明治政府が実施した「富国強兵政策」によって、日本は近代国家に生まれ変わりました。今では、当たり前となった学校制度や、工場での大量生産が導入されたのも、富国強兵の一環です。政府がどのような目的で政策を進めたのか、富国強兵の背景や影響を解説します。
富国強兵とは、なに?
「富国強兵」は、いつ頃、どのような意味で用いられていた言葉なのでしょうか。明治時代の日本の状況と合わせて見ていきましょう。
明治政府が行った政策のスローガン
富国強兵は、明治政府による一連の政策を象徴するスローガンです。開国後、日本人は、さまざまな形で欧米諸国との国力の差を見せつけられます。
政治のやり方から経済、軍事力、国民の学力まで、あらゆる面で日本は後れを取っていました。このままでは欧米諸国と対等に外交できないばかりか、侵略される恐れもあると考えた明治政府は、富国強兵を合言葉に、国力の充実をはかったのです。
富国強兵政策には、産業の近代化や交通・通信網の発達を狙った「殖産興業」も含まれます。殖産興業では、各地に官営の工場が造られ、その中の一つである群馬県の富岡製糸場は「世界遺産」に登録されました。
鉄道の敷設や電信・郵便制度も、殖産興業によって進められた事業です。
欧米を参考にした部分も
欧米諸国がもたらす文化や物品は、日本人を驚かせるものばかりでした。明治政府の中心人物である岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)は、実際に欧米を訪問して、日本よりもはるかに進んだ様子を目の当たりにしています。
近代化を急ぐため、明治政府は、欧米の制度や技術を積極的に取り入れていきました。軍隊や学校の制度を学び、「お雇い外国人」と呼ばれた技術者を招いて、都市整備や産業振興の指導を依頼したのです。
最新の文化や技術を学ぶため、多くの日本人留学生も派遣されました。
基礎となる三つの改革を簡単に紹介
明治政府は近代国家をつくるために、学校・軍隊・税収の改革に取り組みました。富国強兵の基礎となった三つの改革について、内容を簡単に紹介します。
国民の学力を向上させる「学制」
国を強くするには、まず国民の教育が必要と考えた明治政府は、フランスの制度を参考に「学制」を公布します。学制は、身分や性別にかかわらず、国民が皆、同じ教育を受けられるようになった、日本で最初の教育法令です。
6歳以上の男女は全員、小学校に通うことや、全国を学区に分けて、大学校や中学校を設置することが定められました。
満20歳以上の男子に義務付けた「兵制」
欧米諸国と対等に渡り合うためには、軍事力の強化も欠かせません。当時の日本には軍隊と呼べるものがなく、戊辰(ぼしん)戦争の「官軍(明治政府軍)」も、各藩の藩士が寄り集まっていただけでした。
国を守る強い軍隊をつくるため、政府は国民から兵士を集める「徴兵令(ちょうへいれい)」を公布します。徴兵令によって、満20歳になった健康な男子は、原則として3年間の兵役に就くことになりました。
ただし、当初は多くの免除項目が設けられており、実際に兵役に就いた人数は少なかったとされています。
国の運営を安定させる「税制」
国の財政が安定しないのも、明治政府の大きな悩みの種でした。政策の実行には、莫大な費用がかかります。しかし、当時の日本の税制度は、米などの農作物を納める「年貢」が基本だったため、収穫量によって収入が大きく変わってしまうのです。
税収を安定させるため、明治政府は「地租改正」を行い、収穫量ではなく、土地に課税することにしました。地租改正で、常に一定の税金が入ってくるようになり、政府の財政は安定します。
収穫量が多かった場合でも、払う税金は同じなので、農民の生産意欲も向上しました。さらに、地租改正によって、個人が土地の所有者と認められ、売買も可能になったのです。
このため、土地を売って他の仕事を始める人や、生産量を高めて利益を上げようとする人が増え、経済の活性化につながりました。
富国強兵の目的
明治政府は、なぜ、「富国強兵」のスローガンを掲げてまで、近代化を急いだのでしょうか。主な目的を解説します。
国を豊かにするため
富国強兵の最大の目的は、「国を豊かにすること」です。幕末の動乱期、日本では開国派と攘夷(じょうい)派が対立していました。ただ、日本と欧米の国力に大きな開きがあることは、どちらも分かっていました。
薩摩藩では、藩主主導で富国強兵論に基づいた改革が進められ、近代的な工場群を建設します。幕府の役人や公家(くげ)にも、それぞれの立場で富国強兵を説く人物が現れました。
維新前から「国を豊かにしなければ、日本の将来は危うい」と多くの人が考えていたことが、明治政府の積極的な富国強兵政策につながったといえるでしょう。
不平等条約を改正するため
欧米諸国に圧倒的な力を見せつけられた徳川幕府は、開国にあたって、不平等条約を結んでしまいます。維新後、明治政府が欧米を倣(なら)い、法整備に取り組むなか、不平等条約にある「治外法権」が問題となりました。
治外法権がある限り、日本に住んでいる外国人に日本の法律を適用できません。政府は岩倉具視を大使とした「岩倉使節団」をアメリカに派遣し、不平等条約の改正交渉にあたらせました。
使節団はアメリカ大統領に面会して条約改正を求めますが、国力に差があり過ぎたことなどから実現には至りませんでした。やむなく、もう一つの目的だった欧米諸国の視察に専念し、多くの情報を持ち帰ります。
使節団の報告を聞いた政府は、欧米に条約改正を認めてもらえるよう、先に近代化を急ぐ方向に方針転換したのです。
日本を発展させた富国強兵
現在の豊かで平和な日本では、富国強兵という言葉は、どこか他人事(ひとごと)に聞こえます。しかし、開国当初の日本は、経済力でも軍事力でも、欧米諸国には、まるで歯が立たない弱小国でした。
不平等条約で自国の弱さを痛感した日本は、富国強兵政策によって急ピッチで近代国家へと発展します。欧米と肩を並べることを夢見て政策を進めた当時の日本人の気持ちを、子どもと一緒に想像してみるのも面白いかもしれません。
構成・文/HugKum編集部