「火消し」は江戸時代のヒーロー? 気になる消火術と現在との違い【親子で歴史を学ぶ】

江戸時代を舞台にした小説や時代劇にも出てくる「火消し」とは、どのような仕事だったのでしょうか? 江戸時代と現在の火事事情や消火術の違い、現在のスタイルに変わった経緯も紹介します。知識を得ることで、ストーリーをより深く理解できるでしょう。

火消しとは?

まずは、「火消し」の始まりや、どのような仕事を指すのかを紹介します。江戸時代の人々にとって、火消しがどのような存在だったのかも触れていきます。

火消し制度の始まり

火消しは、江戸幕府によって作られた「消防組織」です。江戸で火災が発生すると、参勤交代で出府している大名家が消火活動にあたっており、「奉書(ほうしょ)火消し」と呼ばれていました。

しかし、1641(寛永18)年に発生した火事では、奉書火消しだけでは鎮静が難しかったことから、諸大名家にも消火活動が許可されたのです。これが「大名(だいみょう)火消し」と呼ばれるものになります。

1657(明暦3)年に発生した「明暦の大火(振袖火事)」では、江戸城や江戸の町の大半が焼け、多くの死者を出しました。この惨事をきっかけに、翌年、幕府は10か所の「火消屋敷」を設け、「定火消し(じょうびけし)」と呼ばれる人々を常駐させるなど、消防組織を整えていったのです。

神田神社(神田明神)・御防講(おふせぎこう)記念碑(東京都千代田区)。御防講は、警護団体の一種で、江戸町火消しの先駆けといわれる。神田明神は、江戸総鎮守で、江戸三大祭りの「神田祭」を執り行う神社として知られている。

江戸時代のヒーローだった

江戸時代の「火消し」は、人々にとってヒーロー的存在でした。当時、多くの人があこがれていた粋(いき)な職業の一つが、「火消しの組頭」といわれているほどです。勇ましい掛け声とともに火事の現場に向かう姿や、消火活動にあたるてきぱきとした姿が、りりしく映ったのかもしれません。

火消しの仕事は消火活動ですが、どの組が一番に火消口を確保し、旗印の一種である纏(まとい)を上げるかも重要でした。そのため、組同士で縄張り争いの喧嘩(けんか)になることも珍しくなかったそうです。

「神田よ組」の纏持ち。「火事と喧嘩は江戸の華」と、火消しの纏持ちは江戸のヒーローだった。

 

火消しの中でも有名な人物が、「を組」の頭だった「新門辰五郎(しんもんたつごろう)」です。辰五郎が、火災現場で他の組に纏を倒されたことに腹を立て、相手の纏を転落させたことや、大名屋敷にまで乗り込んだ話は有名なエピソードとして残っています。

江戸の火事事情と消火術

江戸時代の町並みや消火の技術は、現在と大きく異なるため、火事事情や消火術にも違いがあります。使用されていた道具などから、当時の火消しの仕事の様子を推測してみましょう。

江戸は火事が多い町

江戸時代の江戸の町では、頻繁に火災が発生していました。主な理由の一つは、人口が密集していたことです。城下町は「武家地」「寺社地」「町地」に分かれていましたが、総人口の約半数にあたる町民が住む「町地」は、全体の2割程度だったとされています。

路地裏まで、隙間なく長屋(ながや)が並ぶほど過密しており、一度火事が発生すると、またたく間に広がってしまったのです。家屋は木造で、屋根も藁(わら)や茅(かや)で造られており、燃えやすい素材だったことも関係しています。

火事が起こると、見物人が増え、消火活動に支障が出ることや、どさくさに紛れた窃盗(せっとう)などの犯罪も起こりやすいことから、見物しないことや見物人を厳しく追い払うといったお触れも出ていました。

半鐘の鳴らし方

江戸の町には、各所に「火の見櫓(ひのみやぐら)」が設置されており、「半鐘(はんしょう)」がつるされていました。この半鐘の鳴らし方によって、人々に火事の現場までの距離などを知らせていたのです。

現場が遠いときは「一打」、火消しの出動や大火は「二打」、現場が近いときは「連打」、現場が間近なときは「乱打」でした。当時と全く同じではないものの、現在の消防法でも「警鐘」を使用した「消防信号」が使われています。

半鐘。現代でも、火災や災害のときに使用されている地域もある。

火消しの道具と使い方

江戸時代の消火方法は、周囲の家を破壊して燃え広がるのを防ぐ「破壊消火」でした。そのため、使われていた道具も現在とは大きく異なります。

主な道具には、家屋に登るときなどに使う「はしご」、火の粉を払うための「大団扇(おおうちわ)」、柱などを引き裂く「とび口(ぐち)」、重いものを倒す際に使う「刺又(さすまた)」、水を運ぶ「玄蕃桶(げんばおけ)」などがあります。

玄蕃桶。火災のときに、水を入れて担いで運ぶ大形の桶。

 

「竜吐水(りゅうどすい)」と呼ばれる手押し放水ポンプもありましたが、かなり貧弱でした。消火よりも、火消しの士気を高めるために役立ったといわれています。

「この家屋までで火を消す」という意味の火消口を示すための「纏」もあります。現場に着くと、まず風下の屋根に昇り、纏を振っていたのです。組ごとにデザインが異なり、組を誇示する役割もあったようです。

江戸時代に流行した浮世草子とは|内容や代表作家の井原西鶴を紹介【親子で歴史を学ぶ】
「浮世草子(うきよぞうし)」は、江戸時代の「元禄(げんろく)文化」を代表する文学です。戦国の世が終わり、平和で豊かな暮らしを享受する人々の心...

現在の消防隊に変わる流れ

現在の消防隊に変わったのは、いつ頃なのでしょうか?

「火消し」が「消防隊」に変わるまでの経緯や、消防団の歴史について紹介します。

現在のスタイルは戦後から

火消しは時代の流れとともに呼び名や体制が変わり、現在のスタイルに変わったのは戦後のことです。1947(昭和22)年に「消防団令」によって、「消防団」として再出発したことがきっかけになります。

それまでは警察機構が管轄していましたが、新たに施行された「地方自治法」や「消防組織法」によって、市町村長が管理することになったのです。その後、緊急体制なども着実に整い、現在のスタイルが確立されました。

消防車の放水銃の筒先がずらっと並べられている。

町火消の流れをくむ消防団

「消防団」の始まりは、江戸時代に発足した「町火消し」といわれています。町火消しは、1718(享保3)年に大岡越前守忠相(ただすけ)によって作られた制度です。

翌1719年に「いろは四十七組(四十八組になるのは、1730年)」が編成されたことで、本格化したと考えられています。本所、深川など区域ごとに16組の火消組が設置され、費用はそれぞれの町会が分担していました。

「町火消し」は、「消防組」「警防団」と呼び名が変わり、1947年に「消防団」として再出発したのです。

江戸時代のヒーローの仕事を確認しよう

火消しは、江戸時代に作られた現在の消防隊にあたる人たちのことで、江戸時代の人にとってはヒーロー的存在でした。当時の消火方法は、周囲に燃え広がるのを防ぐために家屋などを破壊する「破壊消火」で、使われていた道具も現在とは大きく異なります。

時代とともに呼び名や体制は変わったものの、町火消しの流れをくむのが、現在の消防団になります。当時の火消しの活動を知るとともに、現在の消防団の働きについても、子どもと一緒に再認識してみるとよいかもしれません。

散切り頭とはどんな髪型? 文明開化のシンボルと呼ばれるのは、なぜ?【親子で歴史を学ぶ】
散切り頭とは 社会科の授業などで出てくる「散切り頭(ざんぎりあたま)」という言葉。これには、どんな意味があるのでしょうか? どんな髪型?...
「家人」は誰に対して使う? 正しい意味や類語をマスターしよう
「家人」は、近年、ほとんど使われていない言葉ですが、まれに年配の人との会話や、時代劇などで見聞きすることがあるでしょう。家人とは、いったいど...

構成・文/HugKum編集部

編集部おすすめ

関連記事