国司・郡司とは?
「国司(こくし)」や「郡司(ぐんじ)」とは、昔の日本に存在した役人を指す言葉です。国司・郡司が誕生した経緯や、制度の概要を見ていきましょう。
地方を治めた役人のこと
国司や郡司は、701(大宝元)年に制定された「大宝律令」により、朝廷が地方諸国に置いた役人です。645(大化元)年の「大化の改新」以降、全国を一律で支配する中央集権体制を実現するために、朝廷はさまざまな改革を行いました。国司や郡司の制度もその一つです。
朝廷は、まず全国を約60の国に分け、国を数個の郡に、さらに郡を2~20ほどの里(さと)に区分しました。里は住民50戸で一つの単位としています。
国には国司、郡には郡司、里には里長(りちょう・さとおさ)を置き、それぞれ治めさせたのです。この制度を「国郡里制(こくぐんりせい)」といいます。
国司と郡司の違い
国司と郡司は、似ていますが、実はさまざまな面で大きな違いがありました。それぞれの特徴を簡単に解説します。
都から派遣された国司
国司に任命されたのは、都にいた貴族です。身分が高い順に守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官(しとうかん)で構成され、「国衙(こくが)」と呼ばれる役所を拠点に、行政や財政・司法・軍事全般を担当しました。
国司の下には「史生(ししょう)」と呼ばれる下級役人が付いて、文書作成などの業務にあたったのです。なお大宝律令では、国を「大・上・中・下」の4等級に区分して、等級に応じて国司や史生の定員を定めていました。また国司の任期は、当初6年でしたが、後に4年に変更されています。
現地の豪族が担った郡司
郡司は、国司の下で郡の行政や税の取り立て、簡単な裁判などを担当する役人です。執務拠点は「郡衙(ぐんが)」や「郡家(ぐうけ)」と呼ばれています。
大領(だいりょう)・少領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官で構成され、郡の等級によって人数が定められていました。
郡司には、大化の改新以前から存在した地方豪族・国造(くにのみやつこ)の子孫などが優先的に任命されています。国司と違って任期はなく、世襲(せしゅう)も認められていたのが大きな特徴です。
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国司と郡司は、いつまで続いた?
中央の政権が変われば、地方の支配体制も変化します。国司や郡司がいつまで続いたのか、歴史上のできごとに合わせて見ていきましょう。
10世紀以降、関係が変化
平安時代の中頃になると律令制が崩れはじめ、国司と郡司の役割にも変化が訪れます。10世紀の初め頃には、守や介といった上位の国司に権限を集中させる制度に変わり、下級役人の権限は縮小されました。
このとき、国司には税率を自由に決める権利が与えられ、領民に重税を課して私腹(しふく)を肥やす人々が現れます。実入りの多い国司は、貴族にとって人気の役職となり、成功(じょうごう)や重任(ちょうにん)が盛んに行われるようになりました。
成功は国司の地位を買う行為を、重任は国司に再任する行為を指します。貴族らは当時、朝廷で大きな勢力を誇った藤原(ふじわら)氏に金銭などを贈り、国司に任命してもらったり続けさせてもらったりしたのです。
一方、役割が縮小された郡司は、自分たちの土地を守るために、農民らとともに横暴な国司に立ち向かうこともありました。
守護・地頭の出現で弱体化
同じ頃、自身は任地に行かず、代理人を送るだけの「遥任(ようにん)国司」が登場します。これに対して現地で執務をする国司を「受領(ずりょう)」といいます。
代理人も受領も、基本的に行政の実務は、ほぼ「在庁官人(ざいちょうかんにん)」と呼ばれる地元の有力豪族に任せきりで、国衙は「留守所」と呼ばれるほどでした。
そのため、在庁官人は自ら農地を開墾(かいこん)したり、武力で他国の土地を奪ったりして力を付けていきます。強大な武力を備える豪族も多く、都から遠い関東には大きな武士団がいくつか形成されるほどでした。
やがて源頼朝が関東武士団の棟梁(とうりょう)となり、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開きます。頼朝は御家人(ごけにん)となった豪族たちを「守護(しゅご)」「地頭(じとう)」として諸国に配置し、全国支配に乗り出します。
1221(承久3)年の「承久(じょうきゅう)の乱」で朝廷が幕府に敗れて以降は、各地で守護・地頭の権力が強まり、貴族出身の国司は弱体化していきました。
国司の名称は、江戸時代まで残った
室町時代に入ると、国司はすっかり名前だけの存在となります。もともと身分の高い貴族が就く役職だったため、武家が栄誉を表す目的で使っていたのです。
戦国時代には「守」や「介」を勝手に名乗ったり、家臣に与えたりする大名も現れます。実際に織田信長は若い頃に「上総介(かずさのすけ)」と名乗っており、家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)には「筑前守(ちくぜんのかみ)」を与えています。
江戸時代には、幕府が武士に官位を与える権利を獲得し、将軍が朝廷に願い出る形で大名に守や介を名乗らせます。忠臣蔵に登場する吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)や、知恵伊豆(ちえいず)と呼ばれた老中・松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)などは、知っている人も多いでしょう。この慣習は、明治維新で江戸幕府がなくなるまで続きます。
国司や郡司の豆知識
国司や郡司は単なる役職名なので、言葉だけを聞いても、あまりイメージが湧かないかもしれません。国司になったことのある有名人など、国司・郡司を身近に感じられる豆知識を紹介します。
国司に就任した歴史上の有名人
国司となった貴族の中で、特に知られている人物が「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」の作者・山上憶良(やまのうえのおくら)です。
憶良は、702(大宝2)年に遣唐使(けんとうし)に選ばれるほど優秀な人物でしたが、あまり出世できず、57歳でようやく伯耆(ほうき、現在の鳥取県西部)守に任じられました。後に筑前守となって九州に赴任したときに、多くの歌を詠んだと伝わります。
また鎌倉幕府の初代執権(しっけん)・北条時政(ほうじょうときまさ)は、御家人として初めて国司に任命された人物です。源頼朝の死後、執権の座に就いた時政は、北条家の家格(かかく)を上げるために、頼朝の妻で自分の娘の政子(まさこ)を通して、朝廷に国司叙任を願い出ました。
努力の甲斐あって、1200(正治2)年には遠江守(とおとうみのかみ)に任じられています。
郡司一族の女性は、後宮の女官に
古代の日本には、地方の豪族が朝廷への忠誠の証(あかし)に、一族の女性を「采女(うねめ)」として差し出す習わしがありました。采女とは、主に天皇の食事や身の回りの世話をする女官のことです。
大宝律令では、采女を郡司の一族から出すことが定められ、少領以上の郡司の姉妹や子女のうち、容姿端麗な女性が後宮(こうきゅう)に送られました。
采女は下級女官でしたが、天皇に直接仕える立場でもあり、寵愛(ちょうあい)を得て、権力を手にするチャンスも多かったようです。朝廷に出入りする有力貴族とのかかわりも深く、郡司は采女を通じて自らの勢力を保とうとしたといわれています。
地方行政を担った国司と郡司
国司や郡司は、奈良時代から平安時代にかけて、地方行政を担った役人です。やがて郡司は権限を失い、大きな権力を持った国司も、守護・地頭に取って代わられます。
中央の事情に翻弄(ほんろう)される地方役人の立場が分かると、歴史がもっと身近に感じられ、勉強が面白くなるかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部