「学生ノリ」で向かった札幌
――まずは、お二人の出会いからお伺いして宜しいでしょうか?
としえ 彼とは、大学の同級生なんです。学部は違うんですが、共通の友人を通じて知り合って。わたしも含めみんな就職活動をしていた中で、「俺はサッカーでプロになる」と言っていて……面白い人だなって(笑)。
賢司 僕が高校を卒業した93年が、Jリーグ元年なんです。だから、もし高卒でプロになっていたらJリーグ一期生になっていたし、実際に“オリジナル10”と呼ばれているチームの一つから、オファーももらっていたんです。でもその時は自信がなかったので、大学に進学しました。大学2年生の頃からJリーグのクラブに練習に行ったりもしていたので、もう自分の中ではプロになると決めていたんです。
としえ そういう事情は、付き合ってから分かるようにはなりましたが、当時は「サッカーでプロになるって、どういうこと?」という感じで。卒業後、わたしは普通に就職をしたんですが、彼はコンサドーレ札幌への加入が決まったので、結婚して札幌に行こうってなったんです。でも中身は、まだ学生ノリ。実際に札幌に言った後に、プロがどれだけ厳しい世界かというのを目の当たりにして……、軽い気持ちで来ちゃったな~って(苦笑)。
料理の基本は「家庭の味」
――結婚後にとしえさんは、どのように料理の腕や知識を磨かれたのでしょうか?
としえ 私は大学まで実家でした。小・中・高校では真剣にバスケットボールをやっていたこともあり、母親が食事やお弁当も作ってくれて、自分では料理はほとんどしなかったんです。でも北海道に行ったら、いろんな美味しい食材があるので、料理を作るのが楽しかったんですよ。毎日、市場に行って買うところから楽しかった。でも知識がある訳ではないので、両家の親に「あのお料理はどうやって作るんですか?」って聞いて。ほんとうに独学で、下手なりに一生懸命研究して覚えました。
彼は遠征に行けば、チームがバランスの良い食事を提供してくれるので、家にいるときは楽しい雰囲気などを大切にしていました。最低限の栄養はしっかり入れて、あとはお互いに育ってきた家の家庭料理をアレンジして、レパートリーを増やしていくことから始めた感じです。
賢司 そのうち、独身の選手を家に呼んで、食べさせてやったりね。
としえ 彼より年下の世代が入ってくると、若い子たちに頼られるわけですよね。そういう子たちにわたしが食事を作ってあげたり。一人で暮らしていると、寂しい思いもしているかもしれない。そんな時に、みんなで食事して楽しい気持ちで帰り、明日も頑張ろうって思ってくれたらいいなって。
賢司 自分自身の経験としても、ストイックになりすぎると、「これだけ色んなことを犠牲にして打ち込んでいるのに、なんで結果が出ないんだ』と、自分を追い詰めることになりかねないんです。そういうことは、プロ2年目あたりから感じていたし、メンタルとパフォーマンスに関する発見もありました。例えば、「これだと栄養素が足りないから、何々を食べないと駄目だ」という強迫観念に捕らわれるよりも、「今日むりなら明日何かで補えばいいや」という精神的なゆとりも大切。それを実感してきたので、今、子どもたちにも同じようなことを言っています。
長男はおっとり型、長女はなんでも一番タイプ。大切なのは、本人の意志
――お子さんが生まれたのは、賢司さんが現役の時ですか?
賢司 長男が生まれたのは、僕が札幌から川崎フロンターレに移籍する1年前でした。莉子は5歳年下で、生まれたのは引退後です。
――ご長男もスポーツをされていたのですか?
賢司 男の子だったので、サッカーをやるだろうなとは思ってました。両親二人ともスポーツをやっていたし、それなりに運神経もいいはずだと思ってたんだけど……長男は、全く競争心がないんです(笑)。
としえ 競ったりすることに、興味がない。「どうぞ、どうぞ」という感じで。一度サッカークラブにも入ったんですが、皆さんが試合やってるときに、隅っこの人工芝のゴムをプチプチといじっちゃうような子だったので(笑)。それで小学1年生の時、本人に「なにがやりたいの?」と聞いたら、「僕、ダンスがやりたい」と言ったんです。実際にヒップホップダンススクールに入れたら、もう水を得た魚のようになって。サッカーは、小学5年生の頃に初めて本人から「やりたい」と言ってきたので、またスクールに入れました。選手を目指すというレベルではないですが、それでも一生懸命にやりはじめて。なので、やらされるのではなくて、やりたい気持ちが大切なのだなというのは、そこで気付いたことです。
賢司 僕は最初、やりたいという以上は、それなりに努力すべきじゃないとかと思っていたんです。だけど、そうじゃないなって。始めたばかりの頃は、スパルタになりかけたこともあったんです、「なんで、そんなこともできないの?」みたいに。でも息子が5年生で再開した時には、週に一、二回、体を動かして汗かいてしっかり寝たら、それで十分だって思ったんです。そこはそれぞれの個性や性格もあるので、莉子との向き合い方とは全然違うんです。
としえ 莉子は歩き始めたのは早かったし、足腰もしっかりしていた。おっとり型の兄ちゃんと違って、保育園とかでも何でも一番というタイプだったんです。でもわたしも仕事をしていたし、習い事の送り迎えをする時間もなかったので、「スイミングは保育園のプールでがんばりなさい、かけっこはお庭で走ってたら足速くなるから」みたいな感じで、特別に何かをさせてはいなかったんですね。
それでもが私たちが思っていたのは、この子には何か、世界的にプロとしてできるスポーツをさせるのがいいんじゃないということでした。ただ女の子が出来るプロスポーツは、あまり思い浮かばなくて。サッカーも上手だったので「なでしこ、やる?」って聞いたら、やんないって。バレエやスイミングも考えたんですが、たまたまテレビで、マリア・シャラポア特集を見た時に、二人で「テニスじゃない⁉」となったんです。偶然、近所にテニススクールもあったので、「やりたい?」と聞いたら、「やりたーい!」と言ったのが始まりでした。
成功の鍵は「チャンスをつかむための準備」と「感謝の気持ち」
――賢司さんは、アスリートの先輩として、莉子さんに伝えてきたことはありますか?
賢司 僕がいつも言ってたのは、チャンスに対して、どれだけ感度があるかということです。チャンスって実は、身近なところに、たくさんあるんだよねって。ただ、常にアンテナを張っていないとチャンスは見えないし、準備ができていなければ、見えてもつかめないよという話はいつもしていました。あとは、周囲の人たちへの感謝を絶対に忘れないこと。これだけはもう、ずっと言い続けています。
――そのお話しの流れで言うと、莉子さんは去年、札幌で開催された伊達公子さんたち主催の国際大会に3週連続で出場し、3大会目でベスト8に進出。みごとチャンスをつかみました。賢司さんのキャリアの始まりの地である札幌という点にも、縁も感じますか?
賢司 すごく感じます。本当に縁があって……というのも、札幌時代の仲間がホテルを経営していて、そこで3週間、ずっと食事も含めて莉子がお世話になったんです。その挨拶もあるので僕も一週目だけ一緒に行ったのですが、僕が帰ったあとも莉子は、一人でツアーの厳しさを体験していたようでした。
としえ 最初の2大会は予選で負けて。それまではいつも「楽しい」って言っていた子が、初めて弱音を吐いたんです。それでも結果的に、2週間で帰ってこなくてよかったねって。本当にプロの世界の厳しさを感じたと思うんですが、そこを乗り越えた時に、得たものがあったと思います。
としえさんと賢司さんが、温かな食卓を囲み育んだ交流が、やがては莉子さんをサポートする――。そんな縁に莉子さんは、「何かに守られている気がする」と感謝したそうです。
対談の後編では、賢司さんが取り組む『セーフガーディング』についてお届けします。
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取材・文/内田暁 撮影/五十嵐美弥