「守護」「地頭」とは? 設置目的や歴史の中で果たした役割を知ろう【親子で歴史を学ぶ】

守護と地頭は、鎌倉幕府誕生にかかわる重要ワードです。彼らが設置された理由や時代背景を知れば、子どもが日本史をより面白く感じるきっかけになるかもしれません。守護と地頭の違いやそれぞれの役割について、分かりやすく解説します。

守護や地頭とは、何のこと?

「守護(しゅご)」や「地頭(じとう)」とは、何を表す言葉なのでしょうか。歴史上、重要とされる理由もあわせて紹介します。

鎌倉幕府が任命した地方役人

守護と地頭は、1185(元暦2)年に、源頼朝(みなもとのよりとも)が地方に設置した役職を指します。任命されたのは、頼朝と主従関係を結ぶ武士(御家人=ごけにん)たちです。

守護や地頭が置かれる前、地方は朝廷が派遣した国司(こくし)や荘園(しょうえん)領主の支配下にありました。地方役人の人事権を掌握した時点で、頼朝は朝廷に代わり、日本の支配者となったも同然です。

このため現在は、「鎌倉幕府」の成立年を、頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した1192(建久3)年ではなく、守護・地頭を設置した1185年とする説が主流になっています。

陣馬(じんば)の滝(静岡県富士宮市)。1193(建久4)年の5~6月、頼朝は多くの御家人を集めて駿河(するが)国藍沢(あいざわ、現在の御殿場市・裾野市)で壮大な「巻狩(まきがり)」を行った。その際、この滝の近くに一夜の陣を敷いたことから名づけられた。
陣馬(じんば)の滝(静岡県富士宮市)。1193(建久4)年の5~6月、頼朝は多くの御家人を集めて駿河(するが)国藍沢(あいざわ、現在の御殿場市・裾野市)で壮大な「巻狩(まきがり)」を行った。その際、この滝の近くに一夜の陣を敷いたことから名づけられた。

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守護と地頭の違い

守護と地頭はほとんどの場合、セットで登場するため、立場や役割の違いが分からない人も多いかもしれません。それぞれの特徴を詳しく見ていきましょう。

国ごとに置かれた守護

守護は、各国に一人ずつ置かれた地方行政官です。源頼朝は、関東の有力な御家人を守護に任命して、その国の地頭の監督や、軍事・警察の仕事にあたらせました。

守護の職務権限には大番催促(おおばんさいそく)・謀反人(むほんにん)逮捕・殺害人逮捕の3つがあり、「大犯三箇条(たいぼんさんかじょう)」と呼ばれています。

大番催促とは、その国の御家人を、京や鎌倉を警備する「大番役」に任命する権限です。大番役は地方御家人の義務とされていましたが、遠くまで行かなければならないため、嫌がる御家人もいたようです。

地頭は、主に徴税を担当

地頭は、公領や荘園のように、細かい地域ごとに置かれた役人です。土地の管理・年貢の徴収・担当エリアの治安維持などが主な役割でした。

罪を犯した領民を捕らえたり、領民同士のトラブルを裁いたりする権限も持っており、その地域における最高権力者のような立場だったと考えられています。

地域限定とはいえ、大きな権力を手にした地頭の中には、領民に厳しくあたる人も多かったようです。そのため、強い者の前では道理を説いても無駄という意味のことわざ、「泣く子と地頭には勝てぬ」の由来にもなっています。

守護と地頭設置までの流れ

守護や地頭の設置は、どのように進められたのでしょうか。源頼朝が任命権を得るに至った経緯と、全国に定着するまでの流れをチェックしましょう。

源頼朝が、朝廷に設置と任命権を認めさせる

頼朝が平家(へいけ)を滅ぼして武家の頂点に立つと、朝廷の権力者・後白河法皇(ごしらかわほうおう)は頼朝を恐れるようになります。法皇は、頼朝の弟で平家との戦いで活躍した源義経(よしつね)を味方に取り込み、頼朝を討つように命じました。

しかし義経は討伐に失敗し、そのまま行方をくらまします。怒った頼朝は、逆に法皇に対して、義経の討伐令を出すように迫りました。

このとき頼朝は、義経探索や討伐戦での兵糧確保を口実に、全国への守護・地頭の設置を認めさせます。もともと全国支配の野望を抱いていた頼朝は、法皇と義経の行動をうまく利用して、守護・地頭制度を実現させたのです。

承久の乱以降、本格的な体制に

頼朝の時代、西日本には朝廷や古い寺社の「勢力」が強く残っており、守護を廃止する国や地頭の立ち入りを拒む荘園がたくさんありました。

しかし、1221(承久3)年に起きた「承久(じょうきゅう)の乱」で、状況が変わります。乱に勝利した幕府は、後鳥羽(ごとば)上皇ら朝廷の中心人物を流罪に処し、京都に「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を置いて西日本の統治に乗り出します。

六波羅蜜寺(京都市東山区)。空也(くうや)上人が造立した十一面観音立像(国宝)を本尊とする道場が由来で、当初西光寺といった。空也の死後、977(貞元2)年に六波羅蜜寺と改称。1183(寿永2)年に平家が都落ちした後、この地に「六波羅探題」が置かれた。
六波羅蜜寺(京都市東山区)。空也(くうや)上人が造立した十一面観音立像(国宝)を本尊とする道場が由来で、当初西光寺といった。空也の死後、977(貞元2)年に六波羅蜜寺と改称。1183(寿永2)年に平家が都落ちした後、この地に「六波羅探題」が置かれた。

また乱の制圧に手柄のあった御家人は、朝廷から奪った土地を与えられ、地頭になりました。なお承久の乱以降、新しく誕生した地頭を「新補(しんぽ)地頭」といいます。

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守護と地頭の、その後

鎌倉幕府誕生とともに始まった守護・地頭の制度は、その後どうなったのでしょうか。室町時代以降の変化を見ていきましょう。

大名や藩主になった守護

室町時代は足利(あしかが)将軍家の権力がそれほど強くなかったこともあり、地方を支配する守護の力が強まっていきます。地頭や地元の有力武士を家臣として取り込み、大きな経済力や武力を持つ「守護大名(しゅごだいみょう)」が各地に出現しました。

守護大名らは結束して、さらに勢力を強め、政治にも関与するようになります。また1467(応仁元)年に「応仁(おうにん)の乱」が始まると、守護大名の多くは「戦国大名」となって活躍しました。

島津(しまづ)氏・毛利(もうり)氏・伊達(だて)氏などの有名な戦国大名は、鎌倉時代に守護や地頭に任じられた御家人が祖先です。三家とも、江戸時代には藩主となり、明治時代まで続きました。

伊達政宗公騎馬像(宮城県仙台市青葉区)。伊達62万石の居城・仙台城跡に立つ。頼朝の奥州合戦に従軍し戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝に伊達郡を与えられ「伊達朝宗(ともむね)」を名乗った。鎌倉時代の伊達氏は、陸奥や常陸のほか9か国で地頭職を得ている。
伊達政宗公騎馬像(宮城県仙台市青葉区)。伊達62万石の居城・仙台城跡に立つ。頼朝の奥州合戦に従軍し戦功を挙げた常陸入道念西が、頼朝に伊達郡を与えられ「伊達朝宗(ともむね)」を名乗った。鎌倉時代の伊達氏は、陸奥や常陸のほか9か国で地頭職を得ている。

地頭の役職は消滅

守護が強大化する一方で、地頭の権力は弱くなります。前述の通り、守護の家臣になる地頭が増え、室町時代中期には役職そのものが消滅しています。戦国時代以降は、地頭や地頭職の名称さえもほとんど使われなくなりました。

ただし、地頭に任じられた一族までがいなくなったわけではありません。毛利氏のように、守護大名の家臣として存続し、下剋上(げこくじょう)を果たした一族もいます。

毛利氏の祖先は、源頼朝に仕えた御家人・大江広元(おおえのひろもと)です。頼朝は広元に相模(さがみ)国毛利庄(もうりのしょう、現在の神奈川県厚木市)を与え、その地を受け継いだ四男の季光(すえみつ)が毛利姓を名乗りました。やがて季光の子孫が、地頭として広島(ひろしま)に移住したのが、毛利家の始まりです。

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守護と地頭の役割や違いを押さえよう

守護と地頭は、鎌倉幕府が各地に派遣した役人です。源頼朝が朝廷と交渉して認めさせ、承久の乱を経て全国に定着しました。

日本初の武家政権を確立する過程で、守護や地頭は、大変重要な役割を果たしたといえます。守護と地頭の役割や違いを押さえ、日本史への理解を深めていきましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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