岩倉使節団とは、何?
「岩倉使節団(いわくらしせつだん)」は、いつ日本を出発し、どのような国を訪問したのでしょうか。当時の日本の状況もあわせて、概要を見ていきましょう。
1871年に、欧米へ派遣される
岩倉使節団とは、1871(明治4)~1873(明治6)年にかけて、アメリカやヨーロッパ諸国に向けて派遣された大規模な使節団のことです。
岩倉具視(いわくらともみ)をはじめとする明治政府の要人のほか、海外の事情に通じる旧幕府の役人や民間人・留学生など、100人以上が参加しました。1871年末に日本を出発した使節団は、およそ1年10カ月の長期にわたって12カ国を訪問したのです。
当時の明治政府は、徳川幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改定期限を目前にしていました。しかし日本には、まだ欧米諸国と対等に交渉できる実力はありませんでした。そこで海外の制度や文化を実際に見て、条約改定交渉や国内の近代化推進の参考にするために、使節団を派遣することにしたのです。
岩倉使節団派遣の目的
岩倉使節団派遣には、二つの大きな目的がありました。それぞれの内容と、結果を見ていきましょう。
不平等条約改正の準備交渉
岩倉使節団の目的の一つが、条約改定の準備交渉です。使節団が派遣される約13年前の1858(安政5)年、徳川幕府が欧米諸国と不平等な通商条約を締結していましたが、条約の内容は、締結から171カ月(約14年)後の1872(明治5)年に改定すると定められていました。
明治政府にとっては、条約改定は不利な内容を公平なものにするチャンスです。改定交渉を成功させるためにも、日本は海外の実情をよく知っておく必要がありました。
あくまでも交渉の準備が目的だった使節団でしたが、アメリカで歓迎を受けたことで、独断で条約改正を申し入れ、失敗してしまいます。各国との実力の差を痛感した使節団は、さらに深く海外事情を知るべく旅を続けるのです。
欧米諸国に追いつくための視察
使節団のもう一つの目的は、日本を欧米諸国と肩を並べる国に成長させるための情報収集です。欧米諸国が繁栄を遂げた理由や、国民の暮らしぶりを観察し、日本の国づくりに生かそうとしました。
使節団が訪れた都市や村落は約120にも及びました。行政の仕組みから産業構造・教育・宗教・娯楽にいたるまで、詳しく調査したのです。
イギリスでは、鉄道や通信施設、各種機械工場のほか、ビールやビスケットなど「嗜好品」の工場も見学し、「産業革命」達成の実態に迫りました。西洋文明の根底にキリスト教があることも、使節らにとっては大きな驚きだったようです。
岩倉使節団の有名なメンバー
岩倉使節団には、歴史に名を残す有名人が多く参加しています。代表的なメンバーと、簡単な来歴を紹介します。
岩倉具視
岩倉具視は名前からも分かるように、岩倉使節団の「特命全権大使」を務めた人物です。特命全権大使は、外交使節の最上位のことなので、使節団の責任者やリーダーのような存在と考えてよいでしょう。
岩倉は、朝廷に仕える公家(くげ)の出身で、1867(慶応3)年の「王政復古の大号令」の中心となったことでも知られています。倒幕後は、明治政府内の重職を歴任し、欧米視察から帰国後は、憲法の起草や近代天皇制の確立に尽力しました。
木戸孝允
岩倉使節団には、全権大使の補佐役を務めた「特命全権副使」が4人いました。木戸孝允(きどたかよし)は、その副使の一人です。
長州藩の藩医の家に生まれた木戸は、8歳のときに藩士・桂家の養子となり、「桂小五郎(かつらこごろう)」を名乗ります。後に藩の命令で「木戸」の姓を名乗り、藩政改革や薩長同盟の実現という大仕事を成し遂げました。
倒幕後は、明治政府の基本方針「五箇条の誓文(せいもん)」の起草にかかわり、使節団帰国後は、国内の近代化を優先することを主張しています。
大久保利通
大久保利通(おおくぼとしみち)も、副使として岩倉使節団に参加した人物です。薩摩藩の下級武士の家に生まれ、同じく薩摩藩出身の西郷隆盛(さいごうたかもり)とは幼なじみの間柄でした。大久保と西郷は協力して藩政を動かし、ともに倒幕の中心人物として活躍します。
岩倉使節団の副使となり、欧米諸国を訪問した大久保は、イギリスには町ごとに工場がある点に大変驚かされます。帰国後は国内産業発展のために、官営工場の設立をはじめとする「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策を進めました。
上質な生糸を生産し、日本経済を支えた群馬県の「富岡(とみおか)製糸場」も、大久保が中心となって建設した官営工場です。
伊藤博文
伊藤博文(いとうひろぶみ)は、木戸孝允と同じ長州藩出身の政治家です。幕末に藩命によってイギリスに留学した経験を持つ伊藤は、英語が堪能(たんのう)で、外国との交渉を得意としていました。
岩倉使節団には副使として参加し、大久保利通から大きな信頼を寄せられています。大久保が暗殺された(1878)あと、伊藤は明治政府の中心的な存在となり、「内閣制度の創設」や「大日本帝国憲法の制定」に貢献しました。
1885(明治18)年に初代内閣総理大臣に就任以降、合計4回、総理大臣を務めたことでも知られています。
津田梅子
津田梅子(つだうめこ)は、岩倉使節団に随伴(ずいはん)した「開拓使派遣留学生」の一員です。北海道開拓使として働いていた父親の意志によって、6歳のときに女子留学生として岩倉使節団に参加し、アメリカに約10年間滞在しました。
1882(明治15)年の帰国後は、華族女学校の教授となりますが、1889(明治22)年に、再びアメリカのブリンマー大学に留学します。そして在学中に「日本婦人米国奨学金制度」を設立したのです。
その後もアメリカやイギリスで学んだ梅子は、日本にも女性が高等教育を受けられる場が必要との思いを強くし、「女子英学塾(後の津田塾大学)」を創設しました(1900)。
岩倉使節団が日本に与えた影響
岩倉使節団の欧米訪問は、当時の日本にどのような影響を与えたのでしょうか。具体的な事例もあわせて紹介します。
日本の近代化を進めた
欧米諸国の発展を目(ま)の当たりにした使節団は、帰国後、日本の近代化を進めます。
外交面においては、日英同盟成立や日露戦争・第一次世界大戦の講和にかかわる人物を輩出しました。内政では、憲法制定・鉱山開発・教育制度の制定・大学創立・医療の衛生思想の普及・ジャーナリズムの発展などにおいて、使節団のメンバーがそれぞれ活躍しています。
特命全権大使の岩倉具視も、各国から特許制度の資料をたくさん持ち帰り、日本の特許制度整備に貢献しています。
留学から帰国した学生も活躍
留学生として使節団に随伴した学生にも、日本の近代化に貢献した人物がたくさんいます。
津田梅子と同じく女子留学生として参加した瓜生繁子(うりうしげこ)は、アメリカで音楽を専攻し、帰国後は文部省直轄(ちょっかつ)の音楽取調掛(現在の東京藝術大学音楽学部)に採用されました。
大久保利通の次男・牧野伸顕(まきののぶあき)も、アメリカに2年留学しており、帰国後は文部大臣・農商務大臣・外務大臣を務めています。ハーバード大学で法学を学んだ金子堅太郎(かねこけんたろう)は、同窓のアメリカ大統領と親しく交流し、日米友好に力を尽くしました。
岩倉使節団が見てきた世界を想像してみよう
岩倉使節団は、日本が欧米諸国に追いつくには何をすればよいのかを確かめ、進んだ技術や知識を吸収するために旅立ちます。インターネットや動画などで情報を収集できる現在とは違い、予備知識が少なかった当時の人々にとって、現地での驚きは相当大きかったでしょう。
帰国後に、使節団のメンバーが日本の近代化に大きく貢献したことからも、使節団派遣に一定の効果があったと分かります。子どもと一緒にメンバーの気持ちになって、明治時代の日本と世界の様子を想像してみると、新たな発見があるかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部