「大正デモクラシー」とは? 起きた背景や内容をわかりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

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大正時代は、政治や社会に自由を求める傾向が強まり、様々な政治運動、社会運動、労働運動などの大衆運動が盛り上がりを見せました。この「大正デモクラシー」と呼ばれる機運がどんな背景から生まれ、どのような発展を遂げたのか、見ていきましょう。

「大正デモクラシー」とは?

「大正(たいしょう)デモクラシー」は、日本史の教科書にも出てくる、日本の歴史を知るうえで欠かせない事柄の一つです。まず、「大正デモクラシー」とは、どのようなものなのかを紹介します。

大正時代の民主主義を求める思想や運動

「大正デモクラシー」の定義や期間は諸説ありますが、1912~1926年の大正年間に起きた、民主主義を求める思想や運動を指すのが一般的です。政治をはじめ、さまざまな分野で国民の声が反映されるようになったことが、大きな特徴になります。

「デモクラシー」は、英語の「democracy」のことで、これを「民本(みんぽん)主義」と訳して日本に概念をもたらしたのが、ジャーナリストの「茅原華山(かやはらかざん)」です。

政治学者であり、歴史学者でもあった「信夫清三郎(しのぶせいざぶろう)」が、1954(昭和29)年に「大正デモクラシー史」を著したことで定着したとされています。

「大正デモクラシー」が起きた背景

民主主義を求める思想や運動が盛んになった背景には、大正時代の社会情勢が深く関係しています。「大正デモクラシー」が起きた背景や重要人物を見ていきましょう。

劣悪な労働環境や生活の困窮

産業革命によって、都市部で働く人が増えましたが、労働環境は劣悪でした。極貧層が居住する「スラム」ができるなど、社会問題になるほどだったのです。

1904(明治37)年に「日露戦争」が勃発すると、戦費にあてるために重税が課され、国民はさらに苦しい生活を強いられるようになりました。国民の不満がたまった結果、「大正デモクラシー」に向かうきっかけの一つになったとされる民衆暴動「日比谷(ひびや)焼き打ち事件」も起きました。

1914(大正3)年に勃発した「第一次世界大戦」による大戦景気下では、好景気の恩恵を受けて裕福な暮らしを実現した人がいる一方で、インフレによる物価の上昇で厳しい生活を強いられた人も多かったのです。

こうして、政治や社会に対する国民の不満が蓄積されていきました。

吉野作造や美濃部達吉の理論が影響

「大正デモクラシー」の思想の軸となったのは、ある二つの理論でした。そのうちの一つが、東京帝国大学の教授だった「吉野作造(よしのさくぞう)」が唱えた「民本主義」です。

吉野作造(イメージ)

 

当時の日本は「天皇主権」とされており、国民を主権とする「民主主義」となると、天皇主権を否定することにほかなりません。そのため、天皇主権の枠の中で、国民の権利は最大限に守られなければならないとし、「民本」という言葉を用いて区別したのです。

もう一つの理論は、「美濃部達吉(みのべたつきち)」の「天皇機関説」です。

天皇の地位は神によって与えられたものではなく、国家の一つの機関とする理論になります。広く受け入れられた一方で、天皇が深く関わる理論だけに反発する人もいました。

自由や平等を求める声の高まり

「民本主義」や「天皇機関説」が広まったことで、国民の意思を反映した政治を求める声が高まります。そして、この風潮は政治だけに留まりませんでした。

劣悪な労働環境や生活の困窮など、社会情勢に対して不満を抱いていた国民は、労働者の地位向上や性別・地域による差別からの解放など、自由や平等を求める社会運動を盛んに行うようになったのです。

また、日露戦争でロシアに勝利したことも影響しています。戦争の勝利で「一等国」という意識が芽生えたことや、就学率と教育水準が上がったことで、国民は一等国にふさわしい政治や社会を求めるようになりました。

大宝館(山形県鶴岡市)。大正天皇の即位を記念して、1915(大正4)年、鶴ケ岡城址南端の本丸跡に建てられた擬洋風建築。ドーム型の赤い屋根と白壁が印象的な、一等国にふさわしい建築物として鶴岡市の有形文化財に指定されている。

政治の民主化を求める動きと影響

国民の意思を反映した政治を求める声の高まりは、実際の政治に、どのような影響を与えたのでしょうか?  主な出来事を、順を追って紹介します。

「第一次護憲運動」と「大正政変」

元号が「大正」に変わったときの内閣総理大臣は、長州藩出身の「桂太郎(かつらたろう)」です。彼は、この第三次内閣でも、閣僚の多くを長州藩や薩摩藩の出身者で固める藩閥(はんばつ)政治を行っていました(1912)。

こうした政治に対し、憲法で定められている「議会を尊重する政治」が行われていないと、反発する人が現れたのです。

藩閥政治に対抗できると期待されていた政党「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」の「尾崎行雄(おざきゆきお)」を中心に、「憲法に基づく政治」を求める「第一次護憲運動」が起こり、全国に広がっていきました。

最終的に、桂内閣は退陣に追い込まれます。これが「大正政変」と呼ばれる出来事です。

日本初の「政党内閣」が誕生

桂内閣の後も、数代にわたって藩閥政治は続きましたが、民衆の勢いは止まらず、ついに本格的な「政党内閣」が誕生することになります(1918)。

この政党内閣を率いたのが、立憲政友会の総裁だった「原敬(はらたかし)」です。彼は、陸軍・海軍・外務大臣以外を立憲政友会の議員で組織しました。

原敬(イメージ)

 

原敬は、藩閥とは関係のない藩(盛岡藩)の出身で、華族でもなかったため「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれて、国民からの期待が大きかったとされています。在任中には、高等教育機関の充実や産業の推進、交通網の整備などを行いました。

しかし、普通選挙を求める声が高まっているにもかかわらず、実現には至らなかったため、国民は不満を抱いていたようです。

きっかけは「米騒動」

日本初の「政党内閣」が誕生するきっかけになったのは、1918(大正7)年に起こった「米騒動」です。日本史上で最大規模の民衆暴動といわれており、この暴動によって、当時の内閣は総辞職に追い込まれました。

「米騒動」が起こった原因は、第一次世界大戦中のインフレで米価が上昇したことや供給不足などが挙げられます。ロシア革命に干渉するための「シベリア出兵」が決定すると、軍隊への補給で米不足になることを予期した商人らが大量に米を買い占め、さらに米価が上昇しました。

生活の困窮や不安が重なったことが、民衆による大暴動につながったのです。

「第二次護憲運動」と「普通選挙法」の成立

清浦奎吾(きようらけいご)内閣を総辞職に追い込んだ1924(大正13)年の倒閣運動を「第二次護憲運動」といいます。

清浦内閣は、選挙で選ばれていない貴族院議員を中心に組織されていたため、「特権内閣である」と非難の声が上がりました。

「立憲政友会」「憲政会」「革新倶楽部」の三政党が中心となり、「第二次護憲運動」を起こしたのです。このとき公約に掲げていたのが「普通選挙」の実現です。

総選挙で三政党が勝利したことで、加藤高明(たかあき)内閣が誕生し、「普通選挙」の実現に向けて動きだしました。

1925(大正14)年に「普通選挙法」が定められ、財産や身分に関係なく25歳以上の「男性」に選挙権が与えられます。それを受けて、1928(昭和3)年に初めて普通選挙が行われたのです。

1925年に成立した「治安維持法」

1925年には、国家体制の変革や私有財産制を否定する政治活動を禁止する「治安維持法(ちあんいじほう)」も設立されました。政府は普通選挙の実現により、労働者や共産主義者の運動が激しくなることを警戒したのです。

普通選挙の実現で、ある程度は民主化を認めながらも、他方で政府にとって都合の悪い考えを持つ者を抑え込もうとしていたのです。

1928年には、罰則の最高刑を死刑に引き上げたうえで、全国規模で共産主義者への厳しい弾圧が行われました。

労働者の地位向上を求める社会運動と影響

政治の民主化を求める運動は政治に留まらず、労働環境にも影響を与えました。労働者の地位向上を求める運動は、どのような経緯をたどって影響を与えたのでしょうか?

「友愛会」の設立

「米騒動」によって、本格的な政党内閣が誕生したことは、国民の意識に変化をもたらしました。自らの行動が政党政治への道を切り開いたことで、国民は運動を組織化する重要性を認識し、労働組合の増加や労働運動につながったのです。

1911(明治44)年に、労働者を保護するための「工場法」が制定されましたが、工場経営者の反発を受けて施行が延期されるなど、不十分な内容でした。

そのため、労働条件や環境の改善を求め「友愛会(ゆうあいかい)」という労働団体が1912(大正元)年に設立されたのです。

1919(大正8)年に「大日本労働総同盟友愛会」、1921(大正10)年に「日本労働総同盟」と改称・発展し、活動を続けました。1920年には、日本初のメーデー(労働者が集まって権利を主張する日)も開催されています。

デモ行進(イメージ)。メーデーの起源は、1886年5月1日、アメリカの労働組合が「8時間労働制」を要求してストライキを行い、デモ行進したことといわれる。日本では、1920年5月2日、東京・上野公園で、およそ5000人が参加して行われたのが初のメーデーである。

「小作争議」と「日本農民組合」の誕生

労働運動とともに、地主から土地を借りている小作人(こさくにん)が、小作料の引き下げを求めて地主と闘争する「小作争議」も激しさを増していきます。

当時の小作人は、税金のほかに、土地を借りている地主に小作料を支払う必要があり、生活は困窮していました。

小作人たちは、「米騒動」にも発展した米価の上昇で、大きな利益を得ていた地主に対して、小作料の引き下げを求めて争ったのです。

このような状況のなか、小作人を助けるために「日本農民組合」という組織が誕生し、団結して環境の改善を訴えたのです(1922)。

自由や平等を求める社会運動と影響

身分や性別による差別に対しても、自由や平等を求める社会運動が盛んに行われました。具体的に、どのような社会運動だったのでしょうか?  社会に影響を与えた主な運動について紹介します。

部落問題と「全国水平社」の結成

江戸時代、身分の低い人たちは、居住地や職業が決められていただけでなく、結婚や服装も規制されるなど、厳しい差別を受けていました。

1871(明治4)年に身分制度を廃止する「解放令」が公布されましたが、差別の意識が変わることはありませんでした。急激な近代化で部落地区の産業が衰えても、差別により新しい仕事に就くのが難しく、さらに貧困化が進みました。

こうしたなかで、自由と平等を求めて、1922(大正11)年「全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)」が結成され、部落解放運動が全国に広まったのです。

「新婦人協会」の設立と婦人参政権運動

女性の地位向上を目指す運動も見られました。「平塚らいてう」は、1911(明治44)年に「青鞜社(せいとうしゃ)」を立ち上げ、「青鞜」という文芸雑誌を通して地位向上を訴える活動をしました。

1920(大正9)年には「新婦人協会」を設立して、女性の参政権を求めて活動し、女性の政治活動を禁じた法律が改正されたのです。

1924(大正13)年には「市川房枝(いちかわふさえ)」らによって「婦人参政権獲得期成同盟会」が結成され、参政権を求める運動を行いますが、実現しませんでした。

女性が参政権を得られたのは、第二次世界大戦後の1945(昭和20)年です。

いろいろな差別(イメージ)。現在でも、さまざまな差別が存在する。先人たちの努力が報われる日は来るのでしょうか。

「大正デモクラシー」により、民主主義へと歩みはじめた

大正時代は、劣悪な労働環境や生活の困窮に加え、国民の権利を尊重する理論が広まったことで、自由や平等を求める「大正デモクラシー」につながりました。

歴史的な出来事は、政治の民主化を求める運動によって、日本初の「政党政治」や「普通選挙」が実現したことです。労働者の地位向上や自由・平等を求める社会運動も盛んに行われ、民主主義へと歩みはじめたきっかけになったといえるでしょう。

時代背景をもっと知りたい人のための参考図書

小学館版  学習まんが はじめての日本の歴史13「絶えない戦争(大正時代、昭和時代)」

角川まんが学習シリーズ 日本の歴史14「大正デモクラシー」

小学館版  学習まんが 少年少女日本の歴史19「戦争への道(大正時代・昭和時代初期)」

中公文庫 石ノ森章太郎 新装版マンガ日本の歴史26「大正デモクラシーと政党政治の没落」

岩波文庫 成田龍一「大正デモクラシー」

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構成・文/HugKum編集部

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