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教員試験に合格し、都立高校で甲子園出場を夢見たけれど…
――だれもが「知的障害や発達障害のある子は高校野球で大会に出るのは無理」と思っている中、久保田先生は特別支援学校に野球部を作り、指導をして彼らを大会に出るまでに成長させました。高校野球に教員生命を賭けていたのでしょうか。
久保田先生:私自身がずっと「野球少年」でした。小学校の低学年から野球を始め、小学校でリトルリーグ、中学校でシニアリーグ、高校野球、大学は日本体育大学で4年間野球部に所属して過ごしました。大学を出たら東京都の高校教員になり、野球部の顧問になると決めていたんです。
というのも、その頃、東大などに多数進学することで知られる都立国立高校野球部が、初めて甲子園に出たんですよ。文武両道と話題になりました。自分もどこか都立高校に採用され、その野球部を甲子園に導くことができたら、と夢を抱いていました。そして無事、教員試験に合格したのですが、採用されたのは都立ではあったものの、東京郊外の養護学校(現特別支援学校)でした。

――どんなお気持ちでしたか?
久保田先生:正直なところショックでした。勝手な自分だけの思い込みでしたが、思い描いていたこととは違いましたから。目の前にいるのはぼんやりと座り込んでいたり、急に興奮して怒ったり、あいさつしてもなかなか返してくれないような子ばかりで…、自分が障害のある子たちへの教育をきちんと学んでこなかったこともあって、「やっていけるかな」と不安になりました。
その養護学校にはソフトボール部はあったのですが、石をバットで打っていたり、グランドにいるバッタを追いかけているだけだったり。好きに遊んでいるような状態で、「とてもじゃないけれど、この学校で硬式野球をやるのは無理」と思っていました。でもね、転機はあったんです。
ダウン症の生徒と夢中でキャッチボール、最後には強い球が!
――それはどういうことでしょうか。
久保田先生:学校に勤務して3年目になる年に、ソフトボール部の顧問になってくれと学校から言われたんです。それまでの担当者ができなくなったということで。正直、どうせ野球にならないだろうと思って諦めていました。そのうち異動願いを出して、普通校で野球部の顧問を目指そう、そんな風に考えていました。
けれど、そんな中、6月くらいでしたか、ダウン症の生徒が私のところに寄ってきて、「キャッチボールを教えて」と言うんです。その顔がやけに真剣で驚きました。いつもは教員をからかったりビートたけしさんのものまねをしたりするような、おちゃめな子だったのでそのギャップがとても印象的でした。「じゃ、ボール投げてごらん」と言って投げさせてみるとまったく自己流で、体にうまく力もはいっていなくて、ちっとも飛ばない。
そこで、「こっちに来てごらん」と。ボールの握り方を見せて、「ボールの縫い目のところに手をかけて、ボールと手のひらの間に隙間をあける」「こうやるんだよ」と教えたんです。右投げだったから左足を前に出して腕を大きく振って、「こういう動作だ」と。

久保田先生:するとだんだん投げられるようになってきたんです。「そうそう、うまいじゃないか!」と声をかけるとますます一生懸命になり、こっちも夢中で教えだして、気がついたら1時間半たっていました。そして、20~30m離れた私にパン!と音がするような強い球が投げられるようになったんです。思わず「ナイスボール!」と叫びました。
そうしたら、その子が「やった、やった!」と跳び上がらんばかりに喜んだんです。今までの自分を反省しました。「この子たちはできない」って先入観で思い込んでいた。でも、ひとつひとつ時間をかければ、できなかったキャッチボールが段階を追ってちゃんと投げられるようになる。そして、「ナイスボール!」に喜ぶ。
障害者も健常者も関係ない、ちゃんと教えればできるし、喜ぶのだと。これは本当に大きなきっかけでした。
それからは、自分の中でスイッチを入れて、秋口の大会に向けて練習をきちんと組んでいきました。以後39年間、特別支援学校の子たちとソフトボールや野球をやっています。あの子とキャッチボールができたことは、本当に大きな転機でした。
わからなければ一緒に身体を動かす。その子らしさをとらえて指導を
――都の教員は定期的に異動されますよね。その後はどうされたのですか?
久保田先生:当時の養護学校は知的障害と肢体不自由の子たち、両方が学ぶ場でした。それが知的だけ分かれることになり、そこに異動したんです。だから、ソフトボールや野球をやる環境としては、それほど変わらなかった。
大事にしていたのは「基本的なこと」でした。まずはしっかり集まること。ダラダラ来るのではなくて、走って集まる練習をしました。身だしなみをきちんとする、帽子をかぶる。自分が野球をやるにあたって学んできたことを、ひとつひとつ伝えてきました。
技術練習となると、野球をちゃんとやったことがない子ばかりで、右のバッターボックスなのか左なのかもわからない。打った後、どこに走ったらいいかもわからない状態でした。こちらもノウハウがなかったので、とにかく一緒にやって覚えてもらおうと、一塁まで一緒に走りました。二塁にもホームにも。自分が知っていることを体で覚えてもらうことに全力を注ぎました。

――障害については、ひとりひとり、かなり違いがあるのではないでしょうか。
久保田先生:本当に、多様です。こちらが言うことに対してどれくらい理解度があるか、かなり違いますね。また、発達障害の子は、伝えるタイミングによっても理解度が変わります。IQより実際に対話してみて、理解度を見極めたりしながらどうサポートしたらいいのか、ひとりひとり変えて、模索しながら指導しています。でも、それは一般の人でも同じでしょう? 障害あるなしにかかわらず、性格も個性も理解力も違います。それが教育というものだし、だから、やりがいもあるんですよね。
17年間ソフトボールをやり、そのあと兼職で社会人公式野球をやってきましたけれど、どこでやるにも同じように「その子らしさ」を考え、「やりたい」という気持ちを汲んで教えるようにしています。好きな野球でいろんな経験をしてもらうと、将来生きていくための力になります。それがいちばん大事、野球で生きていくための力をつけて卒業していってもらいたい。大変なことつらいことがあっても野球が好きだ、野球をがんばってこられたという経験がその子を支えるのだと思います。
硬式野球をやらせてあげたい! 「甲子園夢プロジェクト」のスタート
――ソフトボールと硬式野球、その違いも大きいのですよね?
久保田先生:高校野球は硬式野球ですからね。長年の「生徒たちと甲子園へ」の夢をかなえたい、それには硬式野球でないと。しかし当初、関係各所は「障害者が硬式野球をやるなんて危ない」と反対の声も多かったのです。指導者がきちんと安全に気を配っていれば、障害がある子どもたちだって健常者とほぼ同様にできるんです。でも、周囲はそう思ってくれない。
そこで、あえて記者会見を開いて、2021年に「甲子園夢プロジェクト」を開始しました。 全国の特別支援学校に「硬式野球をやらないか」と声をかけたんです。そうしたら、「こういう試みを待っていました!」という保護者の声も上がり、全国から11名が参加、月に一度の練習会を始めました。

久保田先生:びっくりしたのは、集まった子たちの実力です。みんな野球がすごくうまいんですよ。ピッチャーの子なんて130㎞/h出るんです。守備もよくて、ゲッツーとかふつうにどんどん取れちゃう。一緒に関わってくれた教員は、「この子たちでチームを作ったら、高校野球の予選で2~3回勝てますよ!」と太鼓判を押すのです。特別支援学校の生徒を甲子園に、というプロジェクトは、もう夢じゃない。このプロジェクトの「夢」をはずして、リアル甲子園プロジェクトが成功しそうな、そんな予感がしていました。
――障害のある子たちには野球ができない、と思っていた久保田先生。しかし子どもたちの野球への情熱は健常者も障害者も変わらないという結論に至りました、では、どうやって硬式野球をすすめていく? 後編では日本初の試みで、障害のある高校生が甲子園を目指すリアルストーリーをお伝えします。
後編はこちらから
お話を聞いたのは
1966年生まれ。日本体育大学体育学部卒業(硬式野球部所属)後の1988年4月、都立養護学校教諭に採用される。2021年に東京都立青鳥特別支援学校に赴任。2023年に同校にベースボール部を創部し、夏の全国高校野球選手権西東京大会に他校との連合チームで出場。2024年は特別支援学校としてはじめて単独で、夏の西東京大会に出場した。甲子園夢プロジェクト前代表。NPO法人日本ティーボール協会常務理事。『甲子園夢プロジェクトの原点』(大学教育出版)ほか著書多数。
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この記事を書いたのは
インタビューを中心に教育、子育て、医療、介護、食などのテーマで WEB・雑誌・書籍などの記事を執筆。お話を伺う方にたくさんの学びをいただいています。社会福祉士、法定成年後見人、中学校・高等学校教諭一種免許状、生涯学習2級インストラクター(栄養と料理)