喜多川歌麿とはどんな人物?
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は、2025年放送予定の大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」の登場人物です。どのような人物だったのかをチェックしましょう。
浮世絵美人画の名手
喜多川歌麿は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師で、美人画で一世を風靡(ふうび)しました。生年は不明ですが、一説では1753(宝暦3)年に江戸で生まれたとされています。少年期は、絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)に絵を学び、主に表紙絵や美人画を描きました。
版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)との出会いをきっかけに、錦絵や狂歌絵本を手掛けるようになり、町娘をモデルにした美人画で江戸中の評判をさらいます。
町人文化が花開いた時代に生きる
歌麿が活躍したのは、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえはる)が統治していた時代です。この頃、文化の中心は上方(京都・大阪)から江戸に移り、江戸の町では華やかな町人文化が花開きました。
1804~30(文化1~文政13)年を中心に栄えた文化は、「化政文化(かせいぶんか)」と呼ばれます。商業を重視した政策によって江戸は豊かになり、庶民の間では、歌舞伎や滑稽本(こっけいぼん)などが流行しました。木版画は技術が大きく進み、多色刷の錦絵(にしきえ)が誕生します。
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喜多川歌麿のキャリアと生涯
喜多川歌麿の描いたあでやかな美人画は、今もなお多くの人々を魅了しています。一流の浮世絵師として評価されるまで、どのようなキャリアを積んできたのでしょうか?
蔦屋重三郎(蔦重)との出会いから手鎖50日の処罰を受けるまでの波乱に満ちた生涯を見ていきましょう。
蔦重との出会い
歌麿は、少年期に狩野派(かのうは)の絵師・鳥山石燕に師事しました。その後、版元(はんもと)の蔦重(つたじゅう)の元に身を寄せ、二人三脚で絵の制作を始めます。版元とは、今でいう出版社のことです。
当初は、黄表紙(きびょうし)と呼ばれる大人向け通俗小説の、挿絵を手掛けていました。蔦重の影響で狂歌の世界へと足を踏み入れると、「狂歌絵本」に着手します。
歌麿が手掛けた狂歌絵本の代表作には、「画本虫撰(えほんむしえらみ)」「百千鳥狂歌合(ももちどりきょうかあわせ)」「潮干のつと(しおひのつと)」があります。
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狂歌絵本から浮世絵へ
寛政の改革以降は、身分不相応なぜいたくに対して幕府の規制が強くなりました。取り締まりを受けた蔦重は、狂歌絵本から浮世絵にかじを切る決定をします。歌麿は、1790(寛政2)年頃から浮世絵の美人画に着手し、数々の「大首絵(おおくびえ)」を世に送り出します。
大首絵とは、歌舞伎役者や芸者、看板娘などを半身やバストアップで描いたものです。歌麿が描く女性たちはあでやかできめ細かく、多くの江戸庶民に受け入れられました。
人気の浮世絵師となった歌麿は、蔦重以外の版元と手を組むものの、作品の質は次第に低下していったといわれています。蔦重は歌麿のよき理解者であり、優秀なプロデューサーだったのでしょう。
幕府の禁制への対抗
大首絵は、現代でいうブロマイドのようなものであり、「芸者や看板娘の顔を間近で見たい」という人々の欲求を満たしていたと考えられます。
幕府の出版統制令によって、美人画に芸者や看板娘の名前を入れることが禁じられると、歌麿は「判じ絵(はんじえ)」で対抗しました。これは、絵に隠された意味を読み解くなぞなぞのことで、「なにわやおきた」の名前であれば、画中に2把(にわ)の菜・矢・沖・田んぼを描くといった具合です。
判じ絵や大首絵が禁止されると、今度は不良娘を描いた「教訓親の目鑑(きょうくんおやのめかがみ)」を出版します。「親の言うことを聞かないと、こんな不良娘になってしまうぞ」という教訓を交えることで、歌麿は幕府の禁制をうまく逃れたのです。
歴史画と手鎖50日の処罰
禁制が激しくなってからは、歌麿は「歴史画」にも着手します。豊臣秀吉の生涯を題材にした「絵本太閤記(えほんたいこうき)」がベストセラーとなったのをきっかけに、歴史上の武将や英雄を描く「武者絵(むしゃえ)」を次々と発表しました。
しかし、秀吉の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)」が、徳川家斉(とくがわいえなり)をからかったものと見なされ、歌麿は手鎖50日の刑罰に処されます。
手鎖(てぐさり)とは、両手に鎖をかけて、自宅で謹慎(きんしん)させる刑罰です。50歳を過ぎていた歌麿は心身が弱り、処罰から2年後の1806(文化3)年に亡くなっています。
喜多川歌麿の代表作を紹介
歌麿は、数々の歴史画や武者絵を手掛けましたが、最も高く評価されているのは、美人大首絵です。とりわけ、蔦重とタッグを組んだ作品は、生涯における最高傑作といってもよいでしょう。
ポッピンを吹く娘(婦女人相十品)
「ポッピンを吹く娘」は、円熟期の作品である「婦女人相十品(ふじょにんそうじっぴん)」のうちの一つです。淡く光る背景には、雲母(うんも)の粉を振りかける「雲母摺(きらずり)」という技法が使われています。
ポッピンとは、フラスコのような形をしたガラス製の玩具です。
当時、美人画はグラビアやファッション誌の役割も担っており、歌麿も流行していた小物や服装を盛り込んでいます。髪の毛の流れや表情はもとより、着物やかんざしの文様も繊細に描かれました。
当時三美人
「当時三美人」は、「寛政三美人」や「江戸三美人」とも称されます。寛政年間に美女として人気があった「富本豊雛(とみもととよひな)」「難波屋おきた(なにわやおきた)」「高島おひさ」の3人を個性豊かに描きました。
一見、似たような表情に見えるかもしれませんが、眉毛や目じりの角度、顔の輪郭などが微妙に異なります。着物やかんざしには、それぞれを示すモチーフが描かれており、江戸の庶民は人物を難なく見分けられたのでしょう。
歌麿の美人大首絵には、普段会う機会のない人気の芸者や、看板娘が大胆かつ繊細に描かれました。江戸の人々が熱狂する様子が、目に浮かぶようです。
歌麿と同時期に活躍した浮世絵師
歌麿が生きた時代は、浮世絵の黄金期であり、さまざまな浮世絵師が活躍しました。歌麿のライバルとも称された「鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)」と多彩なジャンルを手掛けた「葛飾北斎(かつしかほくさい)」を紹介します。
鳥文斎栄之
鳥文斎栄之の本名は、細田時富(ほそだときとみ)です。将軍家直属の家臣である旗本の跡取りとして生まれ、浮世絵を学びながら、幕府の役人としての務めを果たしました。本格的な創作活動を開始したのは隠居後で、寛政年間は美人画を多く手掛けます。
栄之が描く女性は、歌麿の美人大首絵と対照的です。柔和な立ち姿の「12頭身」が特徴で、「紅嫌い(紅抜き)」と呼ばれる淡い色合いが用いられました。
代表作には、吉原遊郭の芸者を描いた「青楼芸者撰(せいろうげいしゃせん)」や「青楼美人六花仙(せいろうびじんろっかせん)」などがあります。
葛飾北斎
葛飾北斎は、現在の墨田区に当たる本所割下水(ほんじょわりげすい)で生まれました。幼い頃から絵を描き、木版彫刻師の徒弟を経て、浮世絵の世界に入ります。歌麿は美人画を得意としたのに対し、北斎は風俗画・風景画・花鳥画・武者絵・妖怪絵といった多彩なジャンルを手掛けました。
北斎というと、「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」を思い浮かべる人は多いでしょう。富士山(富嶽)を題材にした全46図の錦絵で、風景画の代表作としても有名です。
晩年は肉筆画を中心に制作し、死の間際に「天我をして5年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(後5年の命があれば、本物の絵描きになれるのに)」と嘆いたという逸話が残っています。
親子で喜多川歌麿の作品に触れよう
喜多川歌麿は、版元・蔦重の下で才能を開花させ、浮世絵の黄金期を支えた人物です。幕府の度重なる出版禁止令に苦しめられながらも、数多くの美人画や歴史画を描き続けました。
歌麿の生涯や作品についての知識があると、2025年放送予定の大河ドラマ「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺」も、より楽しめます。また、国内の美術館や博物館では、所蔵作品の企画展が行われることがあります。機会があれば、親子で足を運んでみてもよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部