源義経は何をした人? 多くの伝説が残る武将の生涯を詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】

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源義経は、源平合戦で活躍した源氏の武将です。戦功をあげながら悲惨な運命を辿ったことが人々の同情をさそい、後世に多くの伝説が残されました。源義経がどのように戦い、散っていったのか、生い立ちから戦歴、かかわった人物まで幅広く解説します。
<上画像は、白旗神社(神奈川県藤沢市)の源義経公武蔵坊弁慶公之像>

源義経の生涯

源義経(みなもとのよしつね)」の生涯には、兄・源頼朝(よりとも)の存在が大きくかかわることになります。生い立ちから戦歴、そして最期を迎えるまでの、義経の生涯を見ていきましょう。

寺に預けられた幼少期

義経は1159(平治元)年に、源義朝(よしとも)の九男として生まれました。母親は、側室の常盤御前(ときわごぜん)で、三男の頼朝は腹違いの兄です。幼い頃は「牛若(うしわか)」「九郎」「遮那王(しゃなおう)」などと呼ばれていました。

義経が生まれて間もなく、父・義朝が「平治(へいじ)の乱」で平清盛(たいらのきよもり)に敗れて亡くなってしまいます。義経も、常盤御前が生んだ2人の兄とともに清盛に捕まり、殺されそうになりました。しかし、清盛は出家することを条件に、幼い兄弟の命を助けます。

7歳の頃、京都の鞍馬寺(くらまでら)に預けられた義経は、自分の生い立ちを知って平家打倒を誓います。

密(ひそ)かに武術を磨き、16歳頃に寺を出て奥州平泉(おうしゅうひらいずみ、現在の岩手県平泉町)の豪族・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護(ひご)を受けました(1174)。

なお、義経が平泉に向かった正確な理由は分かっていません。

中尊寺金色堂覆堂(岩手県平泉町)。国宝の「金色堂」は、覆堂内のガラスケースに収められている。中尊寺創建当時の姿を今に伝える金色堂は、1124(天治元)年、初代藤原清衡(きよひら)によって上棟された。当時、平泉は京都に次ぐ日本第二の都市であった。

兄の頼朝と合流し、平家を滅ぼす

1180(治承4)年、頼朝が伊豆で平家打倒を掲げて挙兵すると、義経は頼朝との合流を目指して、平泉を出発します。2人は駿河国(するがのくに、現在の静岡県)の黄瀬川宿(きせがわじゅく)で対面を果たし、ともに平家を滅ぼすことを誓いました。

義経は、鞍馬寺や平泉で積んだ修行の成果を発揮して大活躍します。まずは、都から平家を追い出して我が物顔に振る舞っていた木曽義仲(きそよしなか)を敗走させ、名をあげます(1184)。

その後も源氏の将として源平合戦に参加し、平家滅亡の立役者となりました。

頼朝に追い詰められ自害

合戦で大きな成果をあげた義経に対して、さまざまな理由から、頼朝は冷淡な態度を取ります。都から戻ってきた義経を鎌倉に入れないばかりか、反逆者として追討を命じるのです。

兄に追われる身となった義経は、藤原秀衡を頼って平泉へ逃亡します(1187)。しかし、間もなく秀衡は亡くなり、息子の泰衡にも裏切られたことから、義経は31歳の短い生涯を終えました(1189)。

義経は頼朝の弟という立場に甘えていたのか、御家人(ごけにん)たちを見下すような言動があったようです。また、後白河(ごしらかわ)法皇が世間知らずの義経を使って、頼朝の勢いを削(そ)ごうとしていたとも考えられています。

御家人に支えられ、朝廷から独立した武士政権を築こうとした頼朝にとって、武士の結束を乱す義経は、邪魔な存在だったのかもしれません。

「判官びいき」の由来に

弱い者に肩入れする様子を「判官(ほうがん・はんがん)びいき」といいます。この言葉は、義経が由来とされていて、判官とは、義経が後白河法皇から賜(たまわ)った職位のことです。

義経は「九郎判官(くろうほうがん)」などと呼ばれ、判官といえば義経のことを指すようになります。兄の頼朝に冷遇され、若くして亡くなった義経の運命は、ドラマティックな物語として後世に伝わり、人々の同情をさそいました。

立場の弱い義経に感情移入する人も多く、弱者を応援したくなる感情やその行為を「判官びいき」と表すようになったのです。

さまざまな伝説を生んだ源義経の戦歴

源義経(イメージ)

 

源義経は、実戦経験がほとんどなかったにもかかわらず、戦場で抜きんでた能力を発揮しました。評判はまたたく間に広がり、さまざまな伝説を生みだしたほどです。

源平合戦で見せた、義経の戦いぶりを紹介します。

崖からの奇襲「一ノ谷の戦い」

木曽義仲を敗走させた義経は、福原(ふくはら、現在の兵庫県神戸市)で再起を図る平家を討つべく出陣します。

義経は、福原の西にある一ノ谷(いちのたに)で平家軍を攻撃しますが、うまくいきません。一ノ谷は海と断崖に挟まれた地形で、守る側に好都合だったのです。

そこで義経は、崖の上から平家の背後をつくことを思い付き、地元の猟師に道を尋ねました。猟師は義経に、鵯越(ひよどりごえ)にシカが通る道があると教えます。義経はシカが通れるならウマも通れると考え、奇襲を決行したのです(1184)。

近年は、鵯越を通って進軍したのは別の武将で、義経は作戦を考えただけとの説もあります。いずれにしても、義経の作戦が、源氏軍の勝利につながったことは確かといえるでしょう。

嵐を突破「屋島の戦い」

一ノ谷で敗れた平家は船に乗り、讃岐国(さぬきのくに、現在の香川県高松市)の屋島(やしま)へ逃げます。源氏軍も、摂津(せっつ、現在の大阪府)から船で四国へ渡ろうとしますが、暴風雨に見舞われてしまいました。

他の武将たちが出航を見合わせるなか、義経は追い風を利用すれば速く到着できると主張し、わずかな手勢を引き連れて強引に船を出します。深夜に摂津を出た義経は、翌朝には阿波国(あわのくに、現在の徳島県)勝浦に上陸します。

当時の常識では、考えられないほどのスピードで海を渡った義経は、陸路を通って進軍し、背後から平家軍を攻撃しました。

このときの義経の軍勢は150人程度でしたが、周辺の家に火をつけて、あたかも大軍が来たかのように見せかけています。相手の裏をかく義経の戦略が功を奏して、またも平家は敗れ去るのです(1184)。

海戦でも負けない「壇ノ浦の戦い」

屋島を追われた平家軍は、長門国(ながとのくに、現在の山口県)の彦島(ひこしま)まで退却します。海上戦が得意な平家は、およそ500艘(そう)の船に分乗して、関門(かんもん)海峡付近の壇ノ浦(だんのうら)で源氏軍を迎え撃ちました。

義経は840艘ほどの船団を率いて、海戦の指揮を執ります。当初こそ平家軍が優勢でしたが、徐々に源氏が押し返し、数時間で勝敗が決しました(1185)。

この戦闘で、義経は相手側の船の漕ぎ手を狙い撃ちする卑怯な手を使ったとの説がありますが、事実かどうかは分かっていません。

近年では、義経は不慣れな海戦に備えて、周辺の水軍(すいぐん)を味方に引き入れていたほか、平家の武将を寝返らせるなど、その周到な準備を評価する説もあります。

壇ノ浦合戦場址銅像(山口県下関市)。義経(左)が揺れる船から船へと飛び移るいわゆる「八艘飛び」姿、平知盛(右)は錨(いかり)を担いで海へ身を投げ入水しようとする姿、と明暗を分けた銅像といえる。国道9号と関門海峡(写真奥)に挟まれた立地の「みもすそ川公園」にある。

源義経を支えた人物

実の兄から追われて孤立を深めていく源義経にも、信頼できる味方がいました。終生、義経を支え続けた人物を2人紹介します。

藤原秀衡

藤原秀衡は、平泉を拠点に、東北地方を支配していた奥州藤原氏の当主です。

秀衡は、鞍馬寺を出た義経を庇護し、武将として育てました。義経が源頼朝の元に向かうときには、部下を付けて送り出しています(1180)。

頼朝が放った追っ手から義経をかくまったのも、秀衡でした。秀衡は義経の能力を評価しており、死ぬ間際には息子たちに、義経とともに頼朝に対抗するように言い残しています。

しかし、秀衡の願いは届かず、間もなく義経も秀衡の後を追うことになりました(1189)。

武蔵坊弁慶

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)は、義経の手足となって活躍したと伝わる僧兵です。出自や義経の家来になった経緯は不明ですが、義経に対する忠義心と豪快な戦いぶりが伝説となって語り継がれています。

平泉へ逃げる途中、白紙の「勧進帳(かんじんちょう)」を読んで関所を通過したエピソードは、歌舞伎の人気演目になりました。

安宅之関跡(石川県小松市)。義経と弁慶らが山伏に扮して奥州平泉を目指し通りかかったとき、義経だと見破り確信したものの、関守・富樫泰家(とがしやすいえ)は一行を無事に通過させた…という逸話が歌舞伎になる。現在は安宅住吉神社境内に位置し、1939(昭和14)年、「安宅之関跡」として、石川県史跡に指定されている。

 

また、義経が藤原泰衡(秀衡の息子)に襲われたときは、切腹の時間を稼ぐために館(やかた)の外で敵の弓を防ぎ続け、立ったまま亡くなったともいわれています。

立派な体格と強い力を持つ弁慶は「豪傑」の象徴となり、「弁慶の泣きどころ」や「内弁慶(うちべんけい)」など、弁慶にちなんだ言葉も生まれました。

源義経にまつわる伝説

源義経が歴史の表舞台に登場した年月は短く、最後は罪人となったこともあって、詳しい人物像は明らかになっていません。

しかし、そのはかない運命が人々の記憶に強く残り、義経をテーマとするさまざまな物語が生まれました。義経にまつわる有名な伝説を紹介します。

天狗と修行した

義経は大変、身軽で、敵の攻撃もあっさりとかわしたといわれています。寺に預けられた義経が、どうやってそのような技を身に付けたのか、当時の人も不思議に思ったことでしょう。

義経が幼少期を過ごした鞍馬寺には、鞍馬山に住む大天狗(だいてんぐ)が義経に武芸を伝授したといわれています。源氏の子であるために、寺でいじめられていた義経をあわれみ、大天狗が兵法や武術を教えたというのが伝説の内容です。

義経が修行したとされる鞍馬山の「僧正ガ谷(そうじょうがたに)」は、巨大な木の根が地表を這う神秘的な場所です。天狗がいたかどうかはともかく、平家打倒に燃える義経は鞍馬山の地形を利用して、鍛錬に精を出したのかもしれません。

僧正ガ谷の木の根道(京都市左京区)。鞍馬寺本殿から、貴船神社までの山越えハイキングコース(1.5㎞)途中にある。岩盤が固いため、木の根が地表を這っている。さらに山奥へ進むと、牛若が大天狗と出会ったという「僧正ガ谷不動堂」がある。平家打倒の秘策を授かった、らしい?

チンギス・ハーンになった

義経には、平泉を脱出して北海道に逃れ、後にチンギス・ハーンになったとの伝説もあります。

義経が北海道に向かったとする説は室町時代からあり、江戸時代には学者の林羅山(はやしらざん)や新井白石(あらいはくせき)、水戸藩主・徳川光圀(みつくに)といった著名人も提唱しています。

義経を、チンギス・ハーンと結び付けたのは、幕末に来日したドイツ人医師のシーボルトです。

彼は、義経が死んだとされる年以降にチンギス・ハーンが登場していることや、日本独自の武器「長弓(ちょうきゅう)」を使っていたことなどを、根拠としてあげています。

伝説の真偽はともかく、名だたる学者や殿様が、こぞって義経の生存を提唱した背景には、やはり「判官びいき」の感情があったのかもしれません。

悲劇の武将、源義経

源義経の生涯は、大半が謎に包まれており、現在に伝わるエピソードも、ほぼ創作と考えられています。しかし、義経が凡庸な武将だったなら、伝説すら生まれなかったでしょう。

また、源頼朝が義経の有り様を許していたら、御家人たちとの結束が崩れて鎌倉幕府が成立しなかった可能性もあります。義経は良くも悪くも、人々の記憶に強烈に残った武将なのです。

悲劇の武将・義経について、さまざまな角度から眺めてみると、新たな発見があるかもしれません。

もっと知りたい人のための参考図書

小学館版  学習まんが  少年少女人物日本の歴史「平氏をたおした悲劇の英雄 源義経」

 

日本史探偵コナン6 鎌倉時代「五条大橋の相棒」

 

ミネルヴァ書房「伝説になった悲劇の若武者 源義経」

 

小学館  学習まんがシリーズ レキタン!5「源義経と安宅の関」

 

日本放送出版協会 単行本 宮尾登美子「義経」

 

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構成・文/HugKum編集部

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