「生類憐みの令」を制定したのは誰? 保護対象とその顛末についても解説【親子で歴史を学ぶ】

生類憐みの令は、江戸時代に実施された有名な政策です。その名の通り、生き物を大切にする内容ですが、対象の生き物やその結果まで詳しく知る人は少ないかもしれません。生類憐みの令を発した為政者の思いと政策の内容、世間に与えた影響を解説します。

生類憐みの令は、誰が、何のために制定した?

「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」は、いつ、誰が制定したのでしょうか。制定の理由もあわせて見ていきましょう。

5代将軍徳川綱吉が制定した法令

生類憐みの令は、江戸幕府5代将軍徳川綱吉(とくがわつなよし)が発した、動物愛護を目的とする政策の総称です。「生類憐みの令」という名の、一つの法令があったわけではない点に注意しましょう。

生類憐みの令は、1685(貞享2)年に出された「犬や猫をつないではいけない」「乗り心地や見た目をよくするために、馬の筋をのばしてはいけない」などのお触れから始まったと考えられています。

1687(貞享4)年には、重病の牛馬を捨てることを禁じたり、飼い犬情報を帳簿に記載したりすることが定められました。その後も、綱吉は動物愛護に関するお触れを次々に発します。将軍家台所での鳥類・魚介類などの禁止や、釣り・狩猟の禁止のほか、害虫や害獣の殺生(せっしょう)の禁止など、現在では考えられないような内容も含まれていました。

制定した理由については諸説ある

生類憐みの令制定の理由としてよく知られているのが、世継ぎを授かるための願掛け説です。綱吉は1683(天和3)年に世継ぎを亡くして以来、子どもに恵まれませんでした。

綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)が帰依(きえ)している幕府に仕える僧侶・隆光(りゅうこう)が、世継ぎができない原因を前世での殺生にあると占います。そして、戌(いぬ)年生まれの綱吉に、犬を大切にするよう進言したとされています。

ただし、この説には明確な根拠はありません。綱吉は、勉強熱心な将軍としても知られており、政策にはしっかりとしたビジョンがあったはずだと考える人もいます。

当時は、口減らしのために子どもや老人を捨てたり、深い理由もなく他人を斬り捨てたりする行為が普通に行われていました。綱吉は、人々に殺生の愚かさを教え、荒れた世の中を変えようとしたとも考えられています。

とはいえ、いずれの説も推測に過ぎず、綱吉の人物像や政治への向き合い方を含め、現在も研究が続いているのが実情です。

護国寺「観音堂(本堂)」(東京都文京区)。1681(天和元)年、綱吉が生母・桂昌院の発願により堂宇を建立、翌年完成した。この観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、大震災・戦災でもその姿を変えず、雄大さは都内随一のものと賞されている。
護国寺「観音堂(本堂)」(東京都文京区)。1681(天和元)年、綱吉が生母・桂昌院の発願により堂宇を建立、翌年完成した。この観音堂は、元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、大震災・戦災でもその姿を変えず、雄大さは都内随一のものと賞されている。

生類憐みの令で、保護の対象になったのは?

生類憐みの令で、保護対象とされた生き物は多岐に渡ります。主な生き物と保護の内容を紹介します。

特に保護した動物は「犬」「牛」「馬」

生類憐みの令において、特に手厚く保護された動物は犬・牛・馬です。犬については、「犬同士のけんかをすぐにやめさせる」「大八車(荷車のこと)や牛車でひかないように注意する」など、人が犬の死傷に気を遣う内容のお触れが出されています。

人に守られるようになった犬は、たちまち数を増やし、町は野犬だらけになります。すると、幕府は江戸近郊の四谷(よつや)や中野(なかの)に犬小屋を設けて、犬を収容することにしました。大名たちは犬小屋建設に駆り出され、町民は犬の生活費を負担させられます。

中野御用御屋敷(犬小屋)跡(東京都中野区)。「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれた。1695(元禄8)年に建設を開始、犬小屋全体の広さは最大約29万坪にもおよび、収容された犬は約8万2000匹余だという。所管は若年寄。モニュメントは中野区役所前にある。
中野御用御屋敷(犬小屋)跡(東京都中野区)。「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれた。1695(元禄8)年に建設を開始、犬小屋全体の広さは最大約29万坪にもおよび、収容された犬は約8万2000匹余だという。所管は若年寄。モニュメントは中野区役所前にある。

荷運びや交通手段として使われていた牛馬には、重い荷物を背負わせられなくなり、病気やけがで使えなくなっても「捨ててはいけない」とのお触れが出ます。このため、人々の負担は増えるばかりでした。

子どもや老人も保護対象

生類憐みの令の保護対象には、子どもや病人、老人などの社会的弱者も含まれています。1687(貞享4)年のお触れには、「捨て子があれば地域の者が保護して養い、望む人がいれば養子にせよ」とあります。

捨て子の報告や養子縁組の届け出も不要とされ、子どもの命を守ることを優先してよいとしたのです。当時は、貧しさのために労働力にならない赤ちゃんや病人、老人を捨てざるを得ない家庭がたくさんあったため、弱い人間も保護対象とした生類憐みの令は、綱吉なりの社会福祉政策の一環だったとも考えられています。

保護は、魚貝や虫にも及んだ

生類憐みの令では、犬・牛・馬以外の生き物についても殺生や捕獲を禁じています。鳥や亀、松虫などを鑑賞用に飼うことは禁じられ、金魚は幕府指定の池に放されました。

ヘビ使いは営業を許されず、釣り船も禁じられます。田畑を荒らす害鳥や家を荒らすネズミも殺してはならず、蚊(か)に刺されても我慢しなくてはなりませんでした。

違反した者への取り締まりも厳しく、死罪や流罪といった厳罰に処せられる人も少なくなかったようです。

生類憐みの令、制定後の流れ

徳川綱吉の意志で始まった生類憐みの令は、その後、どうなったのでしょうか。制定後の流れを簡単に紹介します。

規制内容が次第にエスカレート

生類憐みの令は当初、むやみに殺生させないための訓示的なものでした。お触れにも「殺してはいけない」「捨ててはいけない」などとあるだけで、理由や具体的な対処法は示されていません。

このため、制定後、しばらくは守る人が少なく、守らせるための規制が追加されていきました。規制内容は次第にエスカレートし、厳しい取り締まりに人々の暮らしがおびやかされる、本末転倒の状態となったのです。

子どもの病気を治すために、ツバメを殺した親子が斬首に処せられたり、思わず蚊を叩いた町人が投獄されたりしたとの記録もあります。綱吉の没後、生類憐みの令に違反したとして捕らわれていた8,000人以上もの人が赦免(しゃめん)されたとも伝わっています。

世を安らかにしたかった将軍の理想に反し、人々を苦しめる結果となった生類憐みの令は、「天下の悪法」とされました。

人間以外の生類ばかりが得をした?

綱吉没後に、生類憐みの令は廃止

綱吉は自分の死後も、生類憐みの令を続けたいと願います。しかし、人々の負担があまりにも大きく、犬小屋の維持管理のために幕府の財政もひっ迫していました。

1709(宝永6)年、6代将軍に就任した徳川家宣(いえのぶ)は、側近の間部詮房 (まなべあきふさ)や新井白石 (あらいはくせき)らの提言により、生類憐みの令を廃止します。

犬小屋をはじめとする多くの規制がなくなり、人々は安堵(あんど)しました。ただし、牛馬の遺棄の禁止や、捨て子・病人の保護など、一部の政策は残り、継続されています。

生類憐みの令は、悪法だったのか

犬小屋建設や過剰な取り締まりなど、生類憐みの令にともなう政策の多くは、人々の恨みを買ったため、政策自体はもちろん実施した徳川綱吉も、政治能力に欠ける将軍と評価されてきました。

しかし、綱吉の死後も一部の政策は続いたことから、生類憐みの令が悪法だったと言い切るのは早計かもしれません。近年は、綱吉の人間性や政治能力に対する再評価の動きもあります。

この機会に、生類憐みの令の改善点や、現代への生かし方などを子どもと一緒に考えてみると、よい勉強になるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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