アヘン戦争とは、どんなできごと?
「アヘン戦争」は、欧米諸国による中国の半植民地化を促進するきっかけとなった事件です。まずは、戦争の概要を押さえておきましょう。
イギリスと清王朝との戦争
アヘン戦争とは、1840~1842年にイギリスと中国の清(しん)王朝の間で起こった戦争を指します。当時、清の国内では、イギリスが密輸したアヘンの中毒者がたくさん出て、社会問題となっていました。
そこで清は、アヘンの輸入・販売を厳しく取り締まろうとします。しかし、イギリスは逆に、清の役人が商品の没収や商人追放などの強硬手段に出たのを口実に、戦争をしかけたのです。
戦いは、清の惨敗に終わり、清はイギリスとの間に不平等条約を締結させられることになりました。
そもそも、アヘンとは
アヘンとは、ケシの果汁を乾燥させて作る麻薬の名称です。痛み止めや麻酔の効果があるとされ、古代から薬として使われてきました。アヘンから生成される「モルヒネ」には、さらに強い鎮痛効果があることが分かっています。
なおモルヒネを精製して、より強力にしたものが「ヘロイン」と呼ばれる麻薬です。アヘンは、そのままでも強い中毒性があり、常用すると心身の健康を害する危険な薬物です。そのため、現在は、ケシの栽培もアヘンの採取も禁止されており、違反すれば厳しく罰せられます。
アヘン戦争が起こった背景
清は、もともと薬用以外でのアヘンの販売や吸引を禁止していました。では、なぜイギリスは、わざわざ密輸という手段を使ってまで、清にアヘンを売ったのでしょうか。戦争が起こった背景を見ていきましょう。
対清貿易で、イギリスが輸入超過に
17世紀後半頃からイギリスで紅茶を飲む習慣が広まり、18世紀には茶葉の需要が増大します。ただ、イギリスの国土は茶葉の生産に適しておらず、輸入に頼っていました。
一方、その頃の清は、茶・陶磁器・絹織物を世界各国に輸出して、大きな利益をあげていました。イギリスは、清から茶葉を輸入して国内の需要に応えようとしますが、清に対して輸出するものがありません。
産業革命を達成し、綿織物をはじめとする工業製品を売り出していたイギリスでしたが、いずれも清にとっては必要のないものばかりでした。清からの輸入量が輸出量を大幅に上回ったイギリスは、差額を銀で支払うしかなく、一方的な貿易赤字に陥ります。
イギリスが、インド産アヘンの密輸を開始
貿易赤字を解消するため、清に輸出できる品目がないか調査したイギリスは、中国人にアヘン吸引の習慣があることを知ります。そこでイギリスは、植民地支配していたインドでアヘンを製造し、清に売りさばくことを思いついたのです。
清に、インドのアヘンを買わせ、インドにイギリスの綿織物などを買わせれば、間接的にイギリスの対清貿易赤字は解消されます。この手法を「三角貿易」ということも覚えておくとよいでしょう。
イギリスの目論見(もくろみ)は当たり、清ではアヘン吸引が大流行します。購入費を茶の輸出だけでは賄(まかな)えず、銀での支払いが増えて、清の財政を圧迫しました。
アヘン戦争の経過と結末
銀の流出とアヘン中毒者の増加に歯止めをかけるべく、清は取り締まりを強化します。しかし効果は得られず、かえって戦争を引き起こすこととなりました。開戦から終戦までの流れを解説します。
清の対応に、イギリスが反発
アヘン中毒者が増え、すでにアヘンは密輸品の範ちゅうを超えて、ほぼ公然と取り引きされるようになりました。清の皇帝は、厳格な官僚「林則徐(りんそくじょ)」を取り締まりの責任者に任命し、対外貿易の窓口となっていた中国南部の都市、広州(こうしゅう)に派遣します。
林則徐は、イギリス商人から販売前のアヘンをすべて没収して焼却したうえに、イギリスとの貿易を停止するなどの強硬手段に出ました。この林則徐の行動は、イギリスを怒らせてしまいます。イギリス政府は、自分たちが密輸品を持ち込んだことを棚に上げ、清と戦うことを決めたのです。
イギリス国内では、戦争反対の意見も
イギリス政府が外国に軍隊を派遣するには、議会の承認が必要でした。しかし、議会では戦争反対の意見が多く出され、議論は紛糾します。その理由はもちろん、アヘンにあります。アヘンが有害であることは、もちろんイギリス人もよく知っていました。そのようなものを密輸すること自体が、非人道的な行為です。
国民を守るために、清がアヘンを取り締まるのは当然ですから、それを戦争の口実にしてはならないと考える議員もたくさんいたのです。しかし、最終的には賛成が反対よりも9票上回り、軍隊の派遣が可決されました。
圧倒的な戦力差を見せつけるイギリス
侵攻に備えて、林則徐は、港のある広州に兵力を集めます。しかしイギリス軍は、より軍備の手薄な北方の沿岸都市に攻撃をしかけます。
イギリス海軍は、機動力に優れた蒸気船で編成されていたうえに、それぞれの船が強力な火器を搭載していました。一方の清海軍は、木造の帆船がメインです。素早く移動するイギリス船を追うことは難しく、交戦してもすぐに撃沈されてしまいました。
圧倒的な戦力差を見せつけるように軍を進めたイギリスは、ついに北京(ぺきん)近郊の都市、天津(てんしん)を守る砲台も陥落させます。慌てた皇帝は林則徐を罷免(ひめん)し、イギリスとの和平交渉に臨みました。
南京条約の締結
開戦から約2年後の1842年、清とイギリスとの間で講和条約が結ばれます。この条約は、南京(なんきん)沖に停泊中の軍艦・コーンウォリス号で締結されたことから、「南京条約」と呼ばれています。
南京条約の主な内容は以下の通りです。
●清は、アヘンの賠償金・戦費などをイギリスに支払う
●香港(ほんこん)島をイギリスに譲渡する
●広州・廈門(あもい)・上海(しゃんはい)・福州・寧波(にんぽー)を開港する
●対外貿易を独占する「公行(こほん)」を廃止し、自由貿易を認める
公行とは、清が対外貿易を許可した商人のことです。当時の清は、対外貿易の窓口を広州に限定したうえに、公行以外の商人とは取り引きできないようにしていました。しかし南京条約によって、清は従来の貿易体制を大きく変えさせられたのです。
アヘン戦争がもたらしたもの
イギリスに惨敗した清には、さらに厳しい運命が待ち受けていました。アヘン戦争が、清や周辺諸国に及ぼした影響を見ていきましょう。
欧米諸国の清に対する侵略が進む
南京条約締結の翌年、発効に際して「五港通商章程(ごこうつうしょうしょうてい)」と「虎門寨(こもんさい)追加条約」が付加されます。五港通商章程では、開港した5港におけるイギリスの領事裁判権(治外法権)が認められたほか、関税率が5%で固定され、清は関税自主権を失いました。
虎門寨追加条約は、清がイギリスに対して片務的な最恵国待遇を認めるものです。いずれも清にとって不利な内容であり、南京条約は不平等条約の典型とされました。
イギリス同様、清との貿易を有利に進めたいアメリカやフランスは、ただちに南京条約に便乗します。1844年、アメリカは「望厦(ぼうか)条約」を、フランスは「黄埔(こうほ)条約」を締結し、イギリスと同じような権利を得ることに成功しました。
太平天国の乱から、アロー戦争へ
南京条約発効後、清のアヘン輸入量は増え続け、銀の価格が上昇して民衆の生活を圧迫します。1851年には、大規模な内乱「太平天国(たいへいてんごく)の乱」が勃発(ぼっぱつ)し、国を二分するほどの規模に発展しました。
一方、自由貿易を実現したイギリスも、思ったほど自国製品の輸出が伸びません。期待外れとなったイギリスは、清での利権をさらに拡大しようと画策し、フランスと協力して、再び清に戦争をしかけました。
イギリス船アロー号にちなんで「アロー戦争」と呼ばれたこの戦いで、清は、またもや敗北を喫します。戦後は両国との間に不平等な「北京条約」を締結させられ、清はますます弱体化していきました。
影響は、日本の対外政策にも
清がイギリスに歯が立たなかったことを知り、日本は衝撃を受けます。日本は古くから中国を手本としてきた歴史を持ち、清も世界の強大国だと考えていました。
その大国が、あっけなく負けてしまったので、驚くのも無理はありません。早めに手を打たなければ、やがて日本も同じ目に遭うのではと、多くの人が危機感を募らせたのです。
幕府は、1825(文政8)年に出していた「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」を撤回するなど、早速、外国船に対する強硬姿勢を改めます。国内では、アヘン戦争に関する書物が広く読まれ、清の敗因について研究が進みました。
その結果、日本は西洋の文明や軍事技術を積極的に取り入れることになります。ペリーが浦賀(うらが)に来航し、日本に開国を迫る約10年前のできごとでした。
幕末の日本にも影響を与えたアヘン戦争
アヘン戦争が起こるまで、広大な領土と多くの人口を擁(よう)する清は「強いに違いない」と、多くの人が考えていたようです。しかしイギリスに惨敗したために清の実力が露呈し、欧米諸国による侵略が急速に進みました。
長年、中国を見習ってきた日本ですら、早々に方針を転換せざるを得ないほど、清の敗戦は衝撃的だったといえます。
麻薬の密輸という非人道的な行為から戦争が始まった事実も、忘れてはいけません。「自国の利益のためなら何をしてもよいわけではない」ことも、この機会に子どもとじっくりと話し合ってみるとよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部