ロシア革命とは?
「ロシア革命」とは、300年以上の歴史を持つ「ロマノフ王朝」が倒れるきっかけとなった出来事です。二度の革命で何が起こったのかを解説します。
1917年に起きた二つの革命
ロシア革命とは、第一次世界大戦下の1917年に起こった二度の革命を指しています。「三月革命」で、ロマノフ王朝を打倒したのに続き、「ウラジーミル・レーニン」がボリシェヴィキ(多数派のこと)を率いた「十一月革命」では、臨時政府を倒したのです。
労働者たちによる二度の革命を経て、同盟国側との講和条約を結んだロシアは、戦争から離脱しました。十一月革命の後にソビエト政権が成立し、「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が誕生したのです。
広義の意味では、1905年に起きた「第一次革命」も、ロシア革命に含まれることがあります。この場合、1917年に起こった二度の革命は「第二次革命」と呼ばれることを覚えておきましょう。
資本主義から社会主義国家へ
第一次世界大戦が起こり、ロシアでも国民の生活が苦しくなっていました。皇帝への不満がたまっていくなかで、「日露戦争」に敗北したこともあり、政治に対する批判がさらに高まったのです。
三月革命でロマノフ王朝が倒れた後、暫定(ざんてい)的な臨時政府が誕生します。国民は戦争からの離脱を望んでいましたが、臨時政府は戦争を継続する考えだったため、再び革命が起こる原因となったのです。
十一月革命の中心となったボリシェヴィキは、「平和・土地・パン」をスローガンに掲げて民衆の支持を獲得します。ボリシェヴィキは、後に赤軍(せきぐん、労農赤軍が正式名)と呼ばれる軍隊を指揮して、首都であるペトログラードを制圧し、世界で初めて社会主義革命を成功させたのです。
ロシア革命が起こった背景
ロシア革命の原因は、戦時下で国民の生活が貧しくなったことでした。ロシア革命が起こるまでの流れを、もう少し詳しく解説していきます。
戦争による農民の困窮
日露戦争が起こっていた当時、ロシアでは皇帝・ニコライ2世による専制政治が行われていました。1905年、戦争の影響で貧しい生活を送っていた労働者や農民たちは、皇帝に要望を訴えるために「デモ」を起こしたのです。
戦争反対と食料を求めての行動でしたが、軍隊が発砲したことにより、1,000人以上もの死者が出る結果となりました。「血の日曜日事件」とも呼ばれたこの惨事が、後のロシア革命につながる第一次革命です。
多くの被害者が出たこともあり、労働者たちは抗議のためにストライキを行いました。この事件は、絶対的な存在であった皇帝に対する不信感が強まる原因にもなったのです。
戦争離脱を求める「ソビエト」の誕生
血の日曜日事件をきっかけに、労働者を中心として設立された組織が「ソビエト」です。ソビエトとは「集会」「評議会」などを意味する言葉で、食料を求めて戦争反対を訴える人はさらに増えていきました。
1917年の第二次革命では、武装した民衆たちによる大規模なデモやストライキが起こります。十一月革命では、ストライキの鎮圧に向かった兵士の一部も反乱を起こしてソビエトに加わりました。
ソビエトのリーダー的存在だったのが、後にソ連の初代指導者となるレーニンです。ソビエトは臨時政府に代わって権力を握り、1922年にソ連が成立しました。
三月革命と十一月革命
同じ年に起こった二つの革命を合わせて「ロシア革命」と呼びます。三月革命と十一月革命で起こったことを、それぞれ見ていきましょう。
ロマノフ王朝を倒した三月革命
三月革命は、女性労働者が食料を求めて起こしたストライキから始まります。3月8日の国際女性デーに、女性のみがストライキを起こしたのです。
男性労働者や軍隊の一部も加わった大規模なストライキを、ソビエトが率いてそこに加わり、皇帝のニコライ2世に退位を求めました。このようにして300年もの歴史を持つロマノフ王朝の政治が終焉(しゅうえん)を迎え、臨時政府がつくられたのです。
帝政ロシアで使われていた「ユリウス暦」は、現在も世界各国で使われている「グレゴリオ暦」とは日付がずれています。そのため、実際に革命が起こったのは3月でしたが、ロシアでは2月中の出来事だったので「二月革命」ともいわれることに注意が必要です。
戦争反対を主張した十一月革命
ロマノフ王朝が倒れた後に成立した臨時政府は、労働者の権利向上などを掲げました。しかし国民の期待に反して、戦争をやめるという意思はありませんでした。
ソビエトも、当面の間はこれを容認していましたが、戦争からの離脱を求めてクーデターを起こしたのです。レーニン率いるボリシェヴィキは、臨時政府を倒すことに成功し、単独政権を樹立しました。
また、十一月革命もユリウス暦では10月中に起こった出来事だったため、二月革命と同様に「十月革命」とも呼ばれることを知っておきましょう。
ロシア革命が世界に及ぼした影響
ロシア革命が成功したことで、他国には、どのような影響があったのでしょうか。ロシア革命以後の世界の動きを説明します。
各地で社会主義革命運動が多発
ロシア革命で王朝が倒れたことにより、他国でも社会主義革命を起こそうとする動きが強まりました。1918年には「ドイツ革命」で皇帝が退位しており、スパルタクス団が社会主義革命を起こそうと目論(もくろ)んだのです。
1919年には、「ハンガリーの社会主義革命」や「エジプト革命」など、同時期にさまざまな動きが相次ぎました。「非暴力・不服従」で知られるガンディー(ガンジー)がインドで反英闘争を起こしたのも同年です。
ロシア革命は、戦争の影響で大国の「保護国」となっていた国々にも影響を与えたと考えられます。同時期に革命運動が多発したのは、「コミンテルン」の影響があったことも理由の一つです。
コミンテルンの創立
レーニンの提案により、共産主義を世界に広めるために「コミンテルン」が創立されました。コミンテルンとは、他国の革命を指導する機関であり、1919年にはモスクワで第1回大会が行われています。
ドイツやハンガリーの社会党・共産党などが参加しましたが、自国での革命は、いずれも失敗に終わりました。ロシア以外での社会主義革命がなかなか実現しなかったことで、コミンテルンの活動は停滞します。
1943年には、レーニンの後に共産党のリーダーとなった「スターリン」がコミンテルンを解散させました。こうして、他国でも共産主義革命を起こそうとしたレーニンの考えは失敗に終わったのです。
革命後のロシアの歴史
ロシア革命が成功した結果、社会主義国家である「ソ連」が誕生しました。革命後のロシアの歴史についてチェックしましょう。
レーニンを指導者としてソ連が成立
十一月革命を経て、レーニンは「ブレスト・リトフスク条約」を締結し、第一次世界大戦から離脱しました。しかし、この条約で、穀物(こくもつ)の産地であったウクライナを失ったことは、その後の反発を招く原因にもなったのです。
ロシア革命後は、ボリシェヴィキに反対の立場をとる反革命軍との戦いが始まりました。日本やアメリカなどの国が反革命軍を支援したことで、内戦が干渉戦争にまで発展したのです。
ボリシェヴィキは「ロシア共産党」と名前を変え、反革命軍を制圧しました。このようにして、1922年に「ソ連」が成立したのです。
アメリカとの冷戦とソ連崩壊
第二次世界大戦が終わった後も、アメリカとソ連の対立は深まるばかりでした。ソ連が東ヨーロッパに共産党政権を樹立させるなか、アメリカは「マーシャル・プラン」でヨーロッパを経済的に援助したのです。
「ベルリンの壁」でも知られるドイツは、東西対立の影響で西側と東側に、朝鮮半島は南北へと分割されました。アメリカとの冷戦は、ベトナム戦争やキューバ危機を引き起こす原因にもなったのです。
1985年に、「ゴルバチョフ」が共産党書記長に就任した後、米ソ首脳会談が行われ、1989年に冷戦の終結が宣言されました。ゴルバチョフの改革によって、ソ連の解体が進み、1991年には現在の「ロシア連邦」が誕生しました。
まとめ:二度の革命で社会主義国家が成立
ロシア革命は、皇帝による政治への不満が高まったことから起こった社会主義革命です。長引く戦争で経済的に厳しくなった国民たちが請願を試みた「血の日曜日事件」がきっかけになりました。
ロシア革命は、世界で初めて社会主義国家が成立した革命としても有名です。その後、ドイツやハンガリーなど多くの国でも社会主義革命が起こりましたが、その多くは失敗に終わっています。
レーニンが講和条約を結んだことで、ソ連は戦争から離脱しましたが、内戦が続くことにもなりました。ロシア革命は、その後の世界の歴史にも大きな影響を及ぼした重要な出来事だといえるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部