旗本と御家人の違いとは? 主な仕事や生活、大名との違いも紹介【親子で歴史を学ぶ】

江戸幕府の家臣である「旗本」「御家人」ですが、その違いがよくわからないという人も多いでしょう。仕事や生活など、異なる点を解説します。大名との違いについても触れるので、知識を深めて江戸時代が舞台のドラマや小説をより楽しみましょう。
<画像:静岡県菊川市の黒田家代官屋敷>

「旗本」「御家人」とは?

江戸時代の「旗本(はたもと)」と「御家人(ごけにん)」が、どのような役割だったのか、よく知らない人も多いのではないでしょうか。まずは、それぞれの身分について解説します。

徳川将軍家直属の家臣

旗本と御家人は、徳川将軍家直属の家臣である「直参(じきさん)」で、旗本は約5,000人、御家人は約1万7,000人いたとされています。「石高(こくだか)」が1万石未満で、将軍が参列する儀式などに同席できる御目見(おめみえ)以上の者を旗本、同席できない御目見以下を御家人と称していました。

戦(いくさ)になったときは、旗本は馬に乗れる「騎兵」で、御家人は馬に乗れない「歩兵」という違いもあります。それぞれは、さらに細かく役職や家柄などで区別されており、服装や住居も異なっていました。

なお、石高は土地生産高を米の量に換算したもので、公式の土地評価単位です。稲作地以外の土地も、米に換算した公定生産高で表示されていました。

黒田家代官屋敷(静岡県菊川市)。岡崎城主・本多忠利の長男・助久は、旗本(4500石)として治める領地支配のため、黒田家を代官に任じていた。写真の長屋門の規模は、黒田家が任されていた2000石の格式を持つ。1973(昭和48)年に重要文化財に指定されている。

大名との違い

「大名(だいみょう)」も徳川将軍家直属の家臣ですが、石高が1万石以上という違いがあります。

大名は徳川一門の「親藩(しんぱん)大名」、関ヶ原の戦いより前からの家臣である「譜代(ふだい)大名」、関ヶ原の戦い後に家臣となった「外様(とざま)大名」に分かれていました。

外様大名は、比較的大きな石高の領土を与えられていましたが、江戸から遠い土地だったので、幕政に参加できるのもまれだったといわれています。

大名は「藩(はん)」をつくることができるという違いもあります。幕府の方針に従っていれば、税率や法律をある程度好きに決めてよいことになっていたのです。

「旗本」の主な役割や生活

旗本は、どのような仕事を任されていたのでしょうか?  主な仕事とあわせて、生活についても見ていきましょう。旗本として有名な人物も紹介します。

「役方」や「番方」

「役方(やくかた)」は事務官で、勘定(かんじょう)奉行・寺社奉行・町奉行に奏者番(そうじゃばん)・大目付(おおめつけ)・目付など、行政や司法、財政などに関する事務を行う役割がありました。

老中や町奉行のように1カ月ごとに交代する「月番制」もありましたが、役方の多くは「三日務め」でした。2日勤務して1日休みとなる交代制で、朝出勤して夕方帰宅するのが一般的だったといわれています。

「番方(ばんかた)」は、軍事を受け持っており、大番(おおばん)・書院番・小姓組(こしょうぐみ)・新番・小十人組の「五番方」が出世コースとされていました。基本的に、朝番・夕番・泊まり番の「一日三交代制」でした。

大奥での女中の仕事は、新人の旗本の娘が就くのが雑用担当の「御三の間(おさんのま)」、旗本の娘が就ける最も地位の高い職は、大奥のすべてを差配する最高権力者の「御年寄(おとしより)」です。

旗本屋敷暮らし

旗本は、幕府から家禄(かろく)に応じて500~2,300坪の「旗本屋敷(借家)」が与えられていました。屋敷では家族だけでなく、家老や用人など家臣と一緒に暮らしていました。奉公人が住む長屋があったり、郊外に旗本屋敷とは別に「抱屋敷(かかえやしき)」を持ったりすることもあったとされています。

広い領地を持ち、十分な収入を得られていた旗本はごくわずかで、多くの旗本は、少ない領地からの収入や給料で生活していました。家族だけでなく奉公人を養う必要もあり、経済的には苦しい生活をしている人も少なくありませんでした。

現代人が思うより質素な生活をしている旗本も多かった。

有名な旗本は、遠山景元と大久保彦左衛門忠教

旗本として有名なのが「遠山の金さん」の名で親しまれ、時代劇にもたびたび登場する遠山景元(とおやまかげもと)です。江戸町奉行を務め、名奉行といわれた人物です。

1840(天保11)年より務めた北町奉行所は現在のJR東京駅八重洲口付近、後に務めた南町奉行所はJR有楽町駅付近で、碑が立っています。

遠山景元屋敷跡モニュメント(東京都墨田区)。町奉行の官舎は奉行所内にあるが、下屋敷もあった。景元こと「金さん」は、屋敷替えで1846(弘化3)年に本所菊川へ移る。約1200坪の屋敷だが、ここは景元の前に長谷川宣以(のぶため)、ご存じ「鬼平」が住んでいた。

大久保彦左衛門(おおくぼひこざえもん)は、徳川譜代として幼少から家康に仕えており、三代の将軍に仕えた人物として有名です。17歳で初陣を遂げてから戦功を重ね、1590(天正18)年には武蔵国に2,000石を、1614(慶長19)年には、新たに三河国に1,000石を与えられました。

家康が重大事を決定する際には、招かれて「天下のご意見番」として遠慮なく意見を述べていたことでも知られています。

大久保彦左衛門屋敷跡(東京都千代田区)。彦左衛門は通称で、本名は忠教(ただたか)。駿府にいた大御所・家康が死去後、引き揚げた家臣団が近辺に屋敷を構えたことから、ここを「駿河台」と呼んだ。駿河台下のご意見番・彦左衛門屋敷跡は、明治大学の向かい側。

「御家人」の主な役割や生活

一方、御家人の主な仕事や生活はどのようなものだったのでしょうか。旗本の仕事や生活とどのように異なるのかに着目すると、身分や暮らしの違いが分かりやすいでしょう。

「与力」や「同心」

「与力(よりき)」は、町奉行の補佐役として町の治安を守るさまざまな仕事をこなしていました。財政から人事までを取り仕切っていた「年番(ねんばん)与力」や、街中の物価を調査する「市中取締諸色掛り」などがありました。

「同心(どうしん)」の役割は、主に与力の補佐役です。与力は馬に乗れ、同心は乗れないなど上下関係がありました。

花形の仕事は、与力の補佐役ではない「三廻(さんまわ)り」でした。特命を受け極秘調査をする「隠密(おんみつ)廻り」、決められた地域をパトロールする「定町(じょうまち)廻り」、人手が足りないときにパトロールをする「臨時廻り」の3種類の職です。

大奥での女中の仕事は、旗本の娘より格下の仕事が与えられました。一番下の職は掃除や水くみなど大奥全体の雑用を担当する「御末(おすえ)」、最も地位が高い職は御配膳所で食事の煮炊きのすべてを担当する「御仲居(おなかい)」です。

組屋敷暮らし

御家人は、個別の屋敷ではなく、所属する役職の組単位で「組屋敷(借家)」が与えられました。町奉行の与力で禄高120~230石の場合は、20坪から30坪程度の広さだったとされています。

生活は苦しく、給料として支給された米を、自分たちが食べる分以外は現金に替えて、やりくりしている人が大勢いました。土地を貸して収入を得る人もいたようです。

生活費を稼ぐために内職をすることも珍しくなく、組単位で朝顔(あさがお)や金魚、植木を育てたり、羽細工を作ったりして売っていました。有名な「入谷(いりや)の朝顔市」は、もともと御家人が組屋敷で栽培し販売したことが始まりです。

旗本・御家人に関する法令

江戸時代には、旗本や御家人に関する法令もありました。具体的にどのような法令だったのか、法令によって旗本と御家人の生活がどのように変わったのか見ていきましょう。

借金が帳消しになった「棄捐令」

1789(寛政1)年に、幕府は、旗本や御家人の生活難を救うために借金を取り消しにする法令「棄捐令(きえんれい)」を発令しました。老中の松平定信(まつだいらさだのぶ)が行った「寛政の改革」の一つで、1784(天明4)年以前の借金を帳消しにし、それ以降の借金に関しては利子を下げ、長期間で返すという内容です。

ただし借金がなくなっても、幕府からの給料が上がったわけではなく、仕事をするうえで物価の高い江戸暮らしをしなければならなかったため、また借金をせざるを得ないというのが実情でした。

さらに、金貸し業者の「札差(ふださし)」は、棄捐令が発令されたことによって、金を貸すのを渋るようになり、旗本や御家人の生活はより苦しくなったのです。

江戸時代の重要な役割を担った旗本・御家人

石高が1万石未満の徳川将軍家直属の家臣である直参で、御目見以上の者が旗本、御目見以下が御家人です。両者には仕事や住居に明確な違いがあり、旗本の主な仕事は役方や番方で旗本屋敷暮らし、御家人の主な仕事は与力や同心で、組屋敷暮らしでした。

一部を除き、経済的に苦しい生活をしている人が多く、生活難を救うために棄捐令が発令されました。しかし、状況はそれほど改善されなかったのが現状です。

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構成・文/HugKum編集部

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