安政の大獄とは
まず「安政の大獄(あんせいのたいごく)」とは、どういった出来事なのかをみていきましょう。主導した井伊直弼(いいなおすけ)の人物像や、「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」との違いとあわせて説明します。
幕府の大老・井伊直弼による弾圧
安政の大獄とは、1858年(安政5年)から翌年にかけて、江戸幕府の大老・井伊直弼によって主導された弾圧のことです。
直弼は、幕府を中心とした世の中を守るために、反対派を次々と粛清(しゅくせい)していきました。弾圧の対象となったのは、次期将軍に一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推した「一橋派」と、天皇を尊び異国を追い払う思想をもつ「尊王攘夷(そんのうじょうい)派」の大名や公卿(くぎょう)たちです。
井伊直弼について
1815年(文化12年)、彦根藩主・井伊直中(なおなか)の十四男として生まれます。井伊家の家督はすでに兄が継いでいたため、表立った場に出る可能性は低い立場でした。
そのため、直弼は兵学・茶道などの教養を磨き、国学・歌道・古学の勉学に精を出します。自分の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けたことからも、出世とは無縁の人生を送ろうと考えていたようです。
ところが、兄たちが次々と亡くなったことで、35歳のときに彦根藩主となり、43歳で幕府の大老に就任しました。大老となった直弼は、「日米修好通商条約」を結んだり、14代将軍に徳川家茂(いえもち)を据えたりするなど辣腕(らつわん)を振るいます。
直弼のやり方に反対する者は、次々に弾圧していきましたが、1860年(安政7年)、江戸城桜田門(さくらだもん)の外で暗殺されました(桜田門外の変)。
激動の時代において幕府の権威と秩序を保っていくには、反対派の処罰はやむを得なかったともいえるでしょう。直弼が責任を一手に引き受けたからこそ、大きな動乱を避けられたという見方もあります。
蛮社の獄との違い
安政の大獄と似ている歴史上の出来事に、蛮社の獄があります。蛮社の獄は、安政の大獄よりも20年ほど前に、幕府を非難した知識人を弾圧した一連の事件です。
1837年(天保8年)、アメリカの商船モリソン号が、薪(まき)や水を求めて日本に立ち寄ろうとした際、日本側は砲撃を加えて追い払いました。幕府が出していた「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」に従った対応です。
モリソン号事件での幕府の対応を批判した、渡辺崋山(わたなべかざん)、高野長英(たかのちょうえい)らが処罰されます。渡辺崋山は永蟄居(えいちっきょ)、高野長英は永牢(えいろう)の末、自殺しました。
安政の大獄が起こった時代背景
安政の大獄は非道だというのは簡単ですが、主導した井伊直弼の側にも理由があったはずです。なぜ、こんなにも厳しく反対派を弾圧する必要があったのでしょうか。
将軍家の継嗣問題
安政の大獄の原因の一つに、将軍継嗣(けいし)問題が挙げられます。「黒船来航」によって鎖国政策が危機に瀕(ひん)しているときに、12代将軍・徳川家慶(いえよし)が亡くなりました。13代将軍になった徳川家定(いえさだ)も、病弱で子もいない状況です。
外国と渡り合えるくらいの知性と度胸のある将軍が必須だと考えた有力大名たちは、一橋慶喜を推します。一橋慶喜の実父である徳川斉昭(なりあき)をはじめ、薩摩藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)、越前藩主・松平慶永(まつだいらよしなが)、土佐藩主・山内豊信(やまうちとよしげ)らが一橋派と呼ばれました。
一方、直弼ら譜代(ふだい)大名は、最も将軍に血筋の近い紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)を推します。こちらの派閥は、紀州を南紀ともいうことから南紀派と呼ばれました。
将軍継嗣問題は、直弼が大老に就任して徳川慶福(後に家茂へ改名)を14代将軍の座に据えたことで、一応は決着します。しかし、一橋派の勢力は残ったままでした。
日米修好通商条約の調印
安政の大獄のもう一つの原因は、直弼が朝廷に無許可で行った日米修好通商条約の調印です。日米修好通商条約とは、アメリカ総領事のハリスが調印するように迫った条約で、日米間での貿易について定められていました。
1858年(安政5年)、朝廷からの許可を得ないまま、直弼は条約に調印してしまいます。その後、アメリカに続いて、オランダやロシア、イギリスにフランスとも、同じ内容で条約を締結しました。
朝廷の許可なく条約調印したことに対して、直弼に対する批判の声が高くなり、一橋派の有力大名や孝明(こうめい)天皇も激怒します。このことが、「外国人を追い出して天皇を敬うべき」とする尊王攘夷運動の高まりにつながっていくのです。
安政の大獄で処罰を受けた人物
安政の大獄では、直弼に反対する人々が弾圧を受けました。ここでは、そのなかでも有名な人物についてみていきましょう。
永蟄居を命じられた「徳川斉昭」
安政の大獄では、大名クラスの人物も処罰されました。代表的なのは、一橋派の筆頭ともいえる徳川斉昭です。直弼を批判したことから、生涯にわたる謹慎(きんしん)を意味する永蟄居を命ぜられました。
水戸藩主・徳川治紀(はるとし)の三男として生まれ、兄の死後に水戸藩主となります。藩政改革を推し進める一方、参与(さんよ)として幕政にも関わっていきました。
熱心な尊王攘夷論者で、黒船来航の際には、大砲や弾薬、軍艦を幕府に献上し、江戸防衛を主張したほどです。そのため、開国推進派の直弼と激しく対立することになりました。
逮捕・処刑された「吉田松陰」
安政の大獄と聞いてすぐに思いつくのは、吉田松陰(よしだしょういん)の名前ではないでしょうか。長州藩の下級武士の子として生まれた松陰は、幼くして藩校・明倫館(めいりんかん)で兵学を講義するほどの秀才でした。
1854年に黒船が来航した際には、小舟で黒船にこぎ着けて、密航を頼む事件を起こしています。このことが原因で投獄されますが、獄中でも知識欲・好奇心は衰えることはありませんでした。
実家に戻った後は、「松下村塾(しょうかそんじゅく)」を開き、高杉晋作(たかすぎしんさく)・久坂玄瑞(くさかげんずい)・伊藤博文(いとうひろぶみ)などを育成します。
その後、日米修好通商条約の調印をめぐって幕府を激しく批判したことで牢(ろう)に入れられ、処刑されました。
その他の処罰対象者
安政の大獄では、上記の2人以外にも死罪8人、獄中死6人、大名・公家を含む100人以上が遠島・追放・出家・隠居・謹慎などに処されました。一橋慶喜も謹慎処分を受けています。
ほかには、越前福井藩・松平慶永(通称・春嶽=しゅんがく)のもとで活動していた橋本左内(はしもとさない)は、将軍継嗣問題に関わったとして斬首されます。
小浜(おばま)藩の儒学者・梅田雲浜(うめだうんびん)は、日米修好通商条約の調印の際、孝明天皇の密勅(みっちょく)に関わったとして捕らえられ、獄中死しました。
安政の大獄による影響
安政の大獄は、倒幕・維新へと続く世の中の変化に大きな影響を与えました。
桜田門外の変が起こる
安政の大獄で、さらに人々の反感を買った直弼は、1860年(安政7年)3月3日、江戸城の桜田門外で暗殺されます。江戸城へ登城するところを、水戸浪士ら18人に襲撃されたのです。
直弼の供侍(ともざむらい)は約60人いたとされていますが、早朝からの雪が災いします。供侍たちは雨合羽(あまがっぱ)を羽織り、刀の柄(つか)や鞘(さや)を革袋で覆っていました。そのため、とっさの防戦が間に合わず、直弼は討たれてしまいました。
幕府の大老が江戸城の近くで暗殺されるという事件により、幕府の権威は大きく傷つき、後の「明治維新」へとつながることになります。
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戊辰戦争につながる
黒船来航から続いた世の中の大きなうねりは、直弼の死後もおさまりませんでした。
桜田門外の変で権威が低下した幕府は、朝廷との融和をはかろうとしますが、うまくいきません。朝廷との対立が続き、「薩長同盟」をはじめとする倒幕運動が活発になるのを受け、15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)は、政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」を行いました。
しかし、慶喜の処遇に不満をもった旧幕府側が、軍を組織して抵抗します。新政府側も応戦し、「戊辰(ぼしん)戦争」が始まりました。
各地で激戦が続きましたが、1869年(明治2年)の「五稜郭(ごりょうかく)の戦い」でようやく決着します。旧幕府軍は新政府軍に降伏し、新しい時代が幕をあけました。
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歴史の要点を、しっかり確認しよう
安政の大獄は、黒船来航によって混乱していた時期に、大老・井伊直弼が中心となって行った弾圧です。これにより、吉田松陰や橋本左内など多くの優秀な人材を失うことになりました。
幕末には、考え方の対立が次々と起こるので、歴史好きな人でも当時の状況を把握しきれないかもしれません。年代を追って、要点をしっかり確認していくとよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部