由井正雪の乱って、どんな事件?
「由井正雪(ゆいしょうせつ)の乱」とは、どういった事件だったのでしょうか? 由井正雪の人物像もあわせて解説します。
由井正雪が、江戸幕府転覆を狙った事件
由井正雪の乱とは、1651(慶安4)年に、軍学者の由井正雪が幕府を転覆させようと反乱を企てた事件のことです。慶安年間に発覚したことから、「慶安事件」とも呼ばれています。
由井正雪の乱は、主君を持たない浪人たちを利用した計画でした。江戸だけではなく駿府(すんぷ)・大坂・京都と日本各地で反乱を起こそうという大規模な計画でしたが、未然に防がれてしまいました。
このような反乱が企てられたのは、江戸で増えつつあった浪人たちの幕府への不満が原因でした。事前に情報が幕府に漏れたことから発覚し、正雪は切腹、計画に協力しようとした仲間も処刑されました。
由井正雪の人物像
由井正雪は、駿府(現在の静岡市)で生まれた人物で、軍学者である楠木不伝(くすのきふでん)に弟子入りしました。軍学を学んだ正雪は、後に自らも学者として軍学塾を開いたのです。
正雪は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将である楠木正成(まさしげ)を尊敬していたといわれています。正成は、後醍醐(ごだいご)天皇の部下として、「建武の新政(けんむのしんせい)」を支えた人物です。
後醍醐天皇とともに鎌倉幕府の打倒を実現した正成に憧れていたことも、正雪が江戸幕府への反乱を目論(もくろ)む理由になったと考えられます。正雪が、幕府への仕官を断っていたのが、浪人からの支持を集める理由になったという説もあるようです。
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由井正雪の乱が起きた背景
由井正雪の乱が起こった背景には、幕府への不満を抱いた浪人たちの存在がありました。由井正雪の乱が起こった理由や、時代背景をチェックしましょう。
浪人の増加が社会問題に
江戸時代の武士は、幕府や各地の大名に仕えるのが一般的でした。江戸時代には「改易(かいえき)」という刑罰があり、大名が領地を取り上げられる「取りつぶし」によって影響を受けた武士も数多く存在しました。
こうして江戸時代初期には、仕事を失った武士=浪人が増加したのです。主君のいない浪人たちは、仕事を手に入れようと、こぞって江戸に向かったため、江戸では治安の悪化が社会問題になりました。
領地や地位を失うことを「牢籠(ろうろう)」ということから、浪人はもともと「牢人(ろうにん)」といわれていたようです。しかし、牢という字が牢獄をイメージさせるため、後に浪人と書かれるようになったといいます。
浪人たちの幕府への不満が募る
江戸時代に入り、戦(いくさ)が少なくなったため、主君や仕事を失った浪人が増加しました。経済的に厳しくなった浪人たちは、次第に江戸幕府に対する不満を高めていったのです。
そのような時代の流れのなかで、数多くの塾生を集めていた由井正雪は、多くの浪人に支持されました。1651(慶安4)年に3代将軍・徳川家光(いえみつ)が病死し、4代将軍に就任した家綱(いえつな)がまだ11歳と幼かったことから、幕府転覆の好機ととらえた正雪と浪人たちは反乱の計画を立てたのです。
由井正雪の乱の結果や余波
由井正雪の乱は、事前に発覚したため失敗に終わりました。由井正雪の乱の詳細な結果と、その後の歴史に及ぼした影響について見ていきましょう。
密告により、計画は未遂に終わる
全国各地での反乱を目論んだ正雪ですが、反乱は未遂に終わりました。原因は、正雪の一味である奥村八左衛門が、反乱を実行する前に幕府に計画を密告したためです。
幕府はこの密告を受け、正雪の仲間であった丸橋忠弥(まるばしちゅうや)を捕らえました。駿府に向かっていた正雪は、到着後すぐに奉行所の役人に囲まれ、計画の失敗を悟って自決します。
また、幕府は以前から正雪の動きに注目しており、正雪が開いた塾・張孔堂(ちょうこうどう)には門弟に交じって密偵がいたともいわれています。江戸幕府が正雪と浪人たちのつながりを知っていたのも、計画が未遂に終わった原因の一つです。
由井正雪の乱は、ずさんな計画だった?
結局、失敗に終わった由井正雪の乱は、あまり現実的ではない計画だったともいわれています。正雪たちの計画は、丸橋忠弥を中心として江戸を焼き討ちにするというものでした。
正雪らは、江戸で騒動を起こすと同時に、大坂や京都などでも決起することで、天皇から倒幕の命令を得ようとしていました。スケールは大きいものの、天皇から命令を得られる保証はなく、行き当たりばったりとも思える計画です。
剣術の師範であった丸橋が捕まり、正雪が自決したことで、計画は未遂に終わりました。大勢の浪人を集めながらも、仲間をうまくコントロールできなかったのです。
乱への関与疑いを機に、徳川頼宣が失脚
由井正雪の乱で影響を受けた人物としては、徳川頼宣(よりのぶ)が挙げられます。紀州藩主だった頼宣は、正雪が頼宣の書状を持っていたとして、騒動に関わっていると考えられたのです。
後に、書状は偽造されたものと発覚したため、頼宣は処罰を受けずに済みました。しかしこの件は、結果的に頼宣が失脚するきっかけになってしまったのです。
頼宣は家康の子どもであり、4代将軍・家綱とともに将軍になる可能性がありました。加えて頼宣が幕府に批判的な立場であったことから、由井正雪の乱を利用して失脚に追い込まれた、という説もあるようです。
武断政治から文治政治へ
由井正雪の乱が起こったのは、職を失った浪人たちの幕府への不満が原因でした。そこで江戸幕府は、力で大名を支配する「武断(ぶだん)政治」から礼儀を重んじる「文治(ぶんち)政治」への転換を図りました。
儒教的な考えに基づいた文治政治は、教育や学問によって国を治めようとする考え方です。幕府は改易を減らし、大名が死の間際に養子を迎える「末期養子(まつごようし)」を許可したことで、浪人をそれ以上増やさないようにしました。
家綱の時代には、大名が死亡した際の忠臣の殉死を禁じているのも特徴です。江戸幕府が武力による政治を終わらせたことで、浪人の増加はもちろん、反乱も未然に防ごうと考えました。
失敗に終わった由井正雪の乱
由井正雪の乱が起こった背景には、幕府に不満を持った浪人が増加したことが挙げられます。戦がほぼなくなった江戸時代には、仕事や主君を失う武士が多かったのが原因です。
計画がずさんだったこともあり、由井正雪の乱は失敗に終わりましたが、その後も幕府への反感を持つ浪人は存在しました。危機感を持った幕府は、これ以上、浪人を増やさないよう文治政治を始めたのです。
由井正雪の乱は、家綱時代に江戸幕府の政治方針を改めるきっかけにもなりました。実際に反乱は起こらなかったものの、由井正雪の乱は幕府に大きな影響を与えた出来事だったのです。
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構成・文/HugKum編集部