カンボジアとは?
まずはカンボジアの位置情報や、基本情報を押さえておきましょう。
どこにある国?
カンボジアはアジア大陸の東南にあるインドシナ半島の南部に位置します。東はベトナム、北はラオス、西はタイ……と3つの国に隣接しており、南はタイ湾の海に向けてひらかれています。
基本情報
首都
プノンペン
人口
1690万人
面積
181,035平方キロメートル
言語
クメール語
宗教
仏教(一部少数民族はイスラム教)
気候
熱帯気候のひとつで年間を通じて高温多雨な「熱帯モンスーン気候」に属します。その中でも特に雨の多い雨季が5~10月、比較的乾季と言えるのが11~4月です。
年間の平均気温は27.7℃ですが、4~5月は30℃を超える日も多く、最も暑い季節となります。12~3月は雨量が少なく、僅かながら気温も下がります。
カンボジアの歴史
「東南アジア最古の国」としての歴史を持つカンボジア。ここからは、カンボジアのアンコール王朝から植民地時代、独立戦争や内戦を経て現在に至るまでの歴史を概観していきます。
東南アジア最古の国・扶南の建国と滅亡
現在カンボジアがある地域に人が住むようになったのは、紀元前4200年頃。 紀元前1〜2世紀頃になると、メコン川のデルタ地帯に「扶南(ふなん)」と呼ばれる国が建国されました。クメール人が興したこの古代王国は、インドや中国との交易の中継貿易港として栄えます。
しかし、現在ラオス領となっている地域に所在した「真臘(しんろう)」という国が台頭したことで、7世紀に扶南はこの国に併合され、滅亡することとなりました。
カンボジア栄光のアンコール王朝
8世紀初頭、当時2つの国に分裂していた真臘をジャヤバルマン2世が統一し、802年にアンコール王朝を興しました。その後もアンコール王朝における歴代の王たちは、各地に王宮や寺院を建て、優れた歴史遺産を多数残します。カンボジアの象徴とも言えるアンコール・ワットも、この時期に造られた寺院のひとつです。
その後、1177年にベトナム中部に位置したチャンパによって占領されることもありましたが、ジャヤヴァルマン7世がこれを鎮め、今度はチャンパをアンコールが占領。ラオスやベトナム、タイなどにも領地を広げ、インドシナのほぼ全域を治めます。大きな菩薩像で有名なバイヨン寺院が建てられたのもこの時期です。
しかしながら、アンコール王朝による栄光の時代は、ジャヤヴァルマン7世が亡くなったことで終わりを遂げます。王位継承争いで混乱が生まれ、タイのアユタヤ朝からも攻められ、1430年代にアンコールは陥落しました。
フランスの植民地に
アンコール王朝後のカンボジアは、絶えずベトナムとタイによって圧迫され、両国に属するようになりました。
19世紀の後半になると、フランスの皇帝ナポレオン3世がインドネシア半島への侵略をはじめ、ベトナムを植民地化します。カンボジアも同様に、フランス・カンボジア協約が結ばれ、1887年にはベトナム全土とカンボジアを合わせたフランス領インドネシア連邦が成立。カンボジアはフランスの植民地の一部となりました。
カンボジアのフランスからの独立
第二次世界大戦が終わると、カンボジアの当時の国王シハヌークは本格的にフランスからの独立に向けた活動を始めます。
1949年にはカンボジアの独立をみとめる協定が結ばれましたが、依然、司法権などはフランスにあるままだったため、国王シハヌークはフランスへの行脚や、アメリカとの接触、タイへの亡命、シェムリアプでの独立闘争の指揮などを通じて、国際世論に訴えました。その結果、1953年11月に、ついにフランスに譲歩させる形で独立を勝ち取りました。
ベトナム戦争からカンボジア内戦の時代へ
独立後、カンボジアはシハヌークのもとで、外交面では中立をとなえる新国家建設を目指します。政治的にも社会的にも安定しつつあったにもかかわらず、1960年代に入るとベトナム戦争が激化し、カンボジア領内もアメリカ軍によって爆撃を受けるように。
さらに、1970年、親アメリカ派のロン・ノル将軍がクーデターを起こしたことで、シハヌークを追放し、アメリカ軍によるカンボジアへの侵攻を受け入れました。
一方、追放されたシハヌークは、新たに誕生した共産主義勢力のクメール・ルージュと手を結び、ロン・ノル政権に対抗して戦うこととなります。このようにして、20年以上におよぶカンボジア内戦の時代が幕を開けました。
ポル・ポトによる恐怖政治の時代
1975年、ポル・ポトが率いるクメール・ルージュはロン・ノル政権を倒します。クメール・ルージュによる新しい政権が生まれますが、ポル・ポトが国づくりの手本としたのは、中国の文化大革命。
原始的な共産社会をつくるべく、すべてのカンボジア人を農村で強制労働させ、知識人や芸術家たちを虐殺しました。虐殺されたカンボジア人の数は約150万人にもおよぶといわれています。
さらなる内戦へ
1979年、ポル・ポト政権と対立していたベトナムがポル・ポト派を追放し、親ベトナム派のヘン・サムリン政権がうちたてられます。
恐怖政治は終わったものの、ヘン・サムリン政権に反抗する三派のグループ(シハヌーク派、ソン・サン派、クメール・ルージュ派)が連合し、新たな内戦が勃発。この内戦の中で、カンボジア各地に大量の地雷が埋められることになりました。
和平にむけての歩み
カンボジアの内戦問題を解決するために国際会議が開かれ、パリ和平協定が結ばれたのは1991年のこと。これによって、カンボジアは国連のUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)に統治されることになりました。
ようやくカンボジア国内の戦果は止み、平和が戻りましたが、貧富の格差やストリートチルドレン、未だ残留する地雷の不発弾など、多くの課題や問題は依然残ったままです。
カンボジアの特徴・魅力
ここからは、カンボジアの文化や特徴、魅力についてを見ていきましょう。訪れた際に気をつけたいマナーや注意点についてもお伝えしていきます。
食べ物・食文化
一年を通して気温・湿度が高いカンボジアでは、食欲をそそるような香辛料を効かせたスープ類をよく食べます。
朝食ではパンや麺を食べることも多いようですが、昼夜の主食には米が人気のようです。米で作られた米麺は、朝ご飯の定番メニューなのだとか。
カンボジア人の性格・特徴
カンボジア人には、友好的かつ、温厚で真面目な人が多いと言われます。おとなしく自己主張も強くないので、日本人に似ているかもしれません。
カンボジアでのマナーやタブー、注意点
カンボジアには、宗教に関連したタブーやマナーが存在しています。
たとえば、仏教で神聖な部分とされる頭を触ることや、不浄とされる足を人に向けたり、足で物を触ったりすることはNG。
また、寺院を訪れる際は、膝や肩が隠れるような露出がなく控えめな服装を心がけましょう。僧侶や仏像に背を向けて座ることも不敬と思われてしまいます。
治安には注意する必要あり
カンボジアの治安は、日本と比べてみると、決して良いとは言えません。特に繁華街においては、昼夜にかかわらず、ひったくりや住居侵入、性犯罪が頻発しているようです。政治状況が安定したことから少しずつ改善してきているとも言われていますが、十分に注意する必要がありそうです。
カンボジアの観光スポット
最後に、カンボジアに訪れた際には是非とも立ち寄りたい観光スポットをご紹介します。
カンボジアといえば、やっぱり寺院の遺跡や王宮。歴史的にも美的にも惹かれる建造物の中からピックアップしてみました。
アンコール・ワット
アンコール王朝、そしてカンボジアの象徴ともいえるアンコール・ワット。世界遺産の中でもとりわけ人気がある観光地です。
12世紀のはじめごろ、約30年もの年月をかけて建てられたといわれるこの寺院では、神秘的な壁面の彫刻や、壁画、彫像、建造物など、多くの造形美に触れることができます。カンボジアへ訪れたら立ち寄らないわけにはいかない、必見のスポットです。
バイヨン寺院
カンボジアの歴史の章でも名前が挙がったバイヨン寺院。アンコール・トムと呼ばれる都市遺跡内に鎮座する寺院です。
細かな彫刻が彫り込まれた壁画や、最大2mもの大きな顔が彫られた四面像をあちこちで見ることができます。歴史を感じられるほか、ミステリアスな雰囲気を味わえるスポットです。
プノンペン王宮
金色に輝く王宮・プノンペン王宮。プノンペンが首都になった1886年に建造され、フランスに占領されていた時期に現在の姿へと改装された王宮です。
王宮の南側にある皇室の菩提寺・シルバーパゴダでは、約5000枚も敷き詰められたシルバータイルや、安置された仏像にはエメラルドがちりばめられているのを見ることができます。
建物の内部には立ち入ることができませんが、外観や庭園内を散策するだけでも優雅な雰囲気が味わえるスポットです。
歴史の流れや文化についての理解を深めて、より充実した旅に
今回はカンボジアの基本情報から、歴史、社会情勢、文化、観光スポットまでをざっくりとお伝えしてきました。
未だ多くの問題をはらんではいるものの、カンボジアは誰もが一度は行ってみたい魅力的な国です。訪れる際は、歴史の流れや文化についての理解を深めて、より充実した旅を過ごしてくださいね。
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文・構成/羽吹理美
参考:「体験取材! 世界の国ぐに(18) カンボジア」(文・写真:吉田忠正/監修:ペン・セタリン/ポプラ社)
:「日本とのつながりで見るアジア 過去・現在・未来 4 東南アジア 2 カンボジア/タイ/ベトナム/ミャンマー/ラオス」(関根 秋雄、岩崎書店)