最強の武将といわれた上杉謙信。生涯や人物像について詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】

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上杉謙信は、戦国時代を代表する武将の1人です。武田信玄とのライバル関係や生涯独身を通したことなど、興味深いエピソードが多く伝わっています。上杉謙信の生き方や戦いぶり、人物像を通して戦国の世を覗いてみましょう。

上杉謙信とは?

「上杉謙信(うえすぎけんしん)」の名前を知っていても、出身地や本名までは知らない人もいるかもしれません。まずは、謙信の基本情報を簡単に解説します。

多くの合戦を繰り広げた戦国武将

謙信は、越後(現在の新潟県)を治めていた「山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)」の16代当主です。大変、戦(いくさ)に強く、内乱の絶えなかった越後をまとめて繁栄に導きました。

戦上手だった謙信は、生涯を通して、ほとんど負けたことがなく、「越後の龍」「軍神(いくさがみ)」などと称賛されています。武田信玄や織田信長も、謙信との戦いに手を焼いたほどでした。

一方で、義を重んじ、敵といえども、困っている人には手を差し伸べる性格だったことも伝わっています。

上杉謙信の名前の変遷

戦国武将は、名前が何度も変わるのが普通でした。

誕生から元服(成人)までは「幼名」が使われ、元服すると「諱(いみな)」と呼ばれる本名が与えられます。功績を上げると、主君の名前から一字をもらって、諱が変わることもありました。

謙信も以下のように、名前が変わっています。

・幼名を「虎千代(とらちよ)」と命名される
・元服して「景虎(かげとら)」を与えられる
・関東管領(かんとうかんれい)上杉家を継ぎ「政虎(まさとら)」となる
・将軍足利義輝から「輝」の字を与えられ「輝虎(てるとら)」となる
・出家して法名「謙信」を名乗る

なお、上杉の名字は、関東管領職を継いだときに変えたもので、元々の名字は「長尾(ながお)」です。「長尾景虎」「上杉正虎」「上杉輝虎」「上杉謙信」は、すべて同じ人物なので注意しましょう。

上杉謙信の生涯

戦国の世に生まれた上杉謙信は、どのような人生を送ったのでしょうか。出生から最期を迎えるまでの生涯を見ていきましょう。

1530年に越後国で誕生

謙信は1530(享禄3)年に、越後の「春日山城(かすがやまじょう)」で、守護代「長尾為景(ためかげ)」の四男として生まれます。為景は、上司にあたる守護や関東管領を倒して、越後の国を支配していました。

上杉謙信の銅像(新潟県上越市)。春日山城は国の指定史跡で、日本百名城の一つ。全国の山城の中でも、トップクラスの広さを誇っている。この春日山城に立つ謙信公の銅像は、1969(昭和44)年のNHK大河ドラマ「天と地と」放映にあたって制作された。

 

しかし、そんな為景の地位を狙う豪族も多く、為景の治世中も内乱が続きます。謙信が6歳の頃、為景は病を患い、謙信の兄・晴景に家督を譲って隠居してしまいます。

謙信は、城下にあった「林泉寺(りんせんじ)」に預けられ、元服するまで武道や学問をして過ごしました。

初陣は栃尾城の戦い

1543(天文12)年、13歳になった謙信は晴景の任命により、元服して「栃尾(とちお)城」に入ります。晴景の代になっても、越後では内紛が絶えず、謙信が栃尾城主になった当時は、国が二つに分かれてしまうほどの大きな内紛が起こっていました。

さらに、周辺の豪族たちが若くして栃尾城主となった謙信を侮り、謀反(むほん)を起こします。攻め込まれた謙信は、少ない城兵を巧みに動かし、撃退に成功しました。

見事な初陣を飾った謙信は、その後も謀反を起こす豪族を次々に倒します。19歳のときには、病弱だった晴景から家督を譲られ、長尾家の当主となりました。

多くの合戦で勝利

その後も、謙信は越後の安定を目指して戦いを重ね、22歳の頃には統一を果たしています。謙信の強さは、他国へも広く伝わり、彼を頼って逃げてくる武将がいたほどでした。

実際に謙信は、北条氏に追われた関東管領・上杉憲政(のりまさ)や、武田信玄に領地を奪われた信濃(現在の長野県)の豪族を保護して、北条・武田とも何度も戦っています。

謙信は、生涯に70回以上出陣して、負けたのはたったの2回といわれるほど戦に強く、なかには謙信が出てくると聞いただけで逃げ出す敵もいました。

天下統一を目前にしていた織田信長でさえ、謙信を敵にまわさないように大変気を遣っていたそうです。

上杉謙信の最期

謙信は1578(天正6)年、生まれたときと同じ春日山城内で突然倒れ、そのまま49年の人生を終えます。死因は脳溢血などの病気ではないかと考えられています。

この頃、織田信長は室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)を追放し、天下統一への仕上げに取りかかっていました。義昭から信長討伐と幕府再興を頼まれた謙信は、越中(現在の石川県)に進出してきた信長軍を「手取川(てどりがわ)の戦い」(1577)で撃退し、いったん春日山城に戻ります。

「手取川の戦い」石碑(石川県白山市)。手取川河川敷の近くの「呉竹文庫」駐車場にあり、手取川の戦いを皮肉って、当時、広まった落首(らくしゅ)が彫ってある。「上杉に逢ふては 織田も名取川(手取川) はねる謙信 逃ぐるとぶ長(信長)」。手取川の戦いで大敗を喫した信長は、謙信とは二度と戦わないと心に誓ったという。

 

謙信の死は、上洛前に関東地方を固めておこうと考え、遠征の準備をしている最中の出来事でした。謙信には実子がなく、跡継ぎも決めていなかったために、養子だった景勝(かげかつ)と景虎との間で後継者争いが起こります。

「御館の乱(おたてのらん)」と呼ばれるこの争いに勝利した景勝は、後に豊臣秀吉政権の元で「五大老」となりました。

12年も続いた川中島の戦い

上杉謙信といえば、すぐにライバル・武田信玄との「川中島(かわなかじま)の戦い」を連想する人は多いでしょう。戦いに至った経緯や結末を解説します。

因縁の相手である武田信玄

武田信玄は謙信と同じくらい、戦上手と恐れられた武将です。謙信が越後を統一し、領国経営に励んでいた頃、信玄も甲斐(かい、現在の山梨県)の当主として実力を付け、越後の隣の信濃に侵攻を開始します。

信玄に対抗する力を持たない信濃の豪族たちは、強いと評判の謙信に助けを求めます。信玄が信濃をやすやすと手に入れてしまえば、越後にとっても脅威です。

こうして謙信は、越後に近い北信濃の支配をめぐり、信玄とにらみ合うことになります。

1553年に川中島の戦いが始まる

川中島の戦いは1553(天文22)年に始まり、1564(永禄7)年までの12年間続きます。ただし12年の間、ずっと戦っていたわけではありません。北信濃の川中島を戦場に行われた計5回の合戦を総称して「川中島の戦い」と呼んでいるのです。

特に有名なのが、1561(永禄4)年に起こった4回目の戦いです。大変な激戦で、謙信と信玄が一騎打ちしたとの伝説も残されています。ただし他の合戦では、それほど激しい戦闘にはならなかったようです。

最後の戦いでは戦闘すらせずに、対峙しただけで終わりました。

川中島の戦いの決着

川中島の戦いでは、どちらも相手に決定的なダメージを与えられず、勝敗がはっきりしていません。最も激しかった4回目の戦いでは、どちらも自分が勝ったといっています。

このとき、信玄は川中島一帯を制圧して、一度甲斐へ戻ります。一方の謙信は、信玄を北信濃から追い出したことに満足して、越後へ引き上げました。

信玄は、領土拡大の野心から信濃に侵攻していましたが、謙信は自分を頼ってきた信濃の豪族に報いるため、そして越後を守るために戦っていました。

このため、どちらも自分の目的を果たしたことに変わりはなく、それぞれが勝利を主張したのです。しかし激戦によって、両軍とも大きなダメージを被り、最後の戦いでも決着がつかないまま戦は終わりました。

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上杉謙信の人柄が分かるエピソード

圧倒的な強さで戦国時代を駆け抜けた上杉謙信には、他の戦国武将とは一味違う、さまざまなエピソードが伝わっています。人柄を表す有名なエピソードや、本人の名言を紹介します。

上杉謙信は敵に塩を送った?

「敵に塩を送る」とは、敵の弱みに付け込むようなことはせずに、逆に救おうとする行為を表す言葉です。これは、塩を買えなくなって困っていた甲斐の武田信玄に、当時敵対していた謙信が塩を送った話から生まれました。

塩は、当時も今も、生活に欠かせないものです。しかし、海のない甲斐では、塩を生産できず、他の国から仕入れるしかありません。

信玄は同盟を結んでいた今川家から塩を買っていましたが、後に敵対したため塩の輸送を止められてしまうのです。

甲斐の領民の窮状を思いやった謙信は、敵である信玄にあえて塩を送ったといわれています。ただし実際に謙信が塩を送らせた記録はなく、塩商人が甲斐に行くことを止めなかっただけともいわれています。

いずれにしても、義に厚かった謙信の人柄を象徴するエピソードといえるでしょう。

仏教を深く信仰していた

謙信は、仏教を深く信仰していたことでも知られています。特に、軍神・毘沙門天(びしゃもんてん)の加護を信じ、自ら「生まれ変わり」と称していました。

謙信が仏教に傾倒したのは、信心深い母親や、幼少期に林泉寺で出会った「天室光育(てんしつこういく)」という僧侶の影響といわれています。

天室光育は、幼い謙信に禅の心や兵学などを教えた人物で、謙信は生涯、彼を師と仰いでいました。幼い頃の謙信は、寺で城の模型をつくったり、戦ごっこをしたりして遊んでいたと伝わっています。

謙信の戦の才能は、天室光育の元で開花したのかもしれません。

林泉寺惣門(そうもん)。林泉寺は、謙信の祖父・長尾能景が父の菩提を弔うために、1497(明応6)年に建立。謙信は、この寺で天室光育の厳しい教えのもと、7~14歳までを過ごしている。「惣門」(市指定文化財)は、春日山城の搦手門(からめてもん)を移築したといわれる。また山門に掲げられている「第一義」の扁額は、謙信の自筆。

実は女性だったという説も

謙信は、生涯「不犯(ふぼん)」の誓いをたてていたとされています。不犯とは僧侶が戒律を守ることで、特に男女の交わりをしないことを表します。

当時は家を存続させるために側室をかかえ、たくさん子をつくるのが当たり前でした。このため、謙信の生き方は後年さまざまな憶測を生み、本当は女性だったのではないか、という説まで登場しています。

もちろん女性説に明確な根拠はありませんし、本当に不犯を貫いたかどうかも分かりません。実は謙信は、兄の子が成人したら家督を返上するつもりだったため、あえて自分の子どもをつくらなかったとする説が有力です。

上杉謙信が残した名言

謙信は生前に、武将の心得となるような名言を残しています。

春日山城の壁に書いた「運は天にあり、鎧(よろい)は胸にあり、手柄(てがら)は足にあり」では、運は天が決めるのかもしれないが、自分自身を守ったり、手柄を立てたりするのは自分自身であるといっています。

当時は、何をするにも、占いの結果や縁起が重視されていましたが、謙信は現実主義で、占いに頼ることはなかったそうです。

また、あるときは「人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならぬ」とも語っています。

当時は、主君のちょっとした言動がきっかけで裏切る家臣も多く、謙信も何度も謀反にあっています。しかし、謀反の理由をしっかりと聞き、事情が分かると許して大切に扱いました。

一方で、規律を守らない人に対しては、とても厳しかったようです。家臣への対応一つとっても、いい加減なことをせずに筋を通していた謙信の人柄がよく分かります。

上杉謙信(イメージ)

軍神と呼ばれた上杉謙信

上杉謙信は、ただ強いだけでなく、人のために戦い、ときには敵をも支援する「義」に厚い生き方が印象的です。一般的な戦国大名とは一線を画す存在として、現在も高い人気を誇っています。

軍神と呼ばれた上杉謙信について、子どもにも正しく伝えてあげると歴史への興味がいっそう深まるかもしれません。

もっと知りたい人のための参考図書

ドラえもん人物日本の歴史6「信玄と謙信 川中島でたたかった両雄」

講談社青い鳥文庫「武田信玄と上杉謙信 戦国武将物語」

集英社 学習まんが 日本の伝記 SENGOKU「武田信玄と上杉謙信」

戎光祥出版 クロニクルでたどる“越後の龍”「図説 上杉謙信」

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構成・文/HugKum編集部

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