「南北朝時代」の始まりから終わりまで。政治上の対立や文化の特徴を紹介【親子で歴史を学ぶ】

鎌倉時代と室町時代の中間にあたる、50年ほど続いた時代を南北朝時代といいます。南北朝時代は、文字通り南朝と北朝と呼ばれる二つの朝廷が存在していたのが特徴です。朝廷の対立が始まったきっかけや、南北朝時代ならではの特徴について解説します。

日本の南北朝時代とは、どんな時代?

「南北朝時代(なんぼくちょうじだい)」とは、鎌倉時代と室町時代の間にあたる時代のことです。二つの朝廷が対立していた南北朝時代について、キーパーソンに触れながら解説します。

南朝と北朝に分かれ、対立していた時代のこと

南北朝時代とは、1336(建武3/延元元)年から1392(明徳3/元中9)年にわたって、50年以上続いた内乱の時代を指しています。南北朝時代は、鎌倉時代と室町時代の中間にあたり、広義では室町時代として捉える考え方もあるようです。

南北朝時代は、足利尊氏(あしかがたかうじ)が光明(こうみょう)天皇を擁立(ようりつ)したのが始まりとされています。その後、後醍醐(ごだいご)天皇が吉野(よしの)に「南朝」を開いたため、京都と吉野に二つの朝廷が存在することになったのです。

文字通り、南朝と北朝が同時に存在していたことから、この時代は南北朝時代と呼ばれています。1392年に南朝と北朝が合体を果たしたことで、南北朝時代は終結しました。

足利尊氏が擁立する京都の北朝と、後醍醐天皇が開いた吉野の南朝、ふたつの朝廷が存在することに。
足利尊氏が擁立する京都の北朝と、後醍醐天皇が開いた吉野の南朝、ふたつの朝廷が存在することに。

南北朝時代の重要人物

「元弘(げんこう)の乱」によって鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、1333(元弘3)年から「建武の新政(けんむのしんせい)」と呼ばれる、天皇を中心とした政治を行いました。しかし、後醍醐天皇は家臣であった足利尊氏に謀反(むほん)を起こされてしまうのです。

尊氏は、自らが擁立した光明天皇より、1338(暦応元)年に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられて室町幕府を開きました。しかし、後醍醐天皇は吉野に南朝を開き、南朝こそが正当な朝廷であることを主張しました。後醍醐天皇の家臣では、その後の戦いでも活躍した楠木正成(くすのきまさしげ)が有名です。

楠木正成銅像(東京都千代田区)。皇居二重橋を正面に見据えるこの像は、正成39歳のころの雄姿である。隠岐(おき)から還幸する後醍醐天皇を、兵庫の道筋でお迎えしたときのもの。東京芸術学校の高村光雲が頭部を担当するなど「分解鋳造」で造られた日本初の銅像。
楠木正成銅像(東京都千代田区)。皇居二重橋を正面に見据えるこの像は、正成39歳のころの雄姿である。隠岐(おき)から還幸する後醍醐天皇を、兵庫の道筋でお迎えしたときのもの。東京芸術学校の高村光雲が頭部を担当するなど「分解鋳造」で造られた日本初の銅像。

南北朝時代には、南朝と北朝の間で何度も争いが起こり、正成の息子である楠木正行(まさつら)・正時(まさとき)の兄弟も挙兵しました。尊氏が死去した後、3代将軍である足利義満(よしみつ)が南北朝の合一(ごういつ)を成功させたのです。

南北朝時代の流れ

南北朝時代は、室町幕府の成立とともに始まったといわれています。南北朝時代の始まりと終わりについて、流れを追って見ていきましょう。

南北朝時代の始まり

鎌倉幕府を滅ぼす元弘の乱を起こした後醍醐天皇ですが、建武の新政は、3年ほどで終わってしまいました。その混乱を制した足利尊氏が開いた、武士を中心とした政権が室町幕府です。

尊氏に謀反を起こされた後醍醐天皇は、京都を離れて吉野へと逃れました。後醍醐天皇は京都の朝廷と室町幕府に対抗して、現在の奈良県にある吉野に南朝を開いたのです。

二つの朝廷がどちらも正当性を主張したことで、50年以上にわたって戦いが続きました。もともとの都である京都の朝廷は北朝、吉野は南朝と呼ばれたのが、後に南北朝時代と呼ばれることになった由来です。

金峯山寺(きんぷせんじ)「南朝妙法殿・八角三重塔」(奈良県吉野郡)。南朝の後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇とその忠臣たちを祀る。「吉野朝宮址」の石碑が立つように、この地が後醍醐天皇の行在所だった。
金峯山寺(きんぷせんじ)「南朝妙法殿・八角三重塔」(奈良県吉野郡)。南朝の後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇とその忠臣たちを祀る。「吉野朝宮址」の石碑が立つように、この地が後醍醐天皇の行在所だった。

南北朝時代の終わり

尊氏の死後も南北朝の対立は続いていたものの、南朝の勢力は衰えていました。室町幕府の3代将軍である足利義満は、朝廷が分裂した状態を終わらせようと南朝との交渉を開始したのです。

1392年には、義満の仲介によって「明徳の和約」が結ばれました。ここでは、南朝と北朝が交互に皇位につく「両統迭立(りょうとうてつりつ)」が条件として出されており、対等な立場を強調したのが特徴です。

南朝は「三種の神器」を北朝に譲渡し、南北朝が合一しました。しかし、北朝側は両統迭立を守らなかったため、南朝がその後、皇位につくことはなく、再び北朝が権力をにぎったのです。

南北朝時代の特徴

南北朝時代は、その名の通り、二つの朝廷が同時に存在していたのが最大の特徴です。南北朝時代ならではの文化や、政治について解説します。

二人の天皇が存在

源頼朝(みなもとのよりとも)が開いた鎌倉幕府は、武士を中心とした武家政権でしたが、朝廷で政治を行うのはあくまで天皇の役割でした。二つの朝廷があった南北朝時代には、天皇も二人同時に存在していたことになります。

北朝では足利尊氏が光明天皇を擁立し、南朝では後醍醐天皇自らが朝廷を開きました。後醍醐天皇は、尊氏の持つ三種の神器は偽物だと主張して、南朝の正当性をアピールします。

また、南北朝時代が始まったきっかけには、鎌倉時代から続く皇位争いも関係しています。後醍醐天皇らの皇統である大覚寺統(だいかくじとう)と光明天皇らの持明院統(じみょういんとう)の対立が、南北朝の対立へとつながったのです。

「両統迭立」の始まりは、後醍醐天皇より三代遡る後嵯峨天皇の時代に発する。後嵯峨天皇は、息子の後深草天皇に皇位を譲ったあと、その弟で寵愛していた亀山天皇に皇位を譲らせ、さらにその亀山天皇の息子の後宇多天皇が皇位を継承した。これに不満をもった後深草側(持明院統)と亀山側(大覚寺統)との諍いを幕府が調停し、両統が交互に皇位を継承することとした。
「両統迭立」の始まりは、後醍醐天皇より三代遡る後嵯峨天皇の時代に発する。後嵯峨天皇は、息子の後深草天皇に皇位を譲ったあと、その弟で寵愛していた亀山天皇に皇位を譲らせ、さらにその亀山天皇の息子の後宇多天皇が皇位を継承した。これに不満をもった後深草側(持明院統)と亀山側(大覚寺統)との諍いを幕府が調停し、両統が交互に皇位を継承することとした。上図の丸数字は皇位継承順。

南北朝時代の政治

天皇を中心とした政治の復活を目指した後醍醐天皇は、建武の新政において関白・摂政(せっしょう)制度を廃止しました。しかし、天皇に権力が集中する専制政治への不満が高まり、建武の新政は3年ほどで崩壊したのです。

その後、室町幕府を開いた足利尊氏は、再び武家政権を復興させました。北朝では尊氏の弟である足利直義(ただよし)も重要な役割を任され、将軍である兄を政務面でサポートします。

北朝は南朝を滅ぼそうとしましたが、室町幕府で「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」などの内乱が起こってしまい、南朝にまで手が回らずにいました。南朝はその間に九州で勢力を拡大し、対立状態が長く続くことになったのです。

天龍寺「曹源池(そうげんち)庭園」(京都市右京区)。尊氏が、後醍醐天皇の菩提を弔うため、後嵯峨上皇の亀山殿の跡地に創建(1339)。約700年前に夢窓国師(むそうこくし)が作庭した当時の面影をそのままとどめている。日本初の史跡・特別名勝に指定された。

南北朝時代の文化

二つの朝廷が正当性を争っていた南北朝時代には、「梅松論(ばいしょうろん)」や「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」などの歴史書が多く書かれました。梅松論が北朝を支持する立場で書かれたのに対し、神皇正統記は南朝の正当性を主張しているのがポイントです。

軍記物語の「太平記(たいへいき)」や吉田兼好(よしだけんこう)の「徒然草(つれづれぐさ)」など、後世に残る作品も生まれています。筆者がどちらの朝廷を支持しているかによって、物語の内容にも大きな違いがあったのです。

南北朝時代に流行した風潮として、派手な服装や髪型を好む「婆娑羅(ばさら)」が挙げられます。奇抜なファッションだけでなく、破天荒(はてんこう)な振る舞いをするのが婆娑羅の特徴でした。

二つの朝廷が同時に存在した稀有な時代

南北朝時代は、二つの朝廷が互いに正当性を主張していた、歴史上でも珍しい時代です。京都から吉野へと逃れた後醍醐天皇が室町幕府に対抗したことから、南北朝の対立が始まりました。

室町幕府で内乱が起こっていたこともあり、南朝と北朝が存在する状態は50年以上も続いたのです。3代将軍・足利義満が、明徳の和約をまとめたことで、南北朝の合一が成立しました。

それぞれの朝廷の立場に立った歴史書などの優れた作品が多く書かれたのも、南北朝時代の特徴です。政治的に不安定な時代だったからこそ、婆娑羅などの独特な文化が芽生えたとも考えられます。

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構成・文/HugKum編集部

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