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小学校6年生で学習障害の診断を受けた息子
小6で学習障害(LD=Learning Disabilies)と診断
私には現在35歳になる娘と31歳の息子がいます。息子は小学校6年生の時に発達障害の一種である学習障害(LD=Learning Disabilies)と診断されました。
息子が診断されるまでの私の子育ては「比べる子育て」そのものでした。娘が小学3年生になるとママ友のグループで中学受験熱が高まりました。私も乗り遅れてなるものかと娘を進学塾に通わせたこともあります。
中学受験はまさに比べる世界です。あの子はN塾、うちの子はY塾。あの子は御三家を受ける、うちは受けない。小さな差異に心揺れながらも受験をさせることに優越感を抱いていたのも確かです。「比べる」ことが価値基準になると「比べない」という選択はありません。
「比べる子育て」からの脱却
あるとき、娘の友達のお母さんが「息子の大学については全然考えていないわ」と言うのを聞いて、え、この親は何を考えているの。男の子なのに大学に行かせないなんてありえないと思っていました。それを平気で口にしてひんしゅくを買ったこともあります。当時の私は、自分の子にどう育ってほしいかよりも、社会的に価値があるとされる尺度に子どもをどう合わせるかを考えていました。もっといえば勝ち組、ヒエラルキーの上位に子どもを押し上げるにはどうするか。そんな価値観で子育てをしていたのです。
娘は中学受験に失敗しました。失敗してよかったと思っています。もし娘が合格して勝ち上がっていたら、そしてこれからお話しする発達障害のある息子がいなかったら、私は一生「比べる子育て」をする鼻持ちならない母親になっていたでしょう。
連絡帳の自分の書いた字が読めずに「忘れ物常習犯」
息子は知的な遅れはないものの字の読み書きに困難を抱えていました。板書を写すことも大変な困難を伴うのです。忘れ物が多いのは連絡帳に書いた自分の字が読めないからだと知ったのは後になってからです。特性が顕著になってきたのは勉強が本格的に始まる小学2年生に入ってからです。
担任から「宿題をやってきませんね」「家庭学習が必要ですね」と言われると、親がちゃんとしていないと思われているような気がして、必死になって息子に勉強させました。テストで平均点以上とらないなんて許せなかったのです。まさか学習障害だなんて思いもよりませんでしたから、息子の鉛筆を持つ手を押さえつけて宿題や漢字の練習をさせました。やらせれば80点、90点をとれます。やればできる。がんばれ、がんばれと息子にはっぱをかけていました。
平均点をとることが難しくなってくると、家庭学習はさらにエスカレートし、夕飯もとらずに夜遅くまで勉強させるようになりました。でも朝になると半分は忘れている。次第に息子は勉強を嫌がるようになり、親子でバトルが繰り返されました。私の手のひらには鉛筆の芯が今も残っています。鉛筆を手にした息子が、私の手を払いのけようとして振り向いたときに刺さったものです。
4年生から始まった「いじめ」。学芸会でもつまはじきに
忘れ物が多い息子のことで学校へちょくちょく呼び出されるようにもなりました。教室に貼られた忘れ物シールの棒グラフで飛び抜けて長いのは彼のところ。張り出された習字は彼だけが鏡文字。私は血の気が引く思いでした。
息子へのいじめが始まったのは、4年生のころです。息子をいじめていたのは中学受験をする子たちです。この子たちもまた比べられることにさらされて生きていました。そのストレスのはけ口が息子だったというわけです。
学芸会での出来事は今も目に焼きついています。舞台でみんなが肩を組んで歌う場面がありました。でも息子だけ「あっちにいけよ」とバーンとはじき飛ばされたのです。舞台から降りることもできずに、ひとりだけみんなから離れている息子を客席から見るのは、本当につらいものでした。かつて娘が主役を務めたこともあるその同じ舞台で、息子が仲間はずれにされていたのです。
「発達障害」と認めたくなかった私を力づけてくれた「親の会」
息子に学習障害の診断が下された日のことはいまでも忘れられません。専門家の話を聞く機会があり、ほぼそうだろうという察しはついていました。息子の特徴のほとんどがLDの特性を示すチェックリストにあてはまっていたからです。でも医療機関で診断されたわけではありません。
「障害」と認めたくなかった。どうかLDではなく親の育て方のせいであってほしい。育て方のせいなら、私さえ直せば改善できる。祈るような気持ちで病院を訪れました。しかし診断の結果はLD。目の前が真っ暗になりました。病院から駅までどこをどう歩いたのか覚えていません。よく車にはねられなかったなと思います。ふらふらになりながら駅前の小さな喫茶店にたどり着きました。倒れ込むようにして店のソファに座りこんだのでした。
障害を持つ子の親の会に入会。仲間のお母さんに励まされた日々
中学で通級指導教室(特別支援の一環)に行くようになった息子は、顔つきががらりと変わり穏やかになりました。「行ってきま~す」と元気に学校に通うようになり、「登校しぶり」もなくなりました。私は障害をもつ子の親の会に入り、そこのお母さんたちにずいぶんと教えられました。
あるお母さんが「うちの子はうちの子でしょ。うちの子のよさがわからない先生はこちらから願い下げよ」と言うのを聞いて驚きました。私はといえば先生に「どうか息子のことをご理解ください」と、これ以上下げられないというくらいに頭を下げていたのに、このお母さんはまるで違う。子どもの個性をどうやったら伸ばせるかを考えていたのです。他人と比較してあれができない、これができないなんて関係ない、と言うのです。「じゃ、坪井さんはお子さんにどう育ってほしいの?」と聞かれて、私は答えられませんでした。
子どもをつぶしてしまう「普通」という尺度
よくお母さん方は「人並み」にとか「普通」に育ってくれればいいと言います。
発達に特性をもっている子の場合、「普通」という尺度があてはまりません。子どもの発達特性に合わせて必要なものやスルーしていいものを考えるようになります。「特性」を「個性」に置き換えれば、障害のあるなしにかかわらず、どの子にもあてはまるのではないでしょうか。ひとりひとりみんな違う個性の持ち主です。それを普通という枠に閉じ込めてしまうのはもったいない話です。普通なんて幻想です。
普通の子なんていません。まわりの空気を読まずに、その子が本当にやりたいことをしていたら開花したかもしれないものを「普通幻想」がつぶしてしまう。発達の特性があるないにかかわらず、みんな違うというところから教育はスタートしてほしいと思います。
息子がいじめにあっていたつらい時期、ある人のすすめで学校を長く休んで鳥取の「ハーモニィカレッジ」という牧場のある場所で過ごしたことがあります。子どもの自信を取り戻すことを主眼において活動している団体です。そこで息子は「ボイボイ」(坪井のボイ)と呼ばれていました。「ボイボイはボイボイらしくいられるのがいちばんじゃないでしょうか」と言われて、親子ともに生き返った思いでした。
その後、都立のチャレンジスクール桐ヶ丘高校を卒業した息子は就職するにあたっても紆余曲折ありました。知的な障害がないのだから「障害者」であることを伏せて健常者として働けるのではないか。そんな思いで、私が画策したこともあります。でもうまくはいきません。息子は自分の障害を受け入れて働こうとしています。そんな彼を全面的に応援したいというのが私の今の気持ちです。
比べない子育ては、口で言うほど簡単ではありません。迷うたびに「ボイボイはボイボイのままでいいじゃない」という、私たちを生き返らせてくれたあの言葉がよみがえってくるのです。
坪井久美子さん
2児の母。長男が学習障害。20年以上に渡り、親の会代表などを務め、発達に特性のある子どもとその家族を支える。現在は、発達が気になる親とサポーターの会「にじのふね」代表。https://nizinofune2427.amebaownd.com/
『edu』2015年所収 構成/平野佳代子 イメージ写真/繁延あづさ
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