守護大名とは、どんな大名?
「守護大名(しゅごだいみょう)」とは、どのような大名を指すのでしょうか。名前の由来や誕生の経緯(いきさつ)など、守護大名の特徴を見ていきましょう。
地方に派遣された役人が前身
守護大名は、室町時代に登場した地方領主の呼び方です。「守護」は、幕府の命(めい)で地方に派遣された役人で、鎌倉時代に設置され、主に任国の警察・軍事を担当していました。
室町時代に入ると、任国の武士や土地を私有化し、領主となる守護が現れます。なかには数カ国を支配する強大な領主もいて、幕府に対しても大きな影響力を持つようになりました。
そのような勢力を守護大名といい、彼らによる任国支配の実態を「守護領国制」と呼びます。
守護大名が台頭した理由
守護が大名化した背景には、「南北朝の争乱」がありました。
鎌倉幕府滅亡から間もない1336(建武3/延元元)年、朝廷は京都の室町幕府側(北朝)と、幕府に対抗する奈良の後醍醐(ごだいご)天皇側(南朝)に分かれます。分裂は1392(元中9/明徳3)年まで続き、国内も大いに混乱しました。
南朝に対抗するために、幕府は守護の取り込みに動きます。1346(正平元/貞和2)年には、任国で起こる土地争い「刈田狼藉(かりたろうぜき)」の検断権と、幕府の裁定を執行する「使節遵行(じゅんぎょう)権」を与え、守護の権限を強化しました。
さらに、1352(正平7/観応3)年、幕府は守護が任国の年貢を半分徴収できるとする「半済令(はんぜいれい)」を出します。当初は、戦(いくさ)の激しい地域で兵糧を確保するための限定的な措置でしたが、規則を守る守護は少なく、年貢だけでなく土地まで奪う者が現れました。
大きな権力を得た守護は、任国の武士を家臣に取り込み、勢力を拡大していくのです。
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守護大名は、戦国大名とは違うの?
室町時代の後期になると、「戦国大名(せんごくだいみょう)」と呼ばれる勢力が台頭(たいとう)します。守護大名と戦国大名は、何が違うのでしょうか。
実力で領国を支配・拡大した戦国大名
戦国大名とは、1467(応仁元)年から始まった「応仁(おうにん)の乱」以降に、各地に登場した地方領主のことです。あくまでも幕府に任命される立場だった守護大名と異なり、戦国大名は実力で領国を獲得しています。
幕府の支配からも完全に独立していた彼らは、それぞれのやり方で領国の強化に取り組みます。「分国法(ぶんこくほう)」と呼ばれる独自の法律を制定したり、商業を盛んにして経済力をつけたりしているのも、戦国大名の大きな特徴です。
守護大名から戦国大名になるケースも
戦国大名の多くは、守護代や国人(こくじん)が、主人にあたる守護大名を滅ぼす「下克上(げこくじょう)」で成り上がっています。織田(おだ)氏や上杉(うえすぎ)氏は守護代やその一族の出身であり、毛利(もうり)氏や徳川(とくがわ)氏は国人出身です。
商人から武士に転身し、主家を滅ぼした斎藤道三(さいとうどうさん)や、室町幕府の一役人から成り上がった北条早雲(ほうじょうそううん)は、下克上の典型として知られています。
一方で、今川(いまがわ)氏や武田(たけだ)氏など、守護大名から戦国大名に転身する家もありました。今川氏は義元(よしもと)の代に、武田氏は信玄(しんげん)の代に最盛期を迎えています。
守護代や国人とは
守護代とは、守護の仕事を代行する役人のことです。室町時代半ば以降、守護大名の一部は幕政に参加するため、幕府のある京都に住む必要がありました。そこで一族や国人を守護代に任じて、領国での仕事を託します。
国人は、鎌倉時代に「地頭(じとう)」として派遣された武士などが土着したもので、地元の有力者と考えてよいでしょう。
応仁の乱で幕府の権威が低下すると同時に、任国に不在だった守護大名の影響力も弱まります。そして留守の間に力をつけた守護代らに、国を乗っ取られてしまったのです。
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有名な守護大名をチェック
守護大名の中には、歴史に名を残した一族もいくつか存在します。主な守護大名3氏を、特に有名な人物とともに紹介します。
三管領の一つ「細川氏」
細川(ほそかわ)氏は室町幕府の「管領(かんれい)」を務めた、有力な守護大名です。管領は政務の最高責任者として、将軍を補佐するために設置された役職です。
室町時代中期以降は、細川氏・畠山(はたけやま)氏・斯波(しば)氏が交代で任命されるようになり、この三家は「三管領」と呼ばれました。
1442(嘉吉2)年に当主となった細川勝元(かつもと)は、応仁の乱の東軍大将としても知られています。乱の後、本家は衰退しましたが、一族の細川藤孝(ふじたか)が戦国大名として活躍し、その子孫は熊本藩主となって明治維新まで続きました。
戦国大名に転身した「今川氏」
今川氏は、足利(あしかが)氏に連なる名門の一つで、駿河(するが、現在の静岡県東部)や遠江(とおとうみ、現在の静岡県西部)の守護を務めた家柄です。
9代目・今川氏親(うじちか)が、当時、遠江の守護だった斯波氏を倒し、戦国大名に転身しました。氏親の跡を継いだ義元は、三河(みかわ、現在の愛知県東部)まで勢力を拡大し、東海一の大名と呼ばれます。
しかし義元は、1560(永禄3)年、隣国の尾張(おわり、現在の愛知県西部)に侵攻した折に、「桶狭間(おけはざま)の戦い」で織田信長(のぶなが)に討たれてしまいます。
その後、今川氏は急速に衰え、義元の息子・氏真(うじざね)の代ですべての領地を失いました。ただし氏真自身は、徳川家康に保護されて生き残り、子孫は代々江戸幕府に仕えています。
応仁の乱で有名な「山名氏」
山名(やまな)氏は、室町幕府で「侍所頭人(さむらいどころとうにん)」を務めた家の一つです。侍所頭人は、管領に次ぐ重職で、山名氏を含む四家が交代で任命されました。
応仁の乱では、山名持豊(もちとよ)が西軍の大将となって細川勝元と戦っています。そのとき、持豊が陣を置いた場所が「西陣(にしじん)」と呼ばれ、京都の有名な織物「西陣織」の名前の由来となりました。
また現在「天空の城」と呼ばれ、観光名所となっている「竹田城(たけだじょう)」は、持豊が家臣に命じて築かせたものです。応仁の乱以降、急速に衰えた山名氏ですが、子孫が徳川家康に仕えており、旗本として存続しました。
室町時代に活躍した守護大名
守護大名の前身は、室町幕府が地方を治めるために任命した守護と呼ばれる役人です。幕府から大きな権限を与えられた守護は、やがて大名となり、幕府を動かす存在へと成長しました。
しかし、応仁の乱を経て多くの守護大名は没落し、代わりに戦国大名が活躍する時代を迎えます。室町時代に力をつけ活躍した守護大名は、幕府衰退とともに勢力を失うという、まさに室町時代を象徴する勢力といえます。
親子で守護大名への理解を深め、続く戦国時代や江戸時代の学習へとつなげていきましょう。
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構成・文/HugKum編集部