若き日の伊藤博文
「伊藤博文(いとうひろぶみ)」といえば、明治政府のトップに立った人物として有名です。彼はどのようにして、政治家への道を歩んだのでしょうか。
松下村塾に入門、尊王攘夷派として活動
伊藤は1841(天保12)年に、長州藩(現在の山口県)の農民の家庭に生まれました。父親が下級藩士・伊藤家の養子になったため、彼も武士の身分を獲得します。
とはいえ、武士の中でも最下層であることには変わりなく、学校に行けない伊藤は、近所の寺で読み書きを習っていました。16歳のころには松下村塾(しょうかそんじゅく)に入門し、吉田松陰(しょういん)に学びます。
松下村塾は、身分を問わず広く門戸を開いていたため、伊藤のような子どもも通うことができました。吉田松陰が伊藤について、「政治家に向いているかもしれない」と評価した記録も残っています。
その後の伊藤は、同じ塾生だった高杉晋作(たかすぎしんさく)や久坂玄瑞(くさかげんずい)らとともに、尊王攘夷活動に加わります。1862(文久2)年には、イギリス公使館の焼き討ちという過激な事件を起こしました。
イギリス留学が活躍のきっかけに
1863(文久3)年、22歳になった伊藤は、長州藩の留学生としてイギリスに渡ります。途中で上海(しゃんはい)に立ち寄り、植民地化された清国(しんこく)の惨状を見た伊藤は、日本も外国と戦えば同じ目に遭うだろうと実感しました。
ところが留学から半年後、長州藩はイギリス、フランスなど4カ国の連合艦隊と戦い、敗北してしまいます。このとき和平交渉に臨んだのが、急遽(きゅうきょ)帰国した伊藤でした。
たった半年で英語をマスターし、外国との交渉をまとめられるほどのコミュニケーション力を持つ伊藤は、明治政府に入ってからも、自身の能力を大いに発揮するのです。
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政治家・伊藤博文の功績
明治維新後、伊藤博文は日本の近代化のために忙しく働きました。特に押さえておきたい、主な功績を見ていきましょう。
岩倉使節団の副使となる
1871(明治4)年、政府は岩倉具視(いわくらともみ)を代表とする使節団を欧米に派遣します。
派遣の目的は、主に「不平等条約の改正」と「欧米の政治制度や文化の調査研究」です。条約改正の交渉は失敗しましたが、調査研究については大きな成果をあげ、日本の近代化に貢献したと評価されています。
当時、まだ30歳だった伊藤は、英語力を買われて年長の大久保利通(としみち)や木戸孝允(きどたかよし)と並び、副使(代表の補佐役)の一員に抜てきされます。
約2年をかけて諸外国をまわる過程で、大久保利通から高い信頼を勝ち取り、帰国後も重要な役割を任されるようになりました。
憲法の制定を主導
岩倉使節団から10年ほど経ったころ、国民の間から民主的な議会政治の実現を求める声が高まります。「自由民権運動」と呼ばれる社会の動きに押され、政府は1881(明治14)年に国民に対して、10年後の国会開設を約束しました。
国会を開くにあたっては、国の基本方針を示す憲法が必要です。そこで政府は、伊藤をヨーロッパ諸国に派遣して、各国の憲法を調べさせます。調査の結果、伊藤はドイツの憲法を参考に草案を作成することに決めました。
当時のドイツは、皇帝が国家元首として君臨しており、天皇中心の統治を目指す日本の状況に近かったのです。伊藤が練りあげた草案は、明治天皇も加わって慎重に審議が行われ、1889(明治22)年に「大日本帝国憲法」として発布されました。
初代内閣総理大臣に就任
憲法の調査から帰国後、伊藤は、まず天皇の政治を支えるための内閣制度を整えます。そして1885年に、明治天皇から「初代内閣総理大臣」に任命されました。
任命されたとき、伊藤は44歳でしたが、以降、彼よりも若くして総理大臣になった人はいません。就任後はさっそく憲法の作成と、議会を開く準備にとりかかります。
憲法発布の翌年には、1回目の国会が開かれました。なお伊藤は、その後も3回、総理大臣に就任しています。
伊藤博文の豆知識
明治政府の実力者と聞くと、堅苦しいイメージを持つ人も多いでしょう。しかし、伊藤博文には、私たちに親しみ深いエピソードがあります。
思わず子どもに教えたくなる、伊藤博文豆知識を紹介します。
ランドセルの始まりは伊藤博文
小学生がランドセルを背負って通学する姿は、日本独特の光景です。実は、ランドセルは、伊藤が大正(たいしょう)天皇の学習院入学祝として献上した「通学カバン」が発祥といわれています。
学習院には裕福な家庭の児童が多く、馬車や人力車で登下校していましたが、大正天皇が入学する少し前に、車での通学が禁止されます。児童の体力増強と平等な学習環境づくりが目的で、学用品も人に持たせず、自分で持ち運ぶようにさせました。
このとき、通学カバンのもとになったのが、軍隊で兵士が背負っていた布製の「ランセル」です。
伊藤は大正天皇の学習院入学を祝い、革でできた箱型のランセルを特注します。型崩れせず、丈夫な大正天皇のランセルは、現在のランドセルの原型となりました。
後年、千円札の肖像に
伊藤は、明治も終わりに近づいた1909(明治42)年に、中国のハルビン駅で銃撃され、68歳で亡くなります。東京・日比谷公園で国葬が行われたときには、多くの国民が訪れて死を悼みました。
伊藤が、再び日本人の前に姿を現したのは、1963(昭和38)年のことです。新しく発行する千円札の肖像の候補として、明治天皇や岩倉具視などとともに名前が挙がりました。
候補は、伊藤と渋沢栄一の2人に絞られましたが、最終的に伊藤が選ばれます。
当時は、現在のように優れた印刷技術がなく、「ひげ」を生やした伊藤の方が偽造防止に好都合だったのです。伊藤の千円札は、1986(昭和61)年まで発行されていました。
憲法や内閣制度をつくった伊藤博文
伊藤博文は、本来であれば、政治を動かす立場からはほど遠い、農民の出身でした。運良く下級武士の一員に加わりますが、生粋の武家出身者との差は大きかったと考えられます。
しかし学ぶ努力を怠らず、誰でも通える松下村塾やイギリス公費留学などのチャンスをうまく生かして、着実に出世します。明治政府では、総理大臣となって憲法や内閣をつくり、国会の開催にこぎつけました。
近代日本のベースをつくり上げた伊藤の功績やエピソードを、これから歴史を学ぶ子どもにも、分かりやすく伝えてあげましょう。
もっと知りたい人のための参考図書
小学館版 学習まんが人物館「伊藤博文」
祥伝社新書 「伊藤博文の青年時代―欧米体験から何を学んだか」
講談社学術文庫 「伊藤博文 近代日本を創った男」
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構成・文/HugKum編集部