桜田門外の変はなぜ起きた? 時代背景と幕府への影響について解説【親子で歴史を学ぶ】

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「桜田門外の変」は、幕末の日本を揺るがした大事件です。幕府の最高責任者が暗殺されたこの事件で、日本の歴史は大きな転換点を迎えました。桜田門外の変が起こった背景や関連人物、事件前後の出来事を分かりやすく解説します。

「桜田門外の変」とは?

「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」は、歴史の教科書に必ず登場する有名な出来事ですが、事件の詳細までは覚えていない人も多いのではないでしょうか。

まずは、事件が起こった日時や場所など、基本的な知識をおさらいしましょう。

井伊直弼の暗殺事件のこと

「桜田門外の変」とは、1860(安政7)年3月に、江戸幕府の大老・井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺された事件のことです。江戸城桜田門の近くで起きたことから、「桜田門外の変」と呼ばれています。

事件を起こしたのは、水戸の脱藩藩士17名と薩摩藩士1名のグループです。彼らは雛(ひな)祭りを祝うために江戸城へ向かう直弼の行列に襲いかかり、目的を達成しました。

現場となった桜田門は、江戸城西の丸の南側にあります。1663(寛文3)年に再建されたものが現存しており、国の重要文化財に指定されています。

江戸城桜田門(東京都千代田区)。左側の「高麗門(こうらいもん)」、右奥に見える「渡櫓門(わたりやぐらもん)」、ともに1663年の建築。桜田門は、この二重構造になり枡形を構成している。重要文化財。正面には警視庁庁舎があり、通称「桜田門」といわれる。

井伊直弼について

井伊直弼は、1815(文化12)年に、彦根(ひこね)藩主の14男として生まれます。14男の直弼には、藩主になれる可能性はほとんどありませんでした。しかし、跡を継ぐはずの兄が急死し、他の兄たちも他家に養子に出されていたために、35歳で藩主に就任します。

思いもよらず藩主になった直弼は、身の引き締まる思いで藩政改革に取り組み、名君として領民から慕われました。幕府が直弼を大老職に就けたのも、彦根での実績があったからです。

権力に物を言わせる非道なイメージを持たれがちな直弼ですが、本当は日本の未来を考え、最善の策を尽くした人物だったと評価する意見もあります。

「桜田門外の変」が起きた原因と時代背景

桜田門外の変が起こった原因として、井伊直弼が実施した三つの政策があげられます。世間の反発を招いた政策と、当時の時代背景について見ていきましょう。

日米修好通商条約に無断で調印

アメリカのペリーが、黒船を率いて日本に来航した翌年、当時の老中・阿部正弘(あべまさひろ)は、天皇の許可を得ずに「日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)」を締結します(1854)。

その2年後、アメリカの総領事ハリスが下田に着任し、貿易の開始を要求してきました。このとき大老となっていた井伊直弼は、またしても天皇に無断で1858(安政5)年に「日米修好(にちべいしゅうこう)通商条約」を締結します。

いずれも日本に不利な不平等条約でしたが、アメリカの武力を目の当たりにした幕府としては、戦争を避けるためにはやむを得ないことと考えていました。

しかし、外国人を嫌って開国に反対していた孝明(こうめい)天皇は、幕府の対応に不満を募らせます。アメリカの恐ろしさを知らない民衆も、幕府が天皇をないがしろにしていると非難するようになるのです。

将軍の後継者問題もきっかけに

当時の幕府は、内部にも大きな問題を抱えていました。13代将軍・徳川家定(いえさだ)の後継者問題です。家定は、生来、病弱でいつ亡くなってもおかしくないうえに、跡継ぎも決まっていませんでした。

このため、幕府としては早めに次の将軍を決めておく必要があったのです。

次期将軍候補として名前があがったのは、第9代水戸(みと)藩主・徳川斉昭(なりあき)の子で一橋家当主の慶喜(よしのぶ)と、家定の従兄弟(いとこ)にあたる第13代紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)の2人でした。

平時ならば、家定と血のつながりが深い慶福が跡継ぎでも問題はありません。しかし、慶福は、当時12歳の少年でした。幕府始まって以来の危機的な状況を乗り切るためにも、年長で賢明の誉れ高い慶喜が適任と考える人がたくさんいたのです。

こうして慶福派と慶喜派の2大派閥が争っていたところ、大老に就任した直弼が、次期将軍は慶福と強引に決めてしまいます。慶喜を推していた人々は、直弼の専横的なふるまいに激しく反発しました。

過激な処罰を行った「安政の大獄」

慶喜の実家である水戸藩は、同じく慶喜を推していた朝廷に働きかけ、幕府の独断を諫(いさ)める勅書(ちょくしょ)を得ます。勅書が、幕臣である水戸藩経由で届けられたことで、幕府は面目を失いました。

大老の直弼は、幕府の権威を守ろうと、反対勢力の弾圧を決行します。徳川斉昭や一橋慶喜は謹慎処分となり、水戸藩の家老は切腹させられました。

幕府に批判的な言動をした諸藩の武士や公家(くげ)、学者なども捕らえられ、厳罰に処されます。「安政の大獄」と呼ばれるこの事件で、直弼は「井伊の赤鬼」と恐れられました。

「井伊の赤鬼」と恐れられた、井伊直弼(イメージ)

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「桜田門外の変」後の影響

幕府の権威を取り戻し、国難を乗り切ろうとした思いもむなしく、水戸を脱藩した浪士たちによって、井伊直弼は帰らぬ人となります。

主を失った彦根藩や、大老をみすみす殺された幕府は、その後、どのような運命をたどったのでしょうか。

生き残った護衛への処分や彦根藩の対応

事件の当日、直弼は駕籠(かご)に乗っており、周囲には護衛の藩士が何人も付き添っていました。彼らは藩主を守る責任を果たせなかったとして、後日、処分されます。

重傷者は任務を遂行できたとして軽い処分で済みましたが、軽傷者は切腹、無傷の人は斬首されました。

彦根藩自体も、石高(こくだか)を減らされたり、京都守護の職を剝奪(はくだつ)されたりと、幕府から冷遇されます。その後、彦根藩は新政府側に転じ、鳥羽・伏見(とば・ふしみ)の戦いでは旧幕府軍と戦うことになります。

江戸幕府の権威が弱まる

将軍が暮らす江戸城のすぐ近くで、幕府の最高責任者である大老が討ち取られたことは、幕府の権威を失墜させました。

事件を起こした浪士たちは処分されましたが、将軍や大名を恐れなくなった人々が、それぞれの意見を公然と主張する時代が到来します。

また、事件をきっかけに薩摩藩や長州藩を中心とした倒幕の機運が高まり、「明治維新」への原動力となりました。徳川家康以来、長きにわたって泰平(たいへい)の世を実現した江戸幕府は、直弼の死をきっかけに滅亡へと進んでいくのです。

映画「桜田門外ノ変」のオープンセット(茨城県水戸市)。水戸市の千波(せんば)湖畔に、映画最大の山場となる襲撃現場の桜田門や濠、各藩の大名屋敷などが、東京ドームとほぼ同じ広さに建築された。吉村昭原作、佐藤純彌監督、大沢たかお主演で、2010年公開。

時代を動かした「桜田門外の変」

桜田門外の変は、襲われた井伊直弼も、襲った浪士たちも、それぞれが日本の今後を案じた末に起こった悲劇です。どちらが正義だったのか、今の私たちに知る術(すべ)はありません。

子どもたちには判明している事実を正しく伝え、直弼や浪士たちの思いを一緒に想像してみるとよいでしょう。

もっと知りたい人のための参考図書

PHP文庫  黒鉄ヒロシ「幕末暗殺」

ホーム社漫画文庫  NHK「その時歴史が動いた」コミック版「幕末回天編」

小学館  逆説の日本史19  幕末年代史編Ⅱ「井伊直弼と尊王攘夷の謎」

文春時代コミックス  司馬遼太郎(原著)、森秀樹(画)「幕末  桜田門外の変」

新潮文庫  吉村昭「桜田門外ノ変」(上・下)

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構成・文/HugKum編集部

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