「国人」ってどんな人? その成り立ちから有名人までをチェック【親子で歴史を学ぶ】

「国人」は、中世の日本において武士と深いかかわりを持つ存在です。彼らがどのように活躍したのかを知っていると、当時の日本で起きた出来事を深く理解できます。国人が誕生したきっかけや役割などを知り、歴史の学習などに役立てましょう。

国人(こくじん)はどのようにして誕生した?

「国人」は中世の日本で、大きな影響力を持っていました。国人とは何かを知るために、誕生の経緯や当時の背景を見ていきましょう。

荘園制の始まり・武士が生まれる

荘園制は、743(天平15)年に発布された「墾田永年私財法」によって、財を築こうとした貴族や寺社などが、農民たちに金を渡して新しい土地を開墾させたことが始まりです。

墾田永年私財法では、一度私有が認められた土地は永久に持ち主のものと認められます。農地として耕した地域や、耕作に従事する農民たちが住む場所を荘園と呼び、8世紀後半ごろから荘園制として広まっていったのです。

多くの有力者が荘園を広げたいと考えたので境界争いが起きたり、重い税を徴収しようとする役人と揉めたりすることが少なくありませんでした。そのため自分たちの居場所を守ろうと、武装する農民たちが現れ始めます。これが武士が誕生するきっかけだとされています。

荘園の持ち主である有力者と「主従関係」を結んで、専属の武士となる者も現れます。平氏や源氏などの有名な武士団も、そのころに誕生しました。

大分県国東半島の南部の盆地に広がる「田染荘」は、古代から開発された田地で、平安時代には宇佐神宮の荘園として、現在に至る景観が誕生した。
大分県国東半島の南部の盆地に広がる「田染荘」は、古代から開発された田地で、平安時代には宇佐神宮の荘園として、現在に至る景観が誕生した。代表的な荘園のひとつ。

全国に置かれた「守護」「地頭」

守護と地頭は、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際に設置した役職です。「壇ノ浦の戦い」で滅ぼした平家が所有していた荘園や土地に、頼朝と主従関係を結んでいた武士を派遣したのが始まりとされます。

また、当時頼朝と仲違いして逃げていた弟の義経を捕まえるために、設置したともいわれています。

地頭は荘園や公領の治安を守り支配するために置かれ、守護は地頭たちを国ごとに管理しました。守護が軍隊や警察のような役割を持ち、地頭は荘園ごとに税の徴収や管理を行う役割を担っていたのです。

徐々に地方の実質的な領主「国人」に

自分の住む場所を離れて任務にあたっていた地頭、荘園の管理をしていた荘官などが、徐々に在地に土着し力を持ち始めます。彼らは土地の人々を支配体系に組み込み、実質的な土地の支配者となるか守護に従属するなどして、「国人領主」と呼ばれるようになります。

武士であった彼らは大きな武力を持っていたので、荘園領主と対立したり外部から入ってこようとする守護を退けたりするために、行動を起こすこともありました。戦国時代になると「下克上」を起こし、戦国大名になる国人たちも現れます。

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国人一揆について

国人とあわせて覚えておきたいのが、国人一揆の存在です。国人一揆とは、どのようなものなのか見ていきましょう。

国人・農民による同盟を指す

14~16世紀ごろに、日本各地で国人一揆が起こりました。国人一揆は、国人と農民の間で同盟を組んで共通の目的を達成するために行われたもので、目的は荘園領主や外部勢力への抵抗、農民の支配を徹底するものなどさまざまです。

必ずしも武力による衝突が起きていたわけではなく、基本的には平和的に話を進めていたとされます。所領争いや農民の逃亡が起きた際に、領主同士が実力で解決しようとするのを防ぎ、平和的に解決しようとして結成されることが少なくありませんでした。また、契約の際は神仏に誓約する形式だったことも分かっています。

国人一揆は、後にいわれるように武力によるものばかりではなかった。
国人一揆は、後にいわれるように武力によるものばかりではなかった。

山城の一揆が有名

国人一揆の中でも、1485(文明17)年に起こった「山城の一揆」は有名です。山城国は現在の京都府にあった地域のことで、「応仁の乱」で戦火に巻き込まれました。

応仁の乱の後も守護であった畠山氏が一族間での争いをやめず、荒廃する一方だった故郷を守るために一揆が起こります。国人が中心となって畠山氏を追放し、守護が不在となった地で自治を行いました。

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国人出身の主な武将

国人はその地域で大きな力を持ち、戦国時代には武将として活躍した者も少なくありません。代表的な国人出身の武将を見ていきましょう。

「毛利氏」毛利元就

毛利元就は、現在の広島県西部にあたる安芸国の国人の家系出身です。戦国武将として、中国地方を統一するまでになった人物として知られています。

27歳で郡山城主になり、安芸国の国人と協力しながら尼子氏や大内氏を退け、領土や領民を守りながら勢力を拡大していきました。数多くの戦乱をくぐり抜け、一代で大国を築き上げます。

周辺地域の国人と共同で利益を守り、治安の維持にあたりました。国人が力を合わせれば、何事も成し遂げられるという意味である「百万一心」を唱え、人柱の代わりに石に刻んで埋めたという逸話が残されています。自身の息子たちに、協力して物事を成し遂げることの大切さを説いた「三矢の訓(おしえ)」も有名です。

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「浅井氏」浅井長政

浅井(あざい)長政は、戦国時代に織田信長と組んで浅井氏の最盛期を築き上げた人物です。浅井氏は現在の滋賀県にあたる近江国の豪族の出身で、当時の守護だった京極氏に取って代わる形で台頭します。

京極氏の被官だった浅見氏と国人一揆を結んで、戦国大名化しました。長政は信長の妹であるお市を妻に迎えて、勢力を増していきます。

しかし、1570(元亀元)年に朝倉氏と手を結んで信長に背き「姉川の戦い」で敗れます。1573(天正元)年に長政は自刃し、浅井氏は滅亡しました。

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歴史の流れを通して国人について理解しよう

国人の誕生は、荘園制から武士が発展し、鎌倉時代に源頼朝が各地に守護・地頭を置いたことがきっかけです。

その地域で強い影響力を持つようになった地頭や荘官が、国人領主となって土地の人々を支配し、大きな勢力に発展していきました。その地域に問題が起きた際は、農民と同盟を組んで治安を守ってきた点もポイントです。

有名な戦国武将の中には、毛利元就や浅井長政などの国人出身の家系もいます。後の世に大きな影響を与える存在だった国人について、この機会に理解を深めておきましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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