妻は必ず元気になると信じて
僕は妻の癌が分かってから、心は虚無に。しかし、仕事や当時3歳の娘の世話、家事など、妻の病院へ行くこと以外にやらなきゃいけないことは山ほどあります。
落ち込む暇もないほど忙しい
妻が入院するまで、ほとんどやったことがなかった料理や洗濯なども、当然ながら僕がやるしかないのです。そのため、落ち込む暇がありませんでした。
でも、暇がなかったからこそ、気持ちは徐々に前を向けるようになっていたのも事実。人間って不思議なものですよね。
考える時間がないほど何かをやっていると、身体は疲れても、気持ちは落ちないんですよね。
娘とも
「ママが戻ってくるまで力を合わせて頑張るぞ!」
と毎日娘と励まし合えば合うほど、妻は必ず元気になると本気で信じられるようになっていきました。
癒しの時間は
妻の方は相変わらず調子は良くないとは言っているものの、お見舞いに行くといつも笑顔で娘と僕を迎え入れてくれます。
その病室で、妻と娘が楽しそうに会話している様子を見ているのが、僕にとって1日でもっとも癒しの時間でした。
今振り返れば、この時間があったからこそ、どんなに忙しくてもネガティブな気持ちが沸き上がっても、希望を持ち続け毎日頑張ることが出来ていたのだと思います。
そんな中、いよいよ妻の手術の日が来ました。
自分が癌であることを知った妻
妻が手術室へ入る前、僕は妻の手を握り「頑張ってね!」と伝えると、妻は笑顔で答えてくれました。
この手術は検査のための手術ということで、妻は自分が癌だと言うことはまだ知りません。
僕は、この手術で「妻の身体の中が手術前の診断ほど、悪くなかった」という結果になって欲しいと祈りながら、待ちました。
そして、待つこと3、4時間。
手術の結果を、と先生に呼ばれました。
「取り除くことが可能な癌の部分は無事に取り除けました。しかし、手術前の診断通りいろんな場所に転移していて、その部分は手術では取り除けないので、抗がん剤などの治療が必要です」
とのこと。願いはむなしく、状況は変わらず厳しいまま……。そこへ、落ち込む間もなく先生から難しい質問がありました。
抗がん剤治療の副作用は?
「これから抗がん剤などの治療を始めていくわけですが、奥さんへ癌のことを伝えますか?」
僕は即答せずに、
「副作用などはあるのですか?」
と逆に質問。先生は、
「人によるので、具体的にどの程度とは言えませんが、少なからずあります」
という回答でした。
僕は少し頭の中で考えた後、
「伝えてください。ただし、ステージ4ということには触れずに癌ということだけでお願いします。」
と伝えると先生は、
「分かりました。私達から伝えても大丈夫でしょうか?旦那さんが先に伝えますか?」
と。僕は
「病院の方からお願いします」
と答えました。
この決断は正しかったのか?
今でも、どうしたら良かったか考えることがあります。
本人に病名を伝えることについて
妻が副作用などで「自分は癌かも…」と疑い始めたときに、僕や先生がそれを隠していると感じたら、周りを信用できなくなり、孤独で寂しい気持ちになると思ったから伝えることを選択しました。
ステージ4を伝えなかった理由は、絶望感を持って欲しくなかったからです。
病院から伝えてもらった理由
ただ単に、僕が先に伝える勇気がなかったからだと思います。
次の日、自分が癌ということを知った妻と初めて会いました。
妻は落ち込みやすい性格なので、僕の想像では喋れないほど落ち込んでいると予想していましたが、そんな様子もなく今まで通り娘や僕と楽しく会話をしてくれました。夜に沢山泣いたとは言っていましたが……。
そして、妻は
「私は絶対、癌に負けない」
と力強く言い、娘と僕と一緒に手を握り合い、家族全員で闘う決意を固めてくれました。
そんな妻を見て僕は
「母親は強い」
としみじみと感じながら、妻が癌を克服して元気に家へ戻ってくる姿を想像していました。
妻の癌を発見できなかった、かかりつけ医へ手紙を書くことに
また、僕自身もやれることを全部やりたいと思い、癌治療に効果があるといわれるものをネットや本などで沢山調べ始めました。
保険が使えない治療から、ドリンクや食べ物、温泉などなど。怪しいと感じるものもありましたが、癌が治る希望になる選択肢を出来るだけ多く持っておきたかったんですよね。
そういう中で取り組んだのが、妻のかかりつけだった病院の先生への手紙。というのも妻はかかりつけの病院で1年前と半年前、そして先月にも、入院した病院で癌が見つかった検査と同じような検査を受けていたですが、癌は発見されなかったんですよね。
手紙を書いた目的は
その手紙は、その先生を責めるためのものでなく、今の状況に対しての専門家のアドバイスなどが欲しかったから。
ネットや本で調べたものに対する意見も聴きたいと思っていました。返事がない可能性も十分あると思っていましたが、その先生は逃げることなく、手紙の中に書いていた僕の電話番号とメールアドレスの両方に連絡をくれました。
そして、その先生も出来るだけのことをしたいとのことで、必要があれば癌治療に関して非常に有名な大病院の先生へ紹介状を書くと申し出てくれたのです。選択肢が増えたことで、僕はさらに妻の癌が治ることへの希望を持てるようになっていったのです。
抗がん剤治療が始まって数日後に異変が
病院で見る妻は意識が朦朧としていて、話が上手くできなくなってきました。そういう時は、伝えたいことをノートに書いてくれていたのですが、ある時そのノートに書いた文章が「良く分からなくなってきた…」でした。
僕にとって1日で1番の癒しだった、妻と娘が会話する様子は、もうそこにはありませんでした。
職場へ、長期休暇の手続きをしようとしたら
妻の容態もあり、僕は職場へ長期休暇の手続きをすることにしました。この次の日から、仕事を気にすることなく、妻と娘と毎日一緒に過ごすことができるはず。
様態は急変することに
しかし、その手続きの最中に「妻が危篤状態になったので、すぐに来てくれ」との電話が病院から。
僕が病室に入ると妻は先生から心臓マッサージを受けていました。すでに妻のお母さんは病室にいて何度も妻の名前を呼んでいます。僕は妻の手を握り、声を出そうとしましたが、僕は声を出せません。でも、心の中では「頑張れ!」と叫んでいました。
そして、妻の手を握ってから、おそらく3分も経たないうちに妻の心臓は停止しました。
約1カ月で旅立つ妻
妻がステージ4の癌だと知った時と同じように、妻のお母さんは泣いていましたが、僕は実感がなかったからか、涙を流すこともなく、淡々と黙っているだけでした。今考えると、希望を失い絶望したことで、悲しいという感情さえ持てなかったのかもしれません。
妻はステージ4の癌が発見されてから、約1カ月で旅立ってしまったのです。
次回は、一般的ではない形式で行った葬式のお話しをさせてもらおうと思っています。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。すべての親子が幸せになりますように!
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文・構成/ひまわりひであき ※写真はイメージです。