毛利元就とは?
「毛利元就(もうりもとなり)」とは、何をした人なのでしょうか。まずは、元就の業績について、簡単に紹介します。
中国地方を統一した武将
元就は、安芸国(あきのくに、現在の広島県西部)の弱小豪族の家に生まれ、一代で中国地方を統一した戦国武将です。大内(おおうち)氏や尼子(あまご)氏といった大勢力を相手に、優れた戦略でのし上がった「稀代(きだい)の策略家」として知られています。
その一方で、元就は家臣や領民から絶大な信頼を寄せられるほどの「カリスマ性」も持ち合わせていました。肉親同士で争い合うのが当たり前の戦国時代にあって、元就は一族の結束を大変重視したといわれており、その人柄を表す有名なエピソードも残っています。
毛利元就の生涯
毛利元就は、幼い頃に両親と死に別れ、苦労の多い少年時代を過ごします。中国地方統一を達成するまでには、多くの困難が立ちはだかりました。
元就の波乱万丈な生涯を見ていきましょう。
毛利弘元の次男として誕生
元就は、1497(明応6)年に、毛利家の当主・毛利弘元(ひろもと)の次男として誕生します。
弘元は、元就が幼い頃に、嫡男(ちゃくなん)の興元(おきもと)へ家督を譲って隠居の身でした。元就は、弘元の隠居先の城で育てられますが、4歳のときに実母が、10歳のときには父・弘元が亡くなります。
さらに所領を家臣に横取りされ、城からも追い出されてしまいました。孤児となった元就に救いの手を差し伸べたのが、弘元の後妻・杉大方(すぎのおおかた)です。杉大方は、弘元が亡くなっても実家に戻らず、元就の養育者となることを決めたのです。
後年、元就は息子に宛てた手紙に、まだ若かった杉大方が、再婚もせずに自分を育ててくれたことへの感謝の気持ちを記しています。
毛利家の家督を継ぐことに
元就が19歳のとき、毛利家の当主である兄・興元が急死します。興元の嫡男・幸松丸(こうしょうまる)がまだ2歳だったために、叔父である元就が後見人を務めることになりました。
翌年、幼児が当主となった毛利家の実情を見て、近隣の豪族・安芸武田氏が攻め込んできます。初陣となったこの戦いで、元就は兵力に勝る安芸武田氏を見事に撃退し、周囲に武名をとどろかせました。
その後も、元就は後見役として毛利家のために働きますが、1523(大永3)年に当主の幸松丸は、わずか9歳で病死してしまいます。そこで、27歳の元就が、毛利家の家督を継ぐことになりました。
吉田郡山城の戦い
当時、安芸国の周辺では九州北部から山陽地方を支配する大内氏と、山陰地方を支配する尼子氏が勢力争いを繰り広げていました。安芸の豪族たちは、生き残りをかけて両者の間を行き来する状況だったのです。
元就は、当初、尼子氏の配下でしたが、後に大内氏に鞍替(くらが)えして安芸国内で勢力を広げます。1540(天文9)年、毛利家の台頭に危機感を覚えた尼子氏は、およそ3万の兵を率いて元就の居城・郡山城(こおりやまじょう)へ攻撃を仕掛けました。
元就は、大内氏が派遣した援軍とともに尼子氏を撃退したほか、尼子氏の配下の安芸武田氏を滅亡させます。この「吉田郡山城の戦い」によって元就の勢いはさらに増し、周辺豪族の盟主のような立場となりました。
さらに元就は、安芸の名族・吉川(きっかわ)氏と水軍(すいぐん)を所有する小早川(こばやかわ)氏に自分の息子を養子に出し、家督を継がせます。特に水軍を手に入れたことで、元就の戦力は格段に向上しました。
中国地方8カ国を制覇
1551(天文20)年、大内氏の当主・大内義隆(よしたか)が、家臣の陶晴賢(すえはるかた)に殺害される事件が発生します。混乱に乗じて、元就は大内氏からの独立を図り、数年後には晴賢を倒して大内氏を滅亡させました。
一方の尼子氏は、大内氏の滅亡後、九州で勢力を増した大友(おおとも)氏と組んで元就に対抗します。しかし、名将とうたわれた当主・尼子晴久(はるひさ)の急死で弱体化したこともあり、1566(永禄9)年にはついに元就に降伏することになりました。
中国地方8カ国を支配する偉業を達成した元就は、1571(元亀2)年6月に、吉田郡山城で75歳の生涯を終えます。当時としては、大変な長寿でした。
毛利元就の逸話
実力で強敵を倒し、中国地方の覇者となった毛利元就は、戦国時代の下剋上(げこくじょう)を象徴する武将といえます。
元就の人物像がよく分かる、有名な逸話を紹介します。
団結する大切さを伝えた「三本の矢」
元就は、一族同士の争いによって、家が滅ぶことを心配していました。
そこで元就は、3人の息子を呼んで矢を1本ずつ渡し、折るように言います。息子たちは簡単に矢を折りますが、次に3本の矢を束にして渡すと、なかなか折れません。
元就は「1本では簡単に折れる矢も、まとまると簡単には折れない」ことを実感させ、兄弟が3本の矢のように、力を合わせて困難に立ち向かうべきと説いたのです(1557)。
本当に、矢を使ったかどうかは不明ですが、元就が息子に宛てて書いた手紙「三子教訓状」からは、常日頃より一族の団結を呼びかけていたことが分かっています。「三本の矢」の逸話は、こうした元就の言動が基になって生まれたと考えられています。
毛利元就の数々の策略
元就の生涯は合戦の連続でした。厳しい戦局を乗り切るために、さまざまな策略を用いたことも知られています。
吉田郡山城の戦いでは、1000足の草鞋(わらじ)に火を点(つ)けて夜の川に流し、大軍が攻めてきたと見せかけて籠城(ろうじょう)する敵を動揺させます。
陶晴賢と戦う前には、相手の戦力を減らすために、晴賢の家臣が謀反(むほん)を企てているという噂を流しました。噂を信じた晴賢は、元就の狙い通りに無実の家臣を殺してしまうのです。
尼子氏がたてこもる月山富田城(がっさんとだじょう)を攻撃したときは、徹底した兵糧攻めの後に「投降する者は助ける」と書いた高札を立て、城の前で炊き出しを始めます。これを見た兵士たちはこぞって投降し、尼子氏の降伏につながりました(1566)。
戦国時代の豪傑、毛利元就
弱小豪族の次男として生まれた毛利元就は、跡継ぎになれる見込みがないばかりか、両親亡きあとは家臣に追い出されるほど、みじめな少年時代を過ごします。
晴れて毛利家の当主となった後は、敵を倒すために冷酷とも思える策略を駆使する一方で、一族の団結を強く願い、家族や家臣に慕われたと伝わっています。
支配される側からする側に転じた元就は、どちらの心情もよく分かる人物だったのでしょう。三本の矢や草鞋作戦など、元就のエピソードを通じて戦国の世に思いを馳せると、新たな気付きが得られるかもしれません。
もっと知りたい人のための参考図書
ポプラ社 コミック版 日本の歴史24「戦国人物伝 毛利元就」
小学館版 学習まんが 少年少女日本の歴史10「戦国大名の争い」
講談社 火の鳥伝記文庫98「毛利元就―西国の武将英雄」
日本放送出版協会 内館牧子「毛利元就」(上・下)
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構成・文/HugKum編集部