生徒の92%が進路を決めるまで通塾。引きこもりで精神的に落ち込んでいたり、週に一度の授業にもきちんと通えなかった子でも学力とメンタルの状態に応じた完全個別指導によって大学に入り、就職して、いきいきと働いている子も多いという。講師のなかにはキズキ共育塾の理念に賛同した有名大学の元教授なども在籍する。
目次
「何度でもやり直せる社会」を掲げる社会起業家。その原点は過酷な子供時代に。
▼聴覚過敏・整理整頓が苦手…コンプレックスのかたまりだった子供時代
子どもの頃、運動がとにかく苦手でほとんどのことがうまくできなかった。小学校の6年間、水泳教室に通ったのに、クロールで25メートル泳げない。それが恥ずかしかった。
聴覚過敏で、物心ついた時から小さな音でも気になってしまう体質だった。聴覚過敏で、物心ついた時から小さな音でも気になってしまう体質だった。運動会のピストルの音が怖くて仕方なかった。大人になってからも、隣家の目覚まし時計の音で起きてしまうこともあった。
整理整頓できず、いつも先生に叱られていた。ひとつの物事に集中するとほかのことに対して一切気が回らなくなり、同級生から「無視してる」と言われて、いじめられた――。
「自分だけ変わっているということは、子どもの時からわかっていました。普通の人と違って特別にダメなところがあるって。いつもなんでだろうって思っていましたね」
現在、キズキグループ(株式会社キズキ/NPO法人キズキ)の代表を務める安田祐輔さんは、子ども時代をこう振り返る。
キズキグループの事業の中心は、安田さんが2011年に設立した「キズキ共育塾」。「何度でもやり直せる社会をつくる」をテーマに掲げ、高校中退・不登校・ひきこもりなど、何らかの事情で既存の学校システムからドロップアウトしてしまった若者を対象に個別指導教育を行う。
現在、東京に3校、神奈川に1校、大阪に1校を構え、オンラインでの受講も可能。生徒数は約500人。キズキ共育塾でサポートを得ながら、主には中学生から20代前半までの生徒が高校受験、大学受験などを目指し、学び直している。
なぜ、安田さんがいわゆる「レール」から外れてしまった子どもたちのための教育事業を始めたのか。まずは安田さんの人生を振り返ろう。そこに原点がある。
▼居場所がなかった小学生時代。それは「発達障害」のせいだった
安田さんが大人になってわかったのは、自分が「発達障害だ」ということ。「特別に何かがダメ」ということではなく、障害に苦しんでいたのだ。しかし、1983年生まれの安田さんが小学校に通っていた頃にはまだ発達障害という言葉がほとんど認知されていなかった。しかも安田さんは知的レベルにはまったく問題がなく、学校の成績も「中の上ぐらい」だったから、なおさら障害がわかりづらく、誰からもサポートを受けることができなかった。
「学校教育の課題は、個人を尊重せずにこうでなきゃいけないっていうことを押し付けることだと思うんです。そのルールから外れると、罰として掃除をさせたり、怒られる。僕もけっこう掃除をさせらされましたけど、それが本当にその子のためになっているか、効果があるかは考えていないと思う」
発達障害の影響で級友とうまくコミュニケーションを取れなかった安田さんにとって教師の理解を得られないのはつらい状況だったが、少年はさらなる苦難を抱えていた。
「小さい時から両親の夫婦げんかがすごかったんです。3歳くらいの頃から、親がけんかしているのを憶えていますし、こういうことで揉めているんだろうなということも、なんとなくわかっていました。親は僕が理解していないと思っていんでしょうけど。だから家にいて居心地がいいと感じたことはありません。父親は子どもに関心がなかったし、途中から家に帰ってこなくなりました」
▼ピアノに没頭する日々
学校にも、家にも居場所がないなかで、安田さんは「大好きだった」ピアノに没頭していた。学校ではいじめの理由にもなった集中力がピアノの練習には役に立ち、ピアニストを目指そうと思うほどぐんぐん上達した。
「得意なことがひとつもないと自分の存在価値にもっと悩むと思うんですけど、ピアノはすごく得意だったから、自分が劣っている部分に対する自己否定感は緩和されていました。母親も、僕に対してダメなところをなじるようなタイプではなくて、運動ができなくてもピアノができるからいいんじゃないっていう人だったので、自己否定感が生まれることはなかった。それは救いでした」
ただ、壮絶な夫婦げんかの果てに、小学校高学年になると母親も不在がちになったと安田さんの著書『暗闇でも走る』に記されている。
中編につづく
取材・文/川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て、現在はジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。記事やイベントで稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。
撮影/五十嵐美弥