豊臣秀吉とは
「豊臣秀吉(とよとみひでよし)」は、安土桃山時代、いわゆる戦国時代に活躍した武将です。まずは、秀吉がどのような人物であったのか、少年時代や、性格について見ていきましょう。
農民から大出世した天下人
秀吉は、尾張国(現在の愛知県西部)の貧しい農家に生まれました(1537)。確かな史料は多くありませんが、15~16歳ごろ、故郷を出て、近隣の国々を転々としながら、さまざまな仕事をしていたといわれています。
17歳ごろから織田(おだ)家に仕えはじめ、やがて織田信長の有力武将として知られるようになりました。そして信長の死後、ついに天下統一を果たして武士の頂点に立ちます。
秀吉は、決して恵まれた生まれではありませんでしたが、自らの才覚と行動力でのし上がり、国のトップになった出世人だったのです。
優れた人心掌握術
秀吉は、人の心をつかむ才能に非常に長けていたといわれています。「信長の草履(ぞうり)を懐で温めていた」という逸話が有名ですが、信長がピンチの際には、自ら志願して最も危険な場所で敵の侵攻を食い止めました。
部下が戦(いくさ)に敗れたときも責めることなく、生きて帰ったことをたたえたそうです。投降した武将を、信長が処分しようとしたときは、自分の陣へ連れてきて、信長の命に反し武将を逃がしたと伝えられています。
秀吉は上司から信頼を、部下から敬意を勝ち取る術を知っていたのです。力を持つ人々を、ことごとく味方に付ける人心掌握術こそ、秀吉が出世できた最大の理由といえるでしょう。
豊臣秀吉の生涯
織田家に仕えはじめたころの豊臣秀吉は、一介の使用人に過ぎませんでした。そこから、どのような経緯をたどって、天下を取るに至ったのでしょうか。
織田信長に仕え、才能を発揮
初めて秀吉(当時は木下藤吉郎と名乗っていた)が信長の目に留まったのは、「墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)」を建てたときだといわれています(1566)。
築城作業が難航するなか、秀吉は機転を利かせ、川の流れを利用して木材を運び、一夜にして重要な砦(とりで)を築き上げたそうです。
さらに1570(元亀元)年の「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」では、退却する軍の最後尾という最も危険な殿(しんがり)で奮戦し、信長から信頼を得て重用されるようになりました。1573(天正元)年には「羽柴(はしば)秀吉」と改名します。
その後も「長篠の戦い(1575)」「信貴山城(しぎさんじょう)の戦い(1577)」など数々の戦で活躍し、信長の下で勢力を伸ばしていきました。
柴田勝家に勝利し、大坂城を建立
1582(天正10)年に「本能寺の変」が起こり、主君である信長が、明智光秀に討たれてしまいます。秀吉はすぐに仇討ちに向かい、「山崎(やまざき)の戦い」で光秀を下しました。
信長の後継者問題では、「清洲会議(きよすかいぎ)」で、信長の重臣・柴田勝家(かついえ)の意見を跳ね飛ばし、信長の孫・三法師(さんぼうし、後の秀信)を後継者に据えます。
1583年「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で関係が悪化した柴田勝家に勝利し、その勢いで、秀吉は織田家の実力者を次々と討ち取ったのです。同年に政権の拠点となる「大坂城」を建立しました。
関白に任命後、天下を統一
秀吉は、有力武将を次々と取り込み、その勢力をさらに増していきました。1585(天正13)年に朝廷から「関白(かんぱく)」に任命されると、紀伊(和歌山と三重の一部)・四国・越中(富山)を平定します。
1586年に秀吉は天皇から「豊臣」姓を与えられ、「太政大臣(だいじょうだいじん)」にも任命されました。1587年には九州を平定、1590(天正18)年には最後まで抵抗を続けた北条氏を降伏させて、関東・東北を含む天下統一を達成したのです。
秀吉は1598(慶長3)年、伏見城で亡くなりました。がん・感染症・脚気(かっけ)など死因は諸説ありますが、はっきりしたことは分かっていません。
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豊臣秀吉が行った政策
豊臣秀吉は、「太閤検地(たいこうけんち)」と「刀狩令(かたながりれい)」で、豊臣政権の安定を狙いました。この二つは、どのような政策だったのでしょうか。
年貢徴収を合理化「太閤検地」
「太閤検地」は、1582~1598年の間に行われました。検地とは、その土地でどれだけの作物が収穫できて、誰がどれだけの年貢を納められるのか調べることをいいます。
それまで、土地に関しては申告による情報しかなかったため、年貢を納める基準があいまいでした。太閤検地では、秀吉が役人を送り、ほぼ同一の基準で全国の田畑や屋敷の面積などを調べたのです。
さらに、米を量る升(ます)を統一することで、全国から公平に年貢を取れるようになりました。土地の生産力を、米の量で表わす「石高制(こくだかせい)」は、太閤検地により確立したものです。
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農民による一揆を抑制「刀狩令」
納める量は公平になったものの、年貢率が収穫高の3分の2と高かったため、各地で農民による一揆が起こりました。一揆とは、圧政に対して団結して暴動を起こすことをいいます。
一揆を防ぐため、秀吉は1588年に「刀狩令」を出し、農民から刀や槍(やり)などの武器を取り上げたのです。農民たちに協力させるため、武器は仏像を造る材料にすると伝えられました。
これにより、武士と農民の身分が、明確に区別されたことになります(兵農分離)。さらに1591(天正19)年に出された「身分統制令」により、職業や身分を固定する制度が進められました。
豊臣政権を弱らせた朝鮮出兵
日本を統一しただけでは飽き足らず、豊臣秀吉は「朝鮮」に兵隊を送り込んでいます。
「文禄の役(ぶんろくのえき)」「慶長の役(けいちょうのえき)」と呼ばれる、2度の朝鮮出兵について見ていきましょう。
亀甲船と激突「文禄の役」
「文禄の役」とは、1592(文禄元)年に起きた秀吉軍と朝鮮・明(みん)軍との戦いのことです。
天下を統一した秀吉は、明(中国の当時の王朝)を征服しようと考えます。当時の明は衰退期にあり、朝鮮などの従属国との結び付きも弱っていました。そこで、まずは朝鮮に狙いを付け、兵を向かわせたのです。
秀吉軍の猛攻を迎え撃ったのは、「李舜臣(りしゅんしん)」という将軍でした。鉄板で覆われた頑丈な亀甲船(きっこうせん)を率い、制海権を握って秀吉軍の補給路を断ったのです。
さらに、明軍が応援に来ると戦は膠着(こうちゃく)状態に陥り、秀吉は明と講和交渉の席に着くことになりました。
多くの犠牲を出した「慶長の役」
明との講和交渉が決裂した結果、1597(慶長2)年に「慶長の役」が始まります。秀吉軍は大軍で攻め入り、朝鮮半島を侵略していきました。
ところが1598年、戦いの最中に秀吉が亡くなってしまいます。徳川家康を含む豊臣家の五大老は、兵を朝鮮から撤退させ、これにより慶長の役が終結したのです。
朝鮮だけではなく、日本にとっても、2度にわたる朝鮮出兵は、多大な犠牲を生むものでした。疲弊しきった大名たちの不満は、1600(慶長5)年に起きた「関ヶ原の戦い」の火種となってしまいます。
「文禄の役」「慶長の役」は、豊臣家の衰退の一因となったといえるでしょう。
小学生におすすめ!豊臣秀吉の理解が深まる本
子どもが興味を持ったときが、知識を吸収するタイミングです。学校の授業などで、豊臣秀吉に興味を持った小学生におすすめしたい「伝記」を2冊紹介します。
学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 豊臣秀吉
歴史上の有名人について知りたいときは、それぞれの出来事を細切れに学ぶより、その人の生涯を通して歴史の流れをつかんだ方がイメージが湧くという人も多いものです。
「学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 豊臣秀吉」は、豊臣秀吉の伝記をマンガで紹介した1冊です。登場人物が生き生きと動き回るので、やや難しい部分も抵抗なく読み進められるでしょう。子どもにはイメージしにくい当時の暮らしなども、絵が想像力の助けになってくれるはずです。
超ビジュアル! 歴史人物伝 豊臣秀吉
本を読み慣れている子どもや、より深く勉強したい子どもには「超ビジュアル! 歴史人物伝 豊臣秀吉」がおすすめです。
コミカルなマンガで大まかなストーリーが描かれた後、カラフルで写実的なイラスト付きの解説ページが続きます。大筋を理解してから解説文に入るため、より知識が定着しやすいでしょう。戦国時代の豆知識や秀吉の人柄が分かるエピソードも豊富で、大人が歴史を復習する資料としても役立つかもしれません。
豊臣秀吉は戦国時代を代表する武将の一人
豊臣秀吉は、低い身分に生まれながら、関白や太政大臣といった重職に就いた「戦国一の出世頭」です。社会でうまく立ち回る処世術の見本として、ビジネスシーンで取り上げられることも少なくありません。
秀吉が生まれたころは、まだ身分が固定されておらず、転職も自由で能力と行動力次第でチャンスをつかめる時代でした。これは、現代にも通じるところがあるのではないでしょうか。子どもが目標を達成するための力を学ぶのにも、豊臣秀吉の人生はよい見本になるかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部