「異国船打払令」が国内外に与えた影響と、廃止までの流れをチェック【親子で歴史を学ぶ】

異国船打払令は、江戸時代の歴史を勉強するときに押さえておきたい言葉の一つです。異国船は外国船のことですが、全ての国を対象としていたわけではありません。異国船打払令の内容や国内外に与えた影響、廃止までの流れを解説します。
<上画像:江戸時代の長崎・出島の様子 Philipp Franz von Siebold, Wikimedia Commons(PD)>

異国船打払令とは

「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」は、主に外国船を日本へと近づけないために発令されました。具体的な内容と、発令に踏み切った理由を見ていきましょう。

外国船を追い払う法令

異国船打払令は、1825(文政8)年に江戸幕府が発した法令です。諸大名に対して、日本の沿岸部に来る外国船は、来訪の理由に関係なく攻撃して追い払うことを命じています。

ただし、すべての外国船が対象だったわけではなく、当時、日本との貿易を許されていたオランダや清(しん:中国)などは対象外でした。

異国船打払令は、「無二念(むにねん)打払令」ともいいます。「二念」とは、二つの異なった考えのことです。異国船を発見した場合「二念無く」打ち払うとされていたため、このように呼ばれています。

遊覧船「黒船サスケハナ号」(静岡県下田市)。1853(嘉永6)年の黒船来航時、ペリー提督が搭乗していた東インド艦隊の旗艦。もちろんこの時は追い払うどころか日本中が大騒ぎだった。サスケハナ号は1883(明治16)年にスクラップとなるが、ここ下田港で蘇った。

外国船を追い払いたかった理由

異国船打払令を発令した理由は、幕府や諸藩が、頻繁に来訪する外国船の対応に追われていたためだと考えられます。幕府は、以前から「鎖国(さこく)」によって、特定の国以外との交流を断ってきました。鎖国をしていた理由は、貿易統制やキリスト教を禁止するためです。

しかし、当時の日本には、通商や食料の補給などを求める外国船が頻繁に訪れるようになっており、船員と住民との間で、もめ事が起こることもありました。

例えば、イギリスの軍艦がオランダ商館員を人質にして物資を要求した「フェートン号事件」などが起こっています(1808)。こうした外国船との摩擦を防ぐために、幕府は取り締まりを強化する必要があったといえます。

異国船打払令がもたらした影響

異国船打払令は、理由を問わず外国船を攻撃して追い払うという、物騒なものでした。この政策が国内外にどのような影響を与えたのか、見ていきましょう。

モリソン号事件

1837(天保8)年に、「モリソン号事件」が起こります。モリソン号は、日本の漂流民を送り届けるのをきっかけに、日本と交流を図ろうとやって来たアメリカ船でした。

当時描かれたモリソン号のスケッチ Wikimedia Commons(PD)

モリソン号は最初に浦賀(うらが、現在の神奈川県横須賀市)への入港を試みますが、異国船打払令によって砲撃を受け、追い払われます。その後、鹿児島湾に向かったものの、交渉はうまくいかず、やはり砲撃されてしまいました。

翌年、オランダからモリソン号が日本の漂流民を乗せていたことを知らされた幕府は、このような外国船をどう扱うべきかを評議することになります。さらに、このことは民間にも伝わり、国内からの反発が高まります。

蛮社の獄

モリソン号事件がきっかけとなり、1839(天保10)年には「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」が起こります。

蛮社の獄とは、江戸幕府による弾圧事件のことで、渡辺崋山(わたなべかざん)・高野長英(たかのちょうえい)といった、西洋研究に熱心な人物が、幕府を批判した罪で逮捕されました。

渡辺崋山は鎖国政策を批判する「慎機論(しんきろん)」、高野長英は正確な海外情報把握の重要性などを提言する「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」を書き、これらが幕府批判の根拠とされます。

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異国船打払令を廃止するまでの出来事

異国船打払令は、世界情勢の変化などをきっかけに、結局は廃止されることになります。廃止されるまでの流れを見ていきましょう。

大飢饉や一揆などで幕府が動揺

1833(天保4)年から1837(天保8)年頃にかけて、低温や大雨などの天候不順が続き、「天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)」が起こります。飢饉によって全国各地で多数の死者が出たほか、一揆や打ちこわしが多発しました。

1837年には、大坂で「大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱」が起こります。大塩平八郎は、人々が飢えているにもかかわらず、江戸に米を送るのをやめない大坂奉行所や、米を買い占める豪商の姿勢に怒りを覚え、仲間とともに武装蜂起(ほうき)しました。

乱はすぐに鎮圧されたものの、平八郎が大坂町奉行所の元役人だったことや、大坂が幕府の直轄領だったこともあり、国内に大きな衝撃を与えます。

「西宮砲台(にしのみやほうだい)」(兵庫県西宮市)。幕末になり海防の重要性を感じていた江戸幕府は勝海舟の建議を取り入れ、大坂湾海防のために和田岬砲台、舞子砲台、今津砲台とともに西宮砲台を建設。1866(慶応2)年竣工。実用的でなく未使用のまま明治に。

アヘン戦争で、清がイギリスに負ける

アヘン戦争は、1840(天保11)年から1842(天保13)年にかけ、清とイギリスの間で、アヘンの密輸をめぐって起きた戦争です。当時、イギリスがもたらしたアヘンにより、清の国内で多くの中毒者が出てしまいました。

清がアヘンの輸入を禁止した後も、隠れてアヘンを持ち込む商人がいたので、清はアヘンを没収して廃棄し、英米のアヘン商人を排除する動きを見せます。イギリスがこれを不服として武力を行使した結果、イギリスが勝利し、清は開国と自由貿易を強制されました。

日本は清に勝利したイギリスの圧倒的な軍事力に対し、大きな脅威を感じます。そして、異国船打払令によって諸外国を刺激するのはよくないと考えるようになりました。

水野忠邦が薪水給与令を出す

アヘン戦争の結果を受け、1842(天保13)年に老中の水野忠邦(みずのただくに)が「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を出します。

薪水とは船を動かす燃料となる薪(たきぎ)や水のことです。異国船打払令は廃止され、日本に来た外国船が燃料や食料不足で困っている場合は、物資を与えてから速やかに退去させる流れに変わりました。

なお、幕府は1806(文化3)年にも「薪水給与令」を出しており、忠邦が発令したのは「天保薪水給与令」とも呼ばれます。

縣居(あがたい)神社(静岡県浜松市)。1839(天保10)年、浜松出身の江戸時代中期の国学者・賀茂真淵(かものまぶち)を崇拝していた浜松藩主の水野忠邦が、真淵を祭神として創建。忠邦は薪水給与令を出し、一方で江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させている。

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異国船打払令と、当時の時代背景を理解しよう

異国船打払令は、日本にやって来る外国船の取り締まりを強化するために発令されました。日本が鎖国中にもかかわらず、頻繁に外国船が訪れるようになったことや、上陸してきた外国人とのもめ事があったことなどが、主な理由といわれています。

しかしモリソン号事件で、理由を問わずに外国船を攻撃するのはよくないという風潮が生まれ、アヘン戦争の結果を経て、幕府の対外政策も変化していきます。

異国船打払令の発令は、当時の日本がどのように外国と関わろうとしていたのかを理解するためにも、重要な出来事といえるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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