評定衆って、どんな役職?
「評定衆(ひょうじょうしゅう)」とは、鎌倉時代から室町時代にかけて幕府の問題解決のために置かれた役職です。評定衆の役割や、幕府での立ち位置について解説します。
幕府の運営・問題を、合議で解決する職
評定衆とは、幕府に関する問題を話し合って裁決していた機関です。鎌倉幕府の3代執権(しっけん)・北条泰時(やすとき)が設置した役職で、複数人の合議制によって幕府の運営方針を決めていました。
評定衆は、有力な御家人(ごけにん)の中から選ばれ、鎌倉時代には幕府の最高機関とされた重要な役職です。政務だけでなく裁判も担当するなど、対応する問題は多岐にわたりました。
北条氏が権力を持つとともに、評定衆も北条一族が中心になっていったのが特徴です。室町時代にも評定衆は存在したものの、形式的な役割になったともいわれています。
評定衆の立ち位置
鎌倉幕府では、本来、将軍を補佐する役割であった「執権」が政治の中心的存在でした。ほかにも執権を補佐する「連署(れんしょ)」が存在し、幕府の中でも重要な役割を果たしていました。
評定衆は、あくまで話し合いを行う機関であり、評定衆だけで幕府を動かすわけではありません。執権・連署と協力しながら合議を行い、問題を解決していたのです。
執権だけでなく、連署も北条氏の有力者が就任することがほとんどでした。評定衆は、政所(まんどころ)の別当・執事や問注所(もんちゅうじょ)の執事など、役所のリーダーとなる地位と兼務していました。
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評定衆が設立された背景
鎌倉幕府に、評定衆が設置されたのは、北条泰時が執権を務めていた時代です。評定衆が生まれた背景や、歴史の流れを見ていきましょう。
きっかけは、権力争いによる
1221(承久3)年に「承久(じょうきゅう)の乱」が起こった背景には、将軍の世継ぎ問題をめぐる鎌倉幕府と後鳥羽(ごとば)上皇の対立があります。後鳥羽上皇が2代執権・北条義時(よしとき)を追討する院宣(いんぜん)を出したのが、承久の乱が始まるきっかけでした。
義時の息子である泰時は、幕府軍の中心として戦いました。義時の死後、1224(貞応3)年には、後継をめぐる「伊賀氏の変」が勃発(ぼっぱつ)しましたが、最終的には北条政子(まさこ)の考えで泰時が3代執権に就任したのです。
合議制を目指して評定衆を設立
父・義時の跡を継いで執権に就任した泰時は、政子や長年幕府を支えてきた御家人たちが亡くなった後、鎌倉幕府の体制を確かなものにしようと改革していきます。執権を補佐する連署を置き、十数人の有力な御家人を選んで評定衆を組織し、合議制による政治を進めようとしたのです。
初めの評定衆は、北条氏に加えて御家人から三浦・安達(あだち)氏、公家(くげ)出身の三善(みよし)氏などが選ばれました。やがて北条氏の嫡流(ちゃくりゅう)である得宗(とくそう)が政治の実権を握るにつれ、評定衆にも北条一族が増えていったのです。
北条氏の割合が増えたことで、本来、評定衆が目指した話し合いによる政治も形骸化(けいがいか)してしまいます。評定衆は室町幕府にも置かれましたが、儀式的なものとなり、次第に職員の身分を、ただ表すだけの言葉となっていきました。
合議の基準となる「御成敗式目」
北条泰時は、初めての武家法である「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定したことでも知られています。1232(貞永元)年に制定された御成敗式目は、領地に関するルールや、武家社会の道徳などが盛り込まれた法律です。
評定衆では裁判も行われていますが、御家人同士の領地をめぐるトラブルも多く起こっていました。そこで、話し合いを行う際のマニュアルとなる武家法を作ろうとしたのです。
先例となる法律は平安時代のものだったため、鎌倉時代にはそぐわない部分もありました。それまでの法律が貴族向けのものだったのも、武家法である御成敗式目が必要になった理由の一つです。
評定衆と間違えやすい機関・役職
鎌倉幕府には、さまざまな役職があり、評定衆に似た役割を持つ機関も存在しました。評定衆と混同しやすい機関・役職をチェックしましょう。
引付衆
「引付衆(ひきつけしゅう)」は、評定衆と同様に鎌倉時代から室町時代にかけて置かれていた役職です。訴訟問題を担当する機関で、主に領地のトラブルに対応しました。
訴訟をスムーズに進めるためにも、公平な審理を行うことは大切です。評定衆が幅広い政務に取り組むのに対して、引付衆は専門的な分野を扱う役職でした。
引付衆は、北条氏から選ばれることが多く、評定衆の補助的な役割に位置づけられていました。しかし、後に評定衆との区別があいまいになり、衰退していったとされています。
評定所
評定衆に似た言葉である「評定所(ひょうじょうしょ)」は、役職ではなく特定の場所を表しています。江戸時代にも使われた言葉で、時代によって意味が異なるため注意が必要です。
鎌倉時代における評定所は、評定衆が話し合いを行った場所を意味しています。評定衆が集まって合議をするのはもちろん、裁判なども行われていた場所です。
江戸時代の評定所とは、幕府の最高裁判所にあたる機関を指しています。同じ名前であっても微妙に意味が異なるため、時代による違いを意識して覚えましょう。
13人の合議制
評定衆に似た仕組みとしては、2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)の時代にあった合議制が挙げられます。新たに将軍となった頼家を支えるため、話し合って政治を行う合議制を取り入れたのです。
そのときに選ばれた「13人の御家人」には、後に執権を務める北条時政(ときまさ)や義時も含まれていました。13人の合議制は、その後に設置される評定衆のもとになったアイデアともいえます。
御家人の死や失脚によって、13人の合議制はすぐに解体されました。13人の合議制が将軍を支え、取り次ぎを行う目的だったのに対し、評定衆は執権とともに政治を行っていたのが両者の違いです。
評定衆は、世を平定する試行錯誤の一つ
北条泰時が設置した評定衆は、幕府をどのように運営していくかを話し合いで決めるための機関です。政務や裁判など、評定衆はさまざまな問題に取り組みました。
鎌倉幕府の中心的存在は、政治の実権を握っていた執権やその補佐役である連署などの役職でした。評定衆は執権・連署と連携しながら、合議による政治の実現を目指していました。
泰時が評定衆を設置したのは、幕府の体制を強固にしようとしたのも理由の一つです。複数人の意見を取り入れて問題を解決する評定衆は、幕府の運営を安定させるための工夫だったとも考えられるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部