「大老」と「老中」の違いは? 仕事内容から有名な大老・老中まで紹介【親子で歴史を学ぶ】

大老・老中といえば、歴史を学んでいると出てくるややこしい役職です。しかしこの二つには、知るとおもしろい明確な違いがあります。大老と老中それぞれの仕事内容と、これらの役職に就いた歴史上の有名人について紹介します。

大老と老中は、どっちが偉い?

「大老(たいろう)」と「老中(ろうじゅう)」は、名前が似ているばかりか役職が置かれた時代も同じです。この二つの役職は、いったいどちらが上の立場だったのでしょうか。

将軍に次ぐ幕府のNo.2「大老」

大老とは、江戸時代における最高位の職名です。幕府内では将軍に次ぐNo.2の権力者であり、立場的には老中よりも偉い地位とされていました。

大老になれるのは10万石以上の譜代(ふだい)大名、つまり、もともと徳川家に仕えていた名門の大名です。3代将軍の徳川家光(いえみつ)以降、土井(どい)・酒井(さかい)・井伊(いい)・堀田(ほった)の四家から選出されていました。

しかし、大老は常に置かれていたものではなく、臨時的に置かれた役職です。最初の大老が誰だったのかについては諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。

常設の最高執政官「老中」

老中とは、大老と同じく江戸時代にあった最高執政官で、大老に次ぐNo.3の立場です。大老が置かれていないときは、老中が幕府のNo.2となりました。

江戸幕府に常設された役職であり、「御年寄衆(おとしよりしゅう)」や「宿老(しゅくろう)」など、複数の役職名で呼ばれることがあったようです。

老中には一度に4~5人が就き、筆頭格を老中首座といいます。原則として、10万石以下の譜代大名から選出されていました。

堀田正睦(まさよし)公像(千葉県佐倉市)。佐倉城址公園本丸跡の入り口にある茶室の前に銅像が立っている。正睦は下総佐倉藩第5代藩主であり、また幕府の老中首座を務め、開国派として1858(安政5)年には米国総領事ハリスに通商貿易と公使江戸駐在を許した。
堀田正睦(まさよし)公像(千葉県佐倉市)。佐倉城址公園本丸跡の入り口にある茶室の前に銅像が立っている。正睦は下総佐倉藩第5代藩主であり、また幕府の老中首座を務め、開国派として1858(安政5)年には米国総領事ハリスに通商貿易と公使江戸駐在を許した。

大老・老中は、どんな仕事をしていた?

幕府のNo.2や最高執政官とされる重役に就いた大名は、どのような役割を任されていたのでしょうか。大老・老中の仕事について、分かりやすく解説します。

大老は政策決定に関与するも、基本は名誉職

大老の仕事は将軍の補佐役として、政治全般のかじを取ることです。とても強い権限を持ち、重要な政策決定に関与していました。

例えば、政務のうち将軍に伝えるべきことがあれば、老中からその内容を聞き取り、自らも将軍に意見を申し立てます。幕府内において大老の意見は、非常に重要視されていました。

とはいえ、大老が必要とされるのは、基本的に幕府を揺るがしかねないような事件があったときのみだったようです。名誉職といった側面が強く、日常的な幕政への参加を求められることはなかったといいます。

老中は月替わりで政務の責任者を務めた

老中の仕事は、政務の一切を取り仕切ることです。天皇をはじめとする朝廷への対応や、配下の管理・財政・民政など国内政治のほか、外国への対応も行っていました。

関わる範囲が多岐にわたっており、とても過酷な仕事のように思えるでしょう。しかし、老中は4~5人いたため、政務の責任者は1カ月ごとに交代していたそうです。

1680(延宝8)年に、堀田正俊(まさとし)が民政・財政を専門に扱う老中となって以降は、民政と財政のみ、特定の老中に任されることが多かったとされています。なお、堀田正俊は大老職も経験しています。

若年寄は、武士の統括が仕事

大老や老中と似た役職に、「若年寄(わかどしより)」というものがあります。「江戸幕府の役職として聞いたことはあるが、仕事内容はよく分からない」という人も多いかもしれません。

若年寄は老中の補佐役で、譜代大名の中から3~5人選ばれます。老中が外部勢力を管轄(かんかつ)し国政を担っていた一方で、若年寄は幕府内部を統括する業務にあたっていました。

具体的な仕事は、書院番(しょいんばん)・小姓組番(こしょうぐみばん)・目付(めつけ)といった、幕府に直接仕える武士を管理することです。大老や老中に比べて歴史的にその名が表に出ることは少ないですが、内政を取り仕切る重要な役割であったといえるでしょう。

知名度が高い大老・老中を紹介

特に大老や老中が活躍したのは、江戸時代後期〜幕末のことです。なかでも特に知名度が高い人物といえば、「井伊直弼(いいなおすけ)」「松平定信(まつだいらさだのぶ)」ではないでしょうか。この二人がそれぞれ大老・老中に就任した背景と、なした事柄について紹介します。

大老・井伊直弼

井伊直弼が大老に就任する直前、幕府は「ペリー来航」をきっかけに大きな局面を迎えていました。そこで13代将軍・徳川家定(いえさだ)は、もともと大老を多く輩出していた井伊家の当主・直弼を抜擢(ばってき)したのです。

井伊大老歌碑(滋賀県彦根市)。彦根城「いろは松」の近くに、直弼の歌碑が建てられている。「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」1860(安政7)年正月、正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この和歌を添え菩提寺に納めている。
井伊大老歌碑(滋賀県彦根市)。彦根城「いろは松」の近くに、直弼の歌碑が建てられている。「あふみの海 磯うつ波の いく度か 御世にこころを くだきぬるかな」1860(安政7)年正月、正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この和歌を添え菩提寺に納めている。

1858(安政5)年、大老に就任した直弼は、アメリカ総領事・ハリスと「日米修好通商条約」を締結します。しかしこのとき、直弼は朝廷の許可を得ていなかったのです。将軍の跡継ぎについても同様で、直弼が半ば強引に決定しました。

意向を無視された形となった朝廷側は、開国をよしとしない一派と手を組んで直弼と対立します。これらの反対勢力を弾圧したのが、「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。

強引ともいえる政策で恨みを買った直弼は、1860(安政7)年3月3日、桜田門外(さくらだもんがい)で暗殺されました。これが「桜田門外の変」です。

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老中・松平定信

松平定信は、将軍家の血筋で、8代将軍・徳川吉宗(よしむね)の孫にあたります。一度は将軍の世継ぎとして望まれながらも、権力争いの末に白河(しらかわ)松平家の養子に入りました。

やがて白河藩主となった定信は、飢饉(ききん)による藩政の悪化に見舞われますが、さまざまな施策を講じて切り抜けます。このことで定信は名君としてたたえられ、1787(天明7)年に老中首座に就任したのです。

南湖(なんこ)神社(福島県白河市)。定信を祀る神社。境内の紅枝垂桜「楽翁桜(らくおうざくら)」は定信が南湖を築造したときに植えたといわれ、樹齢約200年と推定される。右は定信の銅像。
南湖(なんこ)神社(福島県白河市)。定信を祀る神社。境内の紅枝垂桜「楽翁桜(らくおうざくら)」は定信が南湖を築造したときに植えたといわれ、樹齢約200年と推定される。右は定信の銅像。

定信は、老中になってすぐに、江戸の三大改革の一つである「寛政の改革」に取り組みます。米を蓄えるための囲米(かこいまい)や、朱子学(しゅしがく)以外の学問の禁止などが主な内容です。

寛政の改革は一定の成果を上げたものの、厳し過ぎる締め付けが反発を招き、定信は1793(寛政5)年に失脚しました。

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「安政の大獄は、井伊直弼」「寛政の改革は、松平定信」のように言葉だけで覚えるよりも、重要人物の役職と仕事内容が分かっていたほうが、歴史上の大きな出来事を理解しやすくなります。

大老・老中とは、どちらも将軍のすぐ近くに仕え、江戸幕府を支える重要な役職でした。大きな違いは大老が臨時職であるのに対し、老中が常設職であったという点です。

社会の仕組みや役職が、現代とは異なるので、少しややこしいと感じるかもしれません。しかし、大老や老中をはじめとした主な役職を覚えておくと、江戸時代の歴史や物語がいっそう楽しめるようになるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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