文には「身寄りのない寡婦や孤児へと正義を戻すため」という一文があり、ハンムラビ法典は立場が弱い人にも配慮されたものだったのです。男性に比べ女性の身分が低かった当時の社会では、革新的なものだったとされます。
ハンムラビ法典が与えた影響
ハンムラビ法典はさまざまな形で、後の世に受け継がれました。後世にどのような影響を与えたのかを見ていきましょう。
王朝滅亡後も後世に受け継がれる
バビロン王朝の滅亡後も、ハンムラビ法典は影響力を持ち続けました。メソポタミアの統治者が交替しても、地域社会を維持し社会を安定させるために役立てられていたとされます。
ハンムラビ王の死後1,000年以上がたった時代にも、ハンムラビ法典を写した断片が発見されており、当時の人々の暮らしに影響を与えていたことが分かります。
聖書にも影響を与える
ハンムラビ法典は、聖書の内容にも影響を与えました。キリストは「もし右の頬を打たれたら、左の頬も向けよ」と訴えたと、宗教的文章「マタイによる福音書」の中で伝えています。
一説によればキリストのこの言葉は、ハンムラビ法典の同害報復の部分を野蛮だと解釈したために、生まれた言葉だとされています。しかし、ハンムラビ法典に弱者の救済を目的としている側面があったことを知れば、決して野蛮な部分だけではないことが分かるでしょう。
ハンムラビ法典は社会正義のために作られた
ハンムラビ法典は罪人にどのような罰を与えるかだけでなく、弱者が暮らしていけるように配慮した内容となっています。商業活動や製造責任に関する内容や、女性の権利や犯罪被害者を救済するための法など、現代でも通用する考え方をいち早く取り入れていました。
国を支配する人物が変わっても破棄されることなく保存され、後世に影響を与え続けたことを考えると、それだけ優れた部分があったのだと考えられます。「目には目を」という部分がクローズアップされがちですが、ハンムラビ法典が社会正義のために作られた法典だという側面をしっかりと理解しておきたいものです。
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構成・文/HugKum編集部