お母さんの匂いや声の記憶が、子どもが前向きに生きる力になっているのです
私が勤めていた川崎医療福祉大学の大学院で博士号を取得した鍵小野美和さん(*現在は、岐阜医療科学大学に所属)の研究にとても興味に深いものがあります。
それは、日本と中国の大学生に行ったアンケートを取って、生育歴と現在の精神状態を比較検討をした研究です。
鍵小野さんは、学生たちに以下のような質問をしました。
・あなたが赤ちゃんのころのお母さんの匂いを覚えていますか?
・赤ちゃんのころのお母さんの声を覚えていますか?
・赤ちゃんや幼いころに、お母さんのすぐ隣で寝た、添い寝の記憶がありますか?
この質問に対して、「しっかりとある」「ある程度ある」「あるような気がする」「ほとんどない」「まったくない」という5つの回答を用意して答えてもらったのです。
要するに、乳幼児のころのお母さんのことを振り返り、考えさせる問いを日中双方の学生に投げかけたのです。
そうして、生育に関する細かな質問をたくさんした後に、今度は大学生になった、現在の気持ちについて以下のような質問をしました。
・あなたは自尊心がありますか?
・夢がありますか?
・希望はありますか?
・前向きで生きる意欲がありますか?
・自分を感動的な人間だと思いますか?
・想像力のある人間だと思いますか?
この質問に対して、やはり5段階で回答してもらったところ、驚くべきことに、日中双方の学生とも、お母さんの匂いや声の記憶をしっかりと持っている学生ほど、自尊心や自己肯定感が強くあり、夢や希望を抱いていることが判明したのです。
お母さんとの愛着関係が深い人ほど、前向きに生きる力を持っているということです。
「doing mother」ではなく、「being mother」でいてください
お母さん方との子育て勉強会などで、参加者のお母さん方に私がいつもお願いしているのは、「doing mother」ではなく、「being mother」でいてください、ということです。
「doing mother」というのは「お母さんをする」、「being mother」というのは「お母さんである」という意味です。
たとえば保育士さんの仕事というのは、子どもたちの本当のお母さんではありませんから、保育園では「doing mother」なんです。でも、子どもたちにとって望ましいのは、限りなく「being mother」である保育士さんです。
ところが、本当のお母さんでも「doing mother」という人がいます。母親を演じているだけという人もいるんです。
本来、「being mother」であれば、自分の子どもをまるごとそのまま承認できるはずです。「こうあってほしい」「こうでなければだめだ」という気持ちをもつことなく、ありのままの子供を受け入れられるお母さんでいてほしいと思います。
昨日は何をしたの?と聞かれて「お母さんが爪を切ってくれたの」と答えた子
でも、私の子育て講習会で、「being mother」であるべきという話をすると、「それは私には無理」と思ってしまう方が多いのです。
けれども、「being mother」でいることは、難しいことではありません。子どもといることを喜びに感じて、子どもの今を幸せにすることを喜びに感じていただくだけでいいのです。
そして、子どもと接する時間は量より質です。仕事を持っていて、子どもと接する時間があまりないという方も、引け目を感じることはありません。
何処かへ遊びに行く、何かを買ってあげる、など特別な時間を子どもと過ごさなくても、子どもはお母さんといるだけで幸せな時間を過ごすことができます。
ある保育士さんから聞いた話ですが、休日明けの保育園で、園児たちに昨日は何をしたのか尋ねたら、「お母さんが爪を切ってくれたの」と答えた子がいたそうです。
その子は、きっとお母さんのひざの上に抱っこされて、肌の温かさを感じながら爪を切ってもらったのでしょう。そして、その時間がその子にとって、幸せなひと時として心に残ったのでしょう。
私には、そのおだやかな光景がありありと目に浮かび、心が和みました。
子どもがくつろげる「家庭」という場所を与えてあげることが、子育てでいちばん大事なことです。そして、お母さんは子どもの傍らにいるだけで、やすらぎを与えることができる存在なのです。
どうぞ、誇りをもって子育てをしてください。
教えてくれたのは
1935年、群馬県生まれ。新潟大学医学部卒業後、東京大学で精神医学を学び、ブリティッシュ・コロンビア大学で児童精神医学の臨床訓練を受ける。帰国後、国立秩父学園や東京女子医科大学などで多数の臨床に携わる傍ら、全国の保育園、幼稚園、学校、児童相談所などで勉強会、講演会を40年以上続けた。『子どもへのまなざし』(福音館書店)、『育てたように子は育つ——相田みつをいのちのことば』『ひとり親でも子どもは健全に育ちます』(小学館)など著書多数。2017年逝去。半世紀にわたる臨床経験から著したこれら数多くの育児書は、今も多くの母親たちの厚い信頼と支持を得ている。
構成/山津京子 写真/繁延あづさ