「シベリア出兵」とはどんな出来事? きっかけは? 日本の立場と国内外の反応を解説【親子で歴史を学ぶ】

シベリア出兵は、20世紀の初頭に起こった軍事行動の一つです。日本も大きく関わっており、多くの兵士が北の大地に派遣されました。シベリア出兵が決まった経緯やその後の国際情勢、国内外の反応などを分かりやすく解説します。
<上画像:シベリア出兵を伝える日本のプロパガンダ画報 Tokyo : Shobido & Co - The US LOC image collection,>

「シベリア出兵」の概要

シベリア出兵とは、どのような出来事だったのでしょうか。具体的な実施時期と参加国を見ていきましょう。

ロシア革命に対する武力干渉

シベリア出兵は、1918(大正7)~1922(大正11)年にかけて、日本を含む7カ国がロシア東部・シベリアに軍隊を派遣した出来事を指します。日本以外の参加国は、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国です。

軍隊派遣の主目的は、1917年のロシア革命で成立した「社会主義政権」を倒すことでした。日本は7カ国の中で、最も多くの兵士を送り、最後まで駐留したのです。

シベリア出兵までの国際情勢

シベリア出兵を知るには、「第一次世界大戦」と「ロシア革命」について押さえておく必要があります。それぞれの出来事が、多国籍軍の派遣につながっていく過程を解説します。

第一次世界大戦の勃発

1914(大正3)年7月28日、ヨーロッパを主な戦場とする第一次世界大戦が始まります。この戦争には、合わせて25カ国が参加し、同盟国と連合国に分かれて戦いました。

それぞれの加盟国は、以下の通りです。

●同盟国:ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリアなど
●連合国:フランス・イギリス・ロシアなど

連合国は協商国とも呼ばれ、後にイタリア・日本・中国・アメリカが加わっています。

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ロシアで革命が起こる

第一次世界大戦では、当初ロシアは連合国に加わりドイツと戦いますが、敗戦が続きます。開戦時にロシアを治めていたのは、「ロマノフ王朝」最後の皇帝・ニコライ2世です。戦争によって苦しい生活を余儀なくされたロシアの民衆は、無能な王朝に強い不満を持つようになりました。

ニコライ2世凱旋門(ロシア・ウラジオストク)。1891(明治24)年、ニコライ2世(当時は皇太子)のウラジオストク訪問を記念して建てられた凱旋門。ロシア革命で破壊されるが2003年に復元。皇太子は同年訪日していたが「大津事件」が起き、予定を早め帰国した。

1917(大正6)年、労働者や兵士らによる暴動をきっかけに革命が起こります。ロマノフ王朝は倒され、世界初の社会主義政府が誕生しました。

社会主義は、皆が平等な社会を目指す思想です。こうした思想が広まると、王や天皇などの君主を抱える国や資本主義の国にとっては、都合がよくありませんでした。そこでアメリカや日本などは、ロシア国内の反革命勢力を助けて、社会主義が広まる前に革命政府を倒そうと考えたのです。

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ロシアが戦争を離脱

一方、ロシアの革命政府は、ドイツと単独で講和し、第一次世界大戦から離脱します。ロシアの離脱によって困ったのは、イギリスとフランスでした。ロシアと戦わなくて済むことになったドイツ軍が、西側の戦いに集中できるようになったためです。

そこでイギリスとフランスは、シベリアに軍隊を送って、ドイツの目をロシアに向けさせる作戦を立てます。しかし戦力が足りず地理的にも遠かったため、アメリカや日本に協力を求めたのです。

シベリア出兵には、革命政府への干渉と同時に、ドイツに対抗する狙いもあったと覚えておきましょう。

シベリア出兵の経過と結末

シベリア派遣軍の連合国将官ら(ロンドン帝国戦争博物館所蔵)Wikimedia Commons(PD)

シベリア出兵は、具体的にはどのように進行したのでしょうか。開始から撤兵までの、連合軍の動きを見ていきましょう。

出兵の大義名分となった「チェコ兵捕虜」

アメリカは当初、シベリアへの共同出兵には消極的でした。しかし1918(大正7)年5月、ロシア国内のチェコ兵捕虜と革命政府が衝突する事件が起こり、考えを変えます。

第一次世界大戦の開戦時、オーストリア=ハンガリー帝国の一部だったチェコは、同盟国軍としてロシアと戦わされており、多くの兵士が捕虜となっていました。

ロシア革命の後、連合国はチェコを独立させると約束し、チェコ兵を西側の戦線に動員しようとします。ところが、捕虜たちがシベリア鉄道でヨーロッパへ向かう途中で暴動が起こり、革命政府との武力衝突に発展してしまうのです。

報告を受け、アメリカはチェコ兵救出を口実に、共同出兵に踏み切ります。まずは日本に働きかけて日米連合軍を結成、そこにイギリス・フランス・イタリア・カナダ・中国の軍が加わって、多国籍軍による武力干渉が始まりました。

第一次世界大戦終結と各国の撤兵

1918年11月にドイツが完全降伏して、第一次世界大戦が終わります。チェコ兵救出は、同盟国軍と戦うためだったので、多国籍軍が掲げた大義名分は失われてしまったのです。

後は、革命政府を倒すのみとなりますが、1919年に最大の反革命勢力が壊滅したことで、それも失敗に終わります。そのため多国籍軍は解散し、翌年までに各国はシベリアから撤兵しました。

そうした状況の中、日本だけは口実を設けて軍隊を駐留し続けます。もともと日本は、当初の取り決めよりもはるかに多くの兵士をシベリアに派遣していました。

独断で大軍を送り込んだ上、強引に駐留を続ける日本に、他の国は不信感を募らせます。1922(大正11)年の国際会議上でアメリカから圧力をかけられ、日本はようやく撤兵したのです。

日本にとってのシベリア出兵

シベリア南部ブラゴヴェシチェンスクに入城する日本軍『救露討獨遠征軍画報』より The Library of Congress, Wikimedia Commons(PD)

シベリア出兵での日本の行動は、国内外から激しく非難されます。共同出兵と知りながら単独行動に出た理由や、国民の反応を見ていきましょう。

日本軍の真の目的

当時の日本は、他国とは全く違う目的でシベリアに軍を送りたがっていました。シベリアは、ユーラシア大陸のアジア側の北に位置する広大な地域です。地下資源や森林資源が豊富で、鉄道も通っています。そのため資源の乏しい日本は、かねてから進出の機会を狙っていました。

シベリア出兵開始以降、日本はアメリカと約束した人数を大幅に上回る約7万人を動員します。しかし寒さの厳しいシベリアで、日本軍は苦戦を強いられます。多大な犠牲者を出したにもかかわらず、日本は何も得られないままシベリアから手を引くことになりました。

国内外の反応

シベリア出兵によって、日本では米の価格が急騰(きゅうとう)します。兵糧としての需要が増えれば、それだけ高く売れるため、前もって商人たちが米を買い占めたためです。

1918年7月に富山県の漁村・魚津町(現在の魚津市)で発生した騒動は、中旬には主婦らが米商店を襲撃する事件にまで発展します。以降、暴動は全国に広がり「米騒動(こめそうどう)」と呼ばれました。

神戸で起きた米騒動はやがて全国に。画像は神戸で起きた騒動で焼き払われた鈴木商店本社。全国に広がった騒動はその後約50日間続く。 国書刊行会 『目でみる大正時代 下』,Wikimedia Commons(PD)

他の国が引き揚げたにもかかわらず、日本だけが戦争を続けることに納得できない国民も出はじめます。戦費がかさむ上に、寒さで死傷に至る兵も多く、士気は下がる一方だったようです。

外国との関係も、悪化の一途をたどります。アメリカは協定を破った日本を信用しなくなり、日露関係も悪い状態が長く続きました。

シベリア出兵を学び、戦争について考えよう

シベリア出兵には、大きく分けて二つの側面があります。一つは連合国によるロシア革命政府への武力干渉、もう一つは各国が引き揚げた後の日本軍の駐留です。

良し悪しはともかく、連合国には社会主義に対抗する共通の目的と、チェコ兵救出という大義名分がありました。一方で日本は侵略を主目的としており、独自に駐留を続けたため、国内外から非難の声が上がったのです。

どのような目的であろうと、戦争がよくないことに変わりはありません。シベリア出兵を客観的に捉えつつ、戦争について親子で考えてみてもよいでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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