クリミア戦争とは?
クリミア戦争は、19世紀のヨーロッパの歴史を知るうえで、欠かせない出来事です。どのような戦争なのか、見ていきましょう。
ヨーロッパ諸国の間で起こった戦争
クリミア戦争は、1853年にロシアとオスマン帝国の間で、「黒海沿岸の支配権」をめぐって起きた戦争です。
当初はロシアとオスマン帝国のみの対立でしたが、オスマン帝国を支援するため、フランスやイギリスなどの列強国が加わります。その結果、ヨーロッパ諸国を巻き込んだ、ロシア軍対連合軍の大規模戦争へと発展しました。
クリミア戦争の背景には「東方問題」があります。東方問題とは、オスマン帝国の弱体化を受けて周辺国が干渉をしたために起きた、外交上の諸問題のことです。
この東方問題は、それまでバランスを保っていた大国の間で、国際的な緊張が起こるきっかけとなりました。
ナイチンゲールの活動でも有名
F・ナイチンゲールは、1854年、クリミア戦争で傷ついた兵士を看護したイギリス出身の女性です。当時は、看護師の地位が確立しておらず、「従軍看護婦」の存在は認められていませんでした。
しかし、病院の衛生状態を見直し、献身的に尽くした彼女の働きが、社会と軍の理解不足を覆します。戦争終結後は、ロンドンで看護学校を設立し、近代看護の基礎を打ち立てました。
国際的な救援機関である「赤十字社」を設立したスイス人実業家のアンリ・デュナンは、ナイチンゲールの活動を高く評価していたことで知られています。
デュナンとナイチンゲールの死後、公衆衛生や看護教育の分野で大きな貢献をした看護師を讃えるために、「フローレンス・ナイチンゲール記章」が贈られるようになったのです。
クリミア戦争が起こった理由
クリミア戦争が起きた理由は、一つではありません。さまざまな国の思惑が混ざり合っているため、何が原因で起きたのか分からなくなりがちです。
どのような理由から戦争が始まったのか、見ていきましょう。
オスマン帝国の衰退
オスマン帝国は、現在のトルコがある地域一帯を支配していた他民族国家です。アジアからヨーロッパへ進出し、一時はオーストリアのウィーンを陥落させる一歩手前まで攻め込むほど、強大な力を持っていました。
しかし18世紀に入ると、国内の経済が悪化したことや、領土を広げすぎて、地方をコントロールしきれなくなったことなどから、オスマン帝国の衰退が始まります。
支配していたギリシア人・スラブ人・アラブ人などの間で、民族独立運動が起こり、オスマン帝国の弱体化は進んでいきました。
オスマン帝国が不安定になったことを受けて、18世紀末頃からロシア・イギリス・フランスなどの列強国が干渉を始めます。そのなかで利害対立が生じ、戦争に発展していったのです。
ロシアの南下政策
クリミア戦争の主戦場は、黒海の北岸にあるクリミア半島です。
ロシアは地理的な理由で、冬になると、ほとんどの港が凍りついてしまい、海に出られません。「冬でも凍らない港」を確保するため、当時、オスマン帝国が支配していた黒海を押さえようと動きます。
ロシアが南下政策をはかったことで、イギリスやフランスは、ロシアの動きを阻止する目的でオスマン帝国側につき、大規模な戦争へと発展していったのです。
大ロシア主義の高まり
「大ロシア主義」は、ロシアが他の民族に対して持つ「特権的な立場」のことで、領土を統治するための政策に用いられてきました。
支配した土地に、多くのロシア人移民を送り、ロシア語やロシア文化などを浸透させて、地域のロシア的な要素を高めていく植民政策を行います。
この政策によって、ウクライナ人やベラルーシ人など、東ヨーロッパに広く分布する「スラブ系民族」を強調する動きが高まっていったのです。
1852年、フランスはオスマン帝国に対し、領内にあるキリスト教の重要施設の保護権を認めさせました。これを知ったロシアは、「オスマン帝国内にいるロシア正教徒の保護」を口実に、オスマン帝国への干渉を強め、1853年に宣戦布告することとなったのです。
それぞれの国の背景
ロシアは手始めに、ロシア正教徒の多い「モルダヴィア」を占領します。ヨーロッパ諸国はこのことを強く非難し、多くの国がオスマン帝国の味方につくことになりました。
フランスは、キリスト教徒保護権の問題でロシアと対立していましたし、イギリスは、インドから地中海までの交通路を確保するために、ロシアの南下を警戒していたのです。
オーストリアは、ロシアに占領されたモルダヴィアなどに近く、国内のスラブ系民族がロシアの行動に影響されることを恐れていました。
イタリアのサルディニア公国は、国内情勢が不安定だったため、国家の統一を推し進めるために、大国に存在感をアピールする目的で介入していました。
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クリミア戦争の概要
クリミア戦争はどのように行われ、終結していったのでしょうか。各国の動きや、終戦までの流れを見ていきましょう。
セバストポリ要塞の陥落
1853年、戦争が始まった当初は、ロシアとオスマン帝国の間で戦いが起こり、他の国はオスマン帝国を支援する立場でした。
しかし、世論がロシアの動きに強く反発すると、オスマン帝国を支援していたフランスとイギリスが本格的に戦闘に参加し、同盟軍として進軍するようになります。
1854年には、同盟軍がクリミア半島に上陸し、現在のウクライナ南部に位置する「セバストポリ要塞」が、最大の激戦地となりました。
ロシア軍を包囲するように同盟軍が展開して激しい攻防が続くなか、ロシアは自国よりも飛距離のある大砲を有する同盟軍に追い詰められていったのです。
ロシアの敗北
1855年に、セバストポリ要塞が陥落し、ロシアが敗北します。
ロシアは陸軍が中心となって、これまで「陸続きの土地」に対して絶対的な力を振るってきました。しかし、他のヨーロッパ諸国に比べて近代化が遅れ、軍備に弱い部分があったことが最大の敗因とされています。
同盟軍は、戦争に勝利したものの、戦闘による死者だけでなく、寒さ・食糧不足・コレラの流行などで、多くの死者を出しました。
一方で、ロシアはセバストポリ要塞からは撤退したものの、黒海の東側にある「カルス要塞」を落として連合軍に痛手を負わせます。
さらに、戦争が長期化したため、イギリスもオスマン帝国も軍費がかさみ、財政が破たんしてしまいました。これ以上の消耗や泥沼化を避けるために、事態を収束させていったのです。
クリミア戦争の終結
クリミア戦争が終結した後、ロシアやヨーロッパ諸国は、どのような道をたどったのでしょうか。戦後の様子を見てみましょう。
1856年のパリ条約で終結
1856年に、オーストリアとプロイセンの仲介で「パリ条約」が結ばれ、オスマン帝国の領土を保護し安全を守ることや、黒海の中立化などが決定します。
ロシアが支配していたベッサラビア(現在のモルドバ)は、モルダヴィア公国に譲られ、モルダヴィア公国はワラキア公国とともに自治が認められることになりました。
ロシアの南下政策はとん挫し、近代化の遅れを取り戻そうとしたアレクサンドル2世は、さらに近代化改革を行います。以降、東アジア方面へ領土を拡大する方針に切り替えるのです。
クリミア戦争のその後
フランスとイギリスは、クリミア戦争以降、世界に対して大きな影響力を持つことになります。ロシアは近代化を目指し、産業を育成するために「農奴(のうど)解放令」を出しました。
クリミア戦争後に力を付けたロシアは、バルカン半島をめぐって、再びオスマン帝国との間で戦争を起こします。
この戦争はドイツの政治家ビスマルクが主催した1878年のベルリン会議によって終結しました。しかし、その後も列強の対立は、「バルカン問題」として継続し、第一次世界大戦の遠因となっていくのです。
この時代についてもっと知りたい人に
クリミア戦争の時代背景や、活躍した人物についてもっと知りたい方のために、参考図書をご紹介します。
小学館版 学習まんが人物館 「ナイチンゲール」
クリミア戦争で活躍したナイチンゲール。上流階級の境遇を捨て、近代看護と病院のシステムを作り、看護教育に貢献しました。自らの意志を貫き通した一生をまんがでたどります。
小学館版 学習まんが 世界の歴史7 「近世ヨーロッパ」
歴史教科書で有名な山川出版社の編集協力を得て誕生した「学習まんが世界の歴史」。内容は高校生レベルでも、小学校高学年であれば理解できる構成されています。
この巻では、大航海時代、ルネッサンス、宗教改革など、近世ヨーロッパの基本の流れをしっかり理解できます。
岩波文庫 トルストイの「セヴストーポリ」
文豪トルストイは、クリミア戦争に将校として戦地におもむきました。その戦地セバストポリでの体験を3つの物語として書き残しました。クリミア戦争をリアルな経験として伝える文豪の描写からは、当時の戦争の様子をうかがい知ることができます。
講談社学術文庫 「興亡の世界史 オスマン帝国500年の平和」
14世紀の初頭、アナトリアの辺境に生まれた小国は、バルカン、アナトリア、アラブ世界、北アフリカを覆う大帝国に発展しました。クリミア戦争で周辺の強国から注目されるに至ったオスマン帝国の、発展と衰退の歴史を追います。
クリミア戦争について学ぼう
クリミア戦争は、オスマン帝国の衰退につけ込んだロシアと、それに反発したフランス・イギリスなどヨーロッパ諸国により、大きな戦争に発展しました。
この戦争にロシアは敗北しますが、戦後、国内改革を行って近代化の道へ進んでいきます。ロシアが東アジア方面に領土を拡大する方針に切り替え、国際関係に大きな影響を与えたのがクリミア戦争であることを押さえておきましょう。
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構成・文/HugKum編集部