「五大老」と「五奉行」の違いとは? それぞれのメンバーと人物像まとめ【親子で歴史を学ぶ】

五大老・五奉行といえば、関ヶ原の戦いの主役・徳川家康と石田三成が有名です。とはいえ、両者の役割やほかのメンバーについては、よく分からない人も多いでしょう。五大老と五奉行の特徴や顔ぶれ、歴史に与えた影響について分かりやすく解説します。

五大老や五奉行とは、どんな役職?

「五大老(ごたいろう)」や「五奉行(ごぶぎょう)」はいつ、誰が定めたのでしょうか。役職の概要について見ていきましょう。

豊臣秀吉が、晩年に定めた職制

五大老と五奉行は、どちらも豊臣秀吉(とよとみひでよし)が自分の晩年に整備した職制です。正式な設置時期は、はっきりしませんが、五大老のほうが五奉行より先に定められたとされています。

秀吉が亡くなったのは1598(慶長3)年8月ですので、その直前には、どちらも存在していたと考えてよいでしょう。なお、当時は五大老や五奉行ではなく、「年寄(としより)」「奉行」などと呼ばれていたようです。

どちらが年寄で、どちらが奉行なのかも、やはり明確ではなく、お互いに自分たちにとって都合のよい呼び方をしていたとの説もあります。

五大老と五奉行の違い

五大老と五奉行の違いは、主に二つあります。一つは大名としての格、もう一つは役割です。五大老に名を連ねた人物はみな、10万石以上の有力大名です。なかには秀吉が天下人(てんかびと)になる前まで、敵対していた大名もいました。

五大老の主な役割は、秀吉の幼い後継者・秀頼(ひでより)のサポートです。秀吉は秀頼が成人するまで、重要な政策は5人の合議で決めるように遺言しました。

一方の五奉行は、もともと秀吉の下で実務に携わっていた家来のなかから選ばれています。大名としての規模は小さいものの、秀吉が認めた優秀な人材であり、秀頼の下で政策を実行する責任者として任命されました。

豊臣秀頼公銅像(大阪市中央区)。2011(平成23)年、大阪城三ノ丸に位置する大阪城鎮守社・玉造稲荷(たまつくりいなり)神社に、この銅像は建てられた。大坂城落城の際、秀頼たちの絶命の瞬間を見た者がおらず死体もなかったことから、薩摩に逃げた等の説がある。
豊臣秀頼公銅像(大阪市中央区)。2011(平成23)年、大阪城三ノ丸に位置する大阪城鎮守社・玉造稲荷(たまつくりいなり)神社に、この銅像は建てられた。大坂城落城の際、秀頼たちの絶命の瞬間を見た者がおらず死体もなかったことから、薩摩に逃げた等の説がある。

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五大老や五奉行を務めたのは、誰?

豊臣秀吉は、五大老と五奉行に、誰を任命したのでしょうか。それぞれのメンバーと特徴を紹介します。

五大老のメンバー

五大老を務めたのは、以下の大名です。

●徳川家康(とくがわいえやす)
●前田利家(まえだとしいえ)
●毛利輝元(もうりてるもと)
●宇喜多秀家(うきたひでいえ)
●小早川隆景(こばやかわたかかげ)
●上杉景勝(うえすぎかげかつ)
●前田利長(まえだとしなが)

五大老のなかでも、特に有力だったのが、徳川家康前田利家です。家康は織田信長の同盟者として、利家は信長の家臣として台頭しており、秀吉とともに戦国の世を生き抜いた実力の持ち主でした。ただし、利家は秀吉の死の翌年に亡くなったため、嫡男(ちゃくなん)の利長が五大老の職を継いでいます。

毛利輝元小早川隆景は、中国地方を統一した戦国武将・毛利元就(もとなり)の子孫です。上杉景勝は上杉謙信(けんしん)の後継者で、小早川隆景が病死した後に五大老に加わっています。

前田利家公之像(金沢市金沢城公園内)。利家は小姓として14歳から信長に仕え、血気盛んな青年時代は槍の又左の異名をとる。秀吉の足軽時代から夫婦とも親しく、晩年の秀吉に意見できる数少ない人物でもあった。頭上の金鯰尾兜(きんなまずおかぶと)が目を引く。
前田利家公之像(金沢市金沢城公園内)。利家は小姓として14歳から信長に仕え、血気盛んな青年時代は槍の又左の異名をとる。秀吉の足軽時代から夫婦とも親しく、晩年の秀吉に意見できる数少ない人物でもあった。頭上の金鯰尾兜(きんなまずおかぶと)が目を引く。

五奉行のメンバー

五奉行のメンバーには、次の5人が名を連ねています。

●石田三成(いしだみつなり)
●浅野長政(あさのながまさ)
●長束正家(なつかまさいえ)
●増田長盛(ましたながもり)
●前田玄以(まえだげんい)

いずれも実務に長けており、早くから秀吉の下で「太閤検地」や「築城」「朝鮮出兵」などの政策実現に従事していました。五奉行になった後は、長束正家が財政、前田玄以が朝廷や寺社対応を担当し、ほかの3人は行政全般にかかわっていたとされています。

10代前半に秀吉に見出されて家来となった石田三成や、秀吉の妻の義弟だった浅野長政など、秀吉との結び付きが強い人物が顔をそろえているのも、五奉行の特徴といえるでしょう。

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五大老と五奉行、誕生から消滅までの流れ

豊臣秀吉が定めた五大老と五奉行は、秀吉の死後、次第に機能しなくなります。誕生から消滅までの流れを見ていきましょう。

死期を悟った秀吉が、後の世を託す

天下人になって以来、秀吉は独裁的な政治を続けており、政務を分担する組織を整備していませんでした。しかも跡継ぎの秀頼はまだ幼く、政治ができる状況ではありません。

秀頼が成人する前に自分の命が尽きると分かったとき、秀吉は苦労してつかみ取った政権を、ほかの大名に奪われないかと心配するようになります。

そこで秀吉は、豊臣政権の敵となり得る有力大名5人に、秀頼の補佐役を頼みます。秀頼が成人するまでは重要なことすべてを5人の合議で決めると約束させ、勝手な行動を取れないようにしたのです。さらに、信頼できる5人の家臣を、五奉行に任命して実務を担当させることにします。

五大老と五奉行で、秀頼を補佐する盤石なシステムをつくったつもりの秀吉だったが・・・

五大老の徳川家康が、秀吉の遺言を無視

秀吉が亡くなると、五大老のなかでもっとも影響力を持っていた徳川家康が動きはじめます。家康は、合議することになっていた大名同士の婚姻(こんいん)を独断で進めたり、豊臣政権に不満を持つ大名を味方につけたりして、着々と力をつけていきました。

特に前田利家が亡くなってからは、家康の行動は、ますますエスカレートします。利家は家康に次ぐ実力者であり、ほかの大名からも信頼されていたために、家康も表立って対立することは避けていたのです。

そんな家康に立ち向かったのは、五奉行の石田三成でした。秀吉の思いに応えるため、三成も豊臣家と関係の深い大名を味方に引き入れようと画策します。大名たちは家康派と三成派に分かれて対立し、五大老・五奉行の制度は、事実上崩壊しました。

関ヶ原の戦い後に、家康が幕府を開くことで消滅

1600(慶長5)年に三成が家康に対して挙兵したことで、「関ヶ原の戦い」が起こります。三成軍(西軍)には、毛利輝元が総大将として参加したほか、上杉景勝も同じ時期に、自領の会津(あいづ)で家康に対して挙兵しています。

しかし、戦いは家康軍(東軍)の勝利に終わり、西軍の大名には処刑・減封・取潰しなど厳しい処分が下されます。豊臣秀頼も一大名に格下げとなり、家康が政治の実権を手にしました。

さらに1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、江戸に幕府を開きます。豊臣家から徳川家に政権が移ったことで、秀吉が定めた五大老・五奉行も完全に消滅するのです。

史跡「関ケ原古戦場」決戦地(岐阜県不破郡)。わずか6時間ほどで決着したといわれる「天下分け目の戦い」だが、当初は西軍10万人余、東軍7万人余で西軍優位と思われた。小早川秀秋の裏切りや、毛利軍が動かず……兵力差は逆転した。右は徳川、左は石田の幟。
史跡「関ケ原古戦場」決戦地(岐阜県不破郡)。わずか6時間ほどで決着したといわれる「天下分け目の戦い」だが、当初は西軍10万人余、東軍7万人余で西軍優位と思われた。小早川秀秋の裏切りや、毛利軍が動かず……兵力差は逆転した。右は徳川、左は石田の幟。

政権交代の狭間にあった五大老と五奉行

五大老と五奉行は、死期を悟った豊臣秀吉が、政権存続をかけて定めた役職です。しかし、その願いは五大老筆頭の徳川家康に、もろくも打ち砕かれました。

対抗勢力の前田利家は早くに亡くなり、石田三成も家康に敗れ去ります。もしも秀吉に成人した跡継ぎがいたら、もしも利家が長生きしていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。

政権交代劇の中心となった五大老と五奉行について、あらためて学んでみると、日本史への理解をより深められるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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