「蛮社の獄」とは? 発端となった事件や中心人物をわかりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

「蛮社の獄」は、江戸幕府の異国船打払令を批判した蘭学者が処罰された事件です。鎖国下の日本では、外国に対してどのような政策が取られていたのでしょうか? 蛮社の獄が起こった当時の背景や処罰された人物、開国に向かう流れを分かりやすく解説します。
<上画像:モリソン号(左)、高野長英(右上)、渡辺崋山(右下)>

蛮社の獄とは?

蛮社の獄(ばんしゃのごく)」は、江戸時代後半に起きた事件です。「安政の大獄(あんせいのたいごく)」と間違えられるケースもあるため注意が必要です。事件が起こった背景や理由、処罰された人物などが異なります。詳しく見ていきましょう。

江戸幕府による言論弾圧事件

「蛮社の獄」は、1839(天保10)年に起こった江戸幕府による言論弾圧事件です。当時の幕府は鎖国(さこく)政策を行い、日本と外国との交流を厳しく制限していました。

蛮社の獄の「蛮社」とは、「蛮学社中(ばんがくしゃちゅう)」の略語です。知識人の勉強会である「尚歯会(しょうしかい)」に出席した蘭学者グループ・蛮学社中のメンバーが、幕府の鎖国政策やモリソン号事件を批判し、処罰されました。

安政の大獄との違い

いっぽう「安政の大獄」は、1858(安政5)年から翌年にかけて、江戸幕府が行った弾圧事件です。この事件では、尊王攘夷一派(そんのうじょういいっぱ)や一橋派(ひとつばしは)の大名・公卿(くぎょう)が処罰されています。

当時、天皇の許可を得ずに「日米修好通商条約」を結んだ幕府に対し、人々からは批判の声が上がっていました。天皇を尊び、外国勢力を追い払おうとする尊王攘夷運動が活発化し、幕府を批判する潮流が台頭します。

また、幕府内では将軍の後継ぎ問題が起こり、井伊直弼(いいなおすけ)を筆頭とする南紀派と一橋派との対立構造が生まれていました。井伊が大老に就任して将軍継嗣(けいし)問題は決着しましたが、一橋派も強い勢力を持ち続けます。

このままでは幕府の権威や世の秩序を保てないと考えた井伊は、条約調印と将軍継嗣に反対した者を次々と投獄し、処罰したのです。

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蛮社の獄が起こった当時の日本は?

蛮社の獄では、幕府批判を行った蘭学者が処罰されました。事件が起こった理由を知るためには、当時の日本の状況や幕府が行っていた政策を理解する必要があります。

鎖国政策の真っ只中

蛮社の獄が起こった1839(天保10)年、日本は鎖国の真っ只中にありました。鎖国とは、外国との交流をやめ、国を閉ざすことです。幕府は、清(しん、中国)・オランダを除く外国との交流を段階的に絶ち、1639(寛永16)年にポルトガル船の来航を禁じて鎖国を完成させました。

●1613(慶長18)年:キリスト教の禁止を命じる
●1616(元和2)年:ヨーロッパ船の来航を長崎・平戸(ひらど)に限定する
●1624(寛永元)年:スペイン船の来航を禁じる
●1639(寛永16)年:ポルトガル船の来航を禁じる

外国との貿易によって得られる恩恵は少なくありませんでしたが、キリシタン大名やキリスト教徒が、一揆(いっき)の勢力となることを警戒し、鎖国政策に踏み切ったといわれています。

異国船打払令の発令

幕府は、外国との交易や交流を断つだけでなく、1825(文政8)年に「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」を発令します。

発令の一因となったのが、1808(文化5)年に起きた「フェートン号事件」です。オランダ船の拿捕(だほ)を狙うイギリス船が長崎湾内に侵入し、オランダ商館員を人質にして、燃料や食料を要求しました。

鎖国下の日本では当初、来航した外国船に燃料などを与えていましたが、ロシア・イギリス・アメリカなどの船が日本の近海にたびたび出現するようになったため、接近する外国船をすべて打ち払う方針に転換します。

蘭学の隆盛

鎖国の完成後、日本との貿易が認められたのは、清とオランダのみでした。幕府は長崎港内に人工島・出島(でじま)を築き、オランダ商館員を住まわせます。

史跡 出島和蘭商館跡(長崎市)。出島は、1636(寛永13)年に長崎を代表する豪商25人の共同出資で造られた人工島。オランダ商館は、1641(寛永18)年に平戸から出島に移転してきた。幕末の開国までの約218年もの間、出島は西欧に開かれた唯一の窓口だった。

鎖国下では、オランダを通じて西洋の知識や技術を学ぶことが認められたため、オランダ人やオランダ語を通じて学ぶ西洋の学問「蘭学(らんがく)」が花開きます。

研究分野は多岐にわたりましたが、その中心となったのが自然科学です。当時の蘭学の担い手は医師であり、日本初となる西洋解剖学書の翻訳書「解体新書(かいたいしんしょ)」は、日本の医学を前進させるきっかけとなりました。

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蛮社の獄の発端の一つ「モリソン号事件」とは?

蛮社の獄の発端の一つといわれているのが、1837(天保8)年に起こった「モリソン号事件」です。事件発生から蛮社の獄に至るまでの流れを見ていきましょう。

アメリカの商船を砲撃した事件

「モリソン号」は、保護した日本人漂流民を乗せてやってきたアメリカの商船です。1837年、モリソン号は漂流民の送還と通商を求めて日本に来航しましたが、イギリスの軍艦と勘違いされ、浦賀(神奈川県)と山川(鹿児島県)で砲撃を受けます。

当時の幕府は、日本に近づく外国船を理由なく打ち払ってよいとする「異国船打払令」を発令していました。しかし、後にモリソン号が日本人の漂流民を乗せた非武装の商船だったことが明らかになります。

モリソン号のスケッチ Wikimedia Commons(PD)

幕府への批判が高まる結果に

幕府の砲台が非武装の商船を襲撃したのをきっかけに、国内では、異国船打払令や鎖国政策を批判する声が高まります。本来であれば、幕府批判は許されませんが、当時は幕府の権威が衰退していたこともあり、公然と批判する者も現れたのです。

幕府の保守的な方針を強く批判したのは、外国の知識や技術を積極的に吸収していた蘭学者たちでした。ただし幕府の役人には儒学の信奉者が多く、目付(めつけ)の鳥居耀蔵(とりいようぞう)は、蘭学者を弾圧する機会を狙っていたといいます。

蛮社の獄で処罰された、主な人物

蛮社の獄で処罰された主な人物は、渡辺崋山(わたなべかざん)と高野長英(たかのちょうえい)です。

高野長英は「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」、渡辺崋山は「慎機論(しんきろん)」を書き、幕府批判の罪に問われました。

渡辺崋山

渡辺崋山[椿椿山 – 田原町博物館所蔵]Wikimedia Commons(PD)

渡辺崋山は、三河国田原藩(みかわのくにたはらはん、現在の愛知県田原市周辺)の藩士ですが、生計のために画を極め、画家としても活躍した人物です。30代で蘭学・兵学の研究を開始し、蘭学者や洋学者と交流を深めながら、外国事情の研究に力を入れました。

モリソン号事件の後、研究を基に慎機論を書き、幕府の方針を批判します。慎機論は草稿の状態でしたが、家宅捜索によって発見され、田原藩の池ノ原屋敷での蟄居(ちっきょ)を命ぜられました。

蟄居とは、自宅や一定の場所に閉じ込めて謹慎させる刑罰です。崋山は、蛮社の獄から2年後の1841(天保12)年、自刃によって生涯を閉じます。

渡辺崋山幽居跡「池ノ原屋敷」(愛知県田原市)。1832(天保3)年、崋山は田原藩家老職に就任する。20代半ばから画家として知られた崋山は、政治ではなく画業に専念したかったがそうはならなかった。謹慎生活を送るこの屋敷の納屋で、絶筆の書を残し切腹。

高野長英

高野長英は、江戸時代を代表する医者・蘭学者です。江戸留学中に西洋内科とオランダ語を学び、長崎にてシーボルトの門下生となりました。シーボルトは、西洋医学の普及のために「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開いたオランダ商館付き医官です。

高野長英[椿椿山 – 高野長英記念館所蔵]Wikimedia Commons(PD)

長英は、江戸で開業医をしながら、渡辺崋山らと蘭学研究グループを結成し、西洋文化の研究に力を入れます。モリソン号事件の後、異国船打払令を批判した戊戌夢物語を起稿したことで、現在の無期懲役に当たる「永牢(えいろう)」に処され、伝馬町牢屋敷(てんまちょうろうやしき)に収監されました。

6年後の1844(天保15)年、火災に乗じて脱獄するものの、さらに6年後の1850(嘉永3)年に幕府の役人に襲われ、人生の幕を下ろします。

伝馬町牢屋敷跡(東京都中央区)。現在は区立十思(じっし)公園となり、都指定文化財になっている。収監後の長英は、牢内で服役者の医療に努め、劣悪な環境改善なども訴えている。脱獄の際の火災は、長英が牢で働く男をそそのかして放火させたという説が有力。

蛮社の獄のその後と、世界情勢

外国に強硬な姿勢を取っていた幕府ですが、蛮社の獄の後は、鎖国の継続を揺るがす事件が起こります。特に、「アヘン戦争」と清の敗北は日本に大きな衝撃を与え、開国に向かう流れを加速させました。

アヘン戦争と清の敗北

蛮社の獄の翌年の1840(天保11)年、清とイギリスとの間でアヘン戦争が勃発します。イギリスは清が行ったアヘンの破棄・没収を理由に開戦に踏み切り、軍艦を送って各地を攻撃しました。

清はイギリスに敗北し、南京(なんきん)条約の締結によって「賠償金の支払い」「公行(こうこう)の廃止」「香港島(ほんこんとう)割譲」「5港の開港」を余儀なくされます。公行とは、清が対外貿易を許可した商人のことです。

イギリスの軍事力に危機感を覚えた幕府は、1842(天保13)年に異国船打払令を「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」に改め、来航した外国船には燃料や水、食料を与えて穏便に退去させる方向にかじを切ります。

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ペリー来航と日米和親条約の締結

日本が鎖国政策を続けている間、欧米諸国は近代化を進め、植民地の獲得競争を展開します。競争の波は日本にも迫り、蛮社の獄から14年後の1853(嘉永6)年、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航します。

ペリーは、開国を求める大統領の国書を幕府に渡し、1年後の回答を約束させました。アヘン戦争で、欧米諸国の圧倒的な軍事力を見せつけられていた幕府は、鎖国を守り抜くのは困難と判断します。

1854(嘉永7)年、「日米和親条約」が締結され、200年以上も続いた鎖国は終わりを告げます。条約には、「アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること」「下田 (しもだ、静岡県)と函館 (はこだて、北海道)の2港を開港すること」などが盛り込まれました。

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蛮社の獄から開国へ向かう流れを把握しよう

蛮社の獄は、鎖国政策を続ける幕府と、開国を期待する人々との対立が引き起こした幕末期の一大事件です。幕府は、政策批判をする蘭学者を処罰し、外国に対する強硬姿勢を崩しませんでした。

しかし、アヘン戦争で清が敗北すると、幕府は危機感を募らせます。ペリーが来航したときは、戦わずしてアメリカの要求を受け入れ、200年以上続いた鎖国政策が終了しました。蛮社の獄の後、どのような経緯で開国に向かっていったのかを押さえ、幕末の歴史学習に役立てましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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