武田信玄の生涯
「武田信玄(たけだしんげん)」は、甲斐(かい)の国(現在の山梨県)を支配していた大名です。武田氏の当主として戦国の世にデビューしてから、亡くなるまでの生涯を見ていきましょう。
父を追放して、家督を相続
信玄は、1521(大永元)年11月3日に、甲斐の守護大名・武田氏の嫡男として生まれました。なお「信玄」は出家したときに名乗った法号で、本名は「晴信(はるのぶ)」です。
信玄は、文武ともに優れており、立派な跡取りと周囲から期待されていました。しかし、父の信虎(のぶとら)は信玄を疎んじ、廃嫡(はいちゃく)を目論んでいたようです。
また、信虎は他国への侵攻に熱心で、戦(いくさ)に駆り出される家臣たちは疲弊していました。これ以上、父に国を任せられないと考えた信玄は、策略によって信虎を国外に追い出してしまいます。
強引にも見える信玄の行動ですが、当時は、家督をめぐって親子が殺し合うことは珍しくありませんでした。信玄は父を追放はしたものの、生活費を送っていたといいますから、民や家臣を守るための最終手段だったと考えられています。
三国同盟で勢力を強める
甲斐の当主となった信玄は、手始めに甲斐の北側の「信濃(しなの、現長野県)」を攻めて領地としました。しかし「越後(えちご、現新潟県)」の上杉謙信(うえすぎけんしん)が、北信濃の領主に頼まれて救援に乗り出し、信玄とにらみ合うことになります。
謙信を抑え、信濃を維持するために、信玄は甲斐に隣接する「相模(さがみ、現神奈川県)」の北条氏と、「駿河(するが、現静岡県)」の今川氏との間に同盟を結びます。
当時、北条氏は東へ、今川氏は西へ勢力を広げようとしており、互いに手を組めば、背後を気にせず、それぞれの目的に集中できる状況にありました。
利害が一致した三国は、お互いの娘を相手の嫡子に嫁がせ、1554(天文23)年に同盟国となります。隣国を気にする必要がなくなった信玄は、順調に領国経営を進め、ますます力をつけていきました。
上洛途中で病に倒れる
1560(永禄3)年の「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元が討ち取られた後、信玄は三国同盟を破って、弱った今川氏を滅ぼします。駿河を手に入れた信玄は、戦国最強大名として他の大名から恐れられる存在となりました。
1572(元亀3)年には、織田信長と対立していた室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の要請に応じて上洛を開始します。しかし、信長との直接対決を目前にして、病に倒れてしまいました。
しばらくたっても病状は回復せず、上洛をあきらめて甲斐へ戻る途中で、信玄は53年の生涯を終えます(1573)。
武田信玄の有名な戦い
武田信玄は、生涯で何十回もの戦を行いながら、ほとんど負け知らずだったといわれています。戦上手(いくさじょうず)の信玄を象徴する、有名な戦いを見ていきましょう。
上杉謙信との「川中島の戦い」
「川中島(かわなかじま)の戦い」は、1553(天文22)~1564(永禄7)年の間に、信玄と上杉謙信との間に起こった合戦の総称です。川中島は、現在の長野市にある三角州です。
両軍は北信濃の支配をめぐり、川中島周辺を舞台に、5回も合戦を繰り広げました。なかでも1561(永禄4)年の合戦は激しく、乱戦の中で謙信と信玄が一騎打ちしたとの伝説が残っています。
謙信もほとんど負けたことがない戦上手で、戦力もほぼ互角でした。このため相手に決定的なダメージを与えられず、決着がつかないまま終わっています。
徳川家康を圧倒「三方ヶ原の戦い」
信玄は亡くなる直前に「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で徳川家康に圧勝し、存在感を見せつけています(1572)。三方ヶ原は、静岡県浜松市の北部に広がる台地です。
上洛のため、甲斐を出発した信玄は、大軍を率いて徳川家康の領地・遠江(とおとうみ、現浜松市周辺)に侵入します。織田信長と同盟関係にあった家康は、必死に抵抗するものの力及ばず、浜松城に立てこもって籠城戦(ろうじょうせん)に備えていました。
ところが、信玄は浜松城を素通りして、進軍を続けます。信玄に無視されて腹を立てた家康は、城を出て追撃しますが、三方ヶ原で待ち構えていた武田軍の返り討ちに遭ってしまいます。信玄は面倒な城攻めを避けるため、家康の行動を予測して、わざと素通りして見せたのでした。
勝敗は2時間ほどで決まり、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰っています。
武田信玄にまつわるエピソード
武田信玄は、一代で戦国最強と呼ばれる地位まで登りつめた人物です。彼のカリスマ性や先見性は、現在も多くの人を惹きつけています。信玄にまつわる有名なエピソードを紹介します。
「風林火山」の軍旗と家臣団
信玄は、人材育成の能力に優れており、有能な家臣を多く抱えていました。甲斐は馬の産地でもあり、鍛え抜かれた武将が率いる武田の騎馬隊は、圧倒的な攻撃力を誇るようになります。
また信玄は中国の兵法書「孫子(そんし)」の一節を記した軍旗をつくり、出陣の際に使用しました。濃紺の布に大きな金色の文字が映える「風林火山(ふうりんかざん)」の軍旗です。
一般的に、軍略は敵に知られないよう隠すものですが、信玄はあえて軍旗に記し、国内外に広く宣伝します。信玄の作戦は、味方の士気高揚と敵の戦意喪失にとても効果がありました。
まさに「疾如風(はやきこと風のごとし)」を実践しながら迫る騎馬隊を見ただけで、震えあがる敵兵も多かったようです。
温泉が好きだった
信玄は、領内にたくさんの「隠し湯」を持っていました。温泉を所有する目的は、やはり戦に勝つためです。合戦に明け暮れた信玄にとって、兵の傷が早く回復する温泉は欠かせなかったのです。
なお、温泉の近くで採れる硫黄(いおう)は、鉄砲で使う火薬の原料となります。このため隠し湯には、戦国大名にとって貴重な資源である硫黄を独占する目的もあったと考えられています。
信玄自身も温泉が好きで、疲れや傷を癒(い)やしに各地の湯を訪れていました。地元の甲斐だけでなく、侵略先でも温泉を活用したため、長野県や静岡県にも信玄の隠し湯と伝わる場所があります。
内政にも尽力
信玄の父・信虎は、内政をおろそかにしたために人心が離れ、追放の憂き目に遭いました。一方、信玄は国を豊かにする政策を次々と実行し、民衆の支持を得ます。
信玄が行った主な政策は、以下の通りです。
・漆(うるし)や和紙など特産品の生産を推奨
・金山の開発
・街道の整備
・釜無川(かまなしがわ)の治水工事
特に治水工事は、完了までに20年を費やす大事業でした。このとき造った堤防は「信玄堤(しんげんづつみ)」と呼ばれ、今でも甲府市の治水に役立っています。
戦国の世に輝きを放った武田信玄
武田信玄は、評判のよくなかった父に代わって家督を継ぎ、優れた戦略と政治手腕で戦国の世を勝ち続けました。実力を武器にのし上がる信玄の生き方は、戦国大名の代表格といってよいでしょう。
信玄がもう少し長生きしていたら、織田信長の天下統一も、徳川家康の江戸幕府も実現しなかったかもしれません。遠い昔の戦国の世で、ひときわ輝いた武田信玄について想像をめぐらせ、親子で話し合ってみてはいかがでしょうか。
もっと知りたい人のための参考図書
小学館版学習まんが 少年少女人物日本の歴史「信玄と謙信 川中島でたたかった両雄」Kindle版
ポプラ社 コミック版 日本の歴史「戦国人物伝 武田信玄」
山梨日日新聞社「武田信玄入門」
戎光祥出版「図説 武田信玄」
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構成・文/HugKum編集部