「ワシントン会議」について、歴史の授業などで聞いたことがあるかもしれません。しかし、その内容について子どもに質問されても、答えられない人が多いのではないでしょうか? いつ、どこで、何の目的で開催されたのか、分かりやすく解説します。
ワシントン会議とは
ワシントン会議について、内容を詳しく把握していない人も多いでしょう。まずは、ワシントン会議の概要について解説します。
1921年に開催された国際会議
ワシントン会議とは、当時のアメリカ大統領ハーディングの提唱で、1921(大正10)年11月~22年2月にアメリカ・ワシントンD.C.で開催された国際会議です。アメリカ・イギリス・イタリア・フランス・日本の五大国と、中国・ベルギー・オランダ・ポルトガルを加えた9カ国が参加しました。
アメリカとイギリスが主導権を持ち、日本の中国への進出を抑え、各国の軍備縮小のために開催されました。会議の場では、第一次世界大戦以降の、東アジアにおける相対的な安定を図る「ワシントン体制」が決議されたのです。
ワシントン会議の背景
ワシントン会議の背景を詳しく解説します。アメリカには、第一次世界大戦後の日本の勢力拡大を抑制したいという思惑があったのです。
勢力を拡大する日本
1914(大正3)年から18年まで続いた第一次世界大戦は、ヨーロッパ戦争が発端でした。その後、ロシアやアメリカ、日本などが参戦し、同盟国と連合国の大きな戦いとなっていきます。同盟国は以下の4カ国です。
- ドイツ帝国
- オーストリア
- ブルガリア
- オスマン帝国
連合国軍には、同盟国を脱退したイタリアが参戦したため、以下の10カ国で構成されました。
- イギリス
- フランス
- ロシア帝国
- 日本
- アメリカ
- セルビア
- モンテネグロ
- ルーマニア
- 中国
- イタリア
1902(明治35)年に締結した「日英同盟」で、日本はイギリスが2カ国以上と戦う際には、イギリスの味方として参戦するとしていたため、連合国軍に加わっています。
しかし、日本の参戦には、アジアにおけるドイツの根拠地へ進出するという目的もありました。ヨーロッパ各国が戦っている隙に、青島(チンタオ)と山東(シャントン)省をドイツから奪い、さらに赤道以北のドイツ領南洋諸島の一部も占領しています。
ドイツに宣戦布告した日本は、ドイツの中国における権益を手に入れるため「二十一カ条の要求」を突きつけ、勢力を拡大していったのです。
日本を抑制したいアメリカ
中国への進出を果たして、東アジアや太平洋地域で勢力を拡大していく日本を、アメリカは警戒するようになります。1915(大正4)年の二十一カ条の要求で、日本が中国から得る利権と、17年に日本とアメリカが中国分割を互いに承認した「石井・ランシング協定」など、第一次世界大戦後では、日米の中国に対する利害が対立しました。
このまま日本が中国や太平洋地域に進出を続ければ、さらにその勢力を拡大させてしまうと恐れたアメリカは、東アジアの国際秩序を形成するとして、ワシントン会議を開催したのです。
ワシントン会議の内容
ワシントン会議では、東アジアの勢力均衡と軍事縮小のために、さまざまな条約が締結されました。会議で合意を得た「三つの条約」について解説していきます。
海軍軍縮条約
正式な名称は「海軍軍備制限に関する条約」です。アメリカ・イギリス・イタリア・フランス・日本の5カ国間で決められ、世界で初めての軍事縮小条約としても知られています。
この条約では、主力艦の合計基準排水量を、アメリカとイギリスは52万5000t、日本は31万5000t、フランスとイタリアは17万5000tに制限しています。アメリカ・イギリス・日本の3カ国は、現有海軍力の約40%を廃棄しましたが、廃棄戦艦のほとんどが旧式のものでした。
また海軍軍縮条約には、締結から10年間の主力艦建造禁止も含まれています。ただし、会議で条約内に織り込まれなかった巡洋艦(じゅんようかん)・駆逐艦(くちくかん)・潜水艦の増強については、競争が激化しました。
四カ国条約
四カ国条約とは、イギリス・アメリカ・フランス・日本の4カ国間が、太平洋の現状維持に関するルールを決めた条約です。太平洋の各国における植民地や委任統治などの領地に関しては、現状維持としました。各国の領土や権益を尊重し合い、紛争が起きた際には、共同会議による解決・侵略への措置を約束したのです。
四カ国条約には、日本が中国へ進出するきっかけとなった、日英同盟の破棄も含まれました。ワシントン会議を提唱したアメリカには、日英同盟を破棄させる目的もあったため、その目標を達成したといえるでしょう。
当初、アメリカ・イギリス・日本の3カ国間で、裏の交渉を続け、日英同盟の軍議的義務などを取り払った協議条約としてまとめました。この3カ国以外にフランスを加えたのは、アメリカが日英間における政治協定の同盟色を弱めるためでした。
九カ国条約
九カ国条約とは、中国の主権・独立・領土の尊重など、中国に関する決めごとを定め、中国での利益を1国が独占しないことを目的としています。この条約によって、アメリカが主張してきた、中国における門戸開放政策が承認されたのです。
また、排他的権益を新たに獲得することの禁止が決定したため、石井・ランシング協定は破棄され、旧ドイツ権益を日本は返還しました。山東問題については、日中両国限りの問題と日本が主張し、ワシントン会議では討議されませんでした。
ワシントン会議に関わった幣原喜重郎とは
ワシントン会議には、当時、海軍大臣であった加藤友三郎(ともさぶろう)主席全権とともに、幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が全権委員として関わりました。信頼構築を要とした外交を続け、戦後の日本に大きく貢献した幣原喜重郎について紹介しましょう。
当時の駐米大使だった
幣原は、1897(明治30)年に、外交官として初めて韓国・仁川(インチョン)領事館へ勤務します。その後、ロンドン総領事館、韓国の釜山(プサン)領事館勤務を経て、1914(大正3)年6月にオランダ公使兼デンマーク公使になりました。
15年10月に帰国後、第2次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣で、外務次官に就任します。臨時外交調査委員会の幹事としても活躍していたため、第一次世界大戦の戦時外交やパリ講和会議(1919)などの処理も行っていました。
19年9月に駐米大使となり、11月にワシントンに着任します。ワシントン会議では、全権委員として信頼構築優先の幣原外交を着実に進め、四カ国条約と中国問題に尽力しました。
イギリスは、四カ国条約締結の際、当初、変更していない日英同盟の内容にアメリカを加えただけの「日英米三国協商」を提出しましたが、幣原は日英同盟の軍事色を払拭(ふっしょく)し、紛争が起きた場合には、関係国間において双方で協議する案を提出しました。
最終的には、幣原が提出した案に、フランスを加えた4カ国間で協議が進められて、四カ国条約は調印されたのです。
1924年には外務大臣に就任
1922(大正11)年のワシントン会議閉会後、帰国した幣原は、持病を理由に駐米大使を辞任すると同時に、待命休職しました。しかし、24年に義兄の加藤高明(たかあき)の第1次内閣が成立すると、外務大臣に任命されます。
その後も、第2次加藤高明内閣と第1次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣の約2年10カ月、29年7月の浜口雄幸(おさち)内閣から第2次若槻礼次郎内閣までの約2年5カ月を外務大臣として務めました。外務大臣としての幣原は、「ワシントン体制」の維持と「幣原外交」を推し進めていきます。
ワシントン会議後の主な軍縮会議
ワシントン会議後にも、軍を縮小するための会議が行われました。1923年以降に調印された、二つの軍縮会議について解説します。
1928年不戦条約
1928(昭和3)年に、フランス・パリで締結された「不戦条約」は、戦争放棄と国際戦争の平和的解決を取り決めた条約です。アメリカ国務長官ケロッグと、フランス外相ブリアンの提唱によったことから、「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれています。
国際紛争の解決に、武力行使の一切の禁止と、国の政策として戦争をしないことを決めましたが、内容が抽象的なこともあり、強制力はほとんどありませんでした。そのため、29年以降の「世界恐慌」によって、軍事力を用いて不況から脱却しようとする国が出てきてしまいます。
31年には、日本が経済拡大のために「満州事変」を起こし、35年には、イタリアがエチオピアへの侵略を開始しました。
1930年ロンドン海軍軍縮会議
「ロンドン海軍軍縮会議」は、新たな保有勢力比を制定するために、イギリスが提唱し、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの5カ国が参加しました。
日本は、海軍軍令部部長の加藤寛治(ひろはる)が主張する対英米7割の確保を方針とし、首席全権には若槻礼次郎が任命されています。条約では、当初、目標としていた7割に対して、大型巡洋艦の比率は6割でしたが、巡洋艦・駆逐鑑・潜水艦を合計した統括的な割合は6.97となったため、当時の首相の浜口雄幸が調印しました。
この条約をめぐって国内では、海軍司令部の反対を押し切って、政府が批准(ひじゅん)したことに対して、「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)問題」とされ、幣原外交への反感も高まりました。
新しい国際秩序を形成したワシントン会議
1921年に開催されたワシントン会議は、第一次世界大戦後の国際社会の新しい秩序「ワシントン体制」を形成した国際会議です。日本からは、信頼構築を基本とする幣原喜十郎が全権委員として関わりました。
ワシントン会議でのアメリカの目的は、第一次世界大戦で中国に進出し勢力を拡大させた日本を抑制すること、軍事を縮小することでした。それにより、日本は利権を放棄することになりましたが、国際社会において孤立するリスクを軽減できたともいえるでしょう。
この時代を深く学ぶための参考図書
小学館版学習まんが 世界の歴史16「第二次世界大戦」
歴史教科書で有名な山川出版社の編集協力を得て誕生した「学習まんが世界の歴史」。第16巻では、20世紀前半のヨーロッパを中心に扱っています。ファシズムや共産主義革命などの台頭により、ワシントン体制が崩壊し、第二次世界大戦へと突入していく近代世界史の流れが理解できます。
小学館版少年少女学習まんが 日本の歴史「戦争への道 大正時代・昭和時代前期」
オールカラーで人物中心のストーリーまんがによって、歴史の流れがよくわかります。NHK大河ドラマなどの時代考証も務める「時代考証学会」が総監修。政党内閣の成立やその後の軍国主義、敗戦までの重要な日本近現代史とともに、文学や社会運動などの大衆文化についても取り上げています。32ページにも及ぶ受験参考書並みの巻末資料も、この時代の体系的な把握に役立ちます。
ちくま新書「避けられた戦争――千九二〇年代・日本の選択」
ワシントン体制が構築された1920年代の日本は、国際連盟の常任理事国に選ばれ、不戦条約にも調印し国際平和をリードする国のひとつでした。それが30年代には一転、日本は国際協調を捨て戦争への道を歩んでいきます。国際関係史の知見から、1920年代以降の日本に戦争を避ける選択はなかったのかを検証する、知的洞察に満ちた歴史研究の一冊です。
構成・文/HugKum編集部