朝鮮半島の三国の一つ、高句麗について。新羅や百済との関係性も【親子で歴史を学ぶ】

外国のドラマや映画を楽しむには、その国の歴史を学ぶのが近道です。朝鮮半島の歴史が分かれば、韓流ドラマへの理解も深まるかもしれません。

古代朝鮮の三つの王国の一つ、「高句麗(こうくり)」について、所在地や歴史、日本を含む周辺諸国との関係性を解説します。

そもそも高句麗とは?

高句麗とは、いつ、どこに存在した国なのでしょうか。建国から滅亡までの歴史を見ていきましょう。

紀元前1世紀頃に成立した朝鮮半島の国

高句麗は、紀元前37年に、中国の東北地方(旧満州)で興った国です。「ツングース系扶余(ふよ)」出身の「朱蒙(しゅもう、東明王ともいう)」という人物によって建国されたといわれています。

建国後は、周囲の部族を統合しながら南へと勢力を広げ、4世紀の初めには朝鮮半島の北半分を支配するまでに発展します。4世紀末から5世紀にかけて最盛期を迎え、新羅(しらぎ)・百済(くだら)と共に、朝鮮半島三国の一つとなりました。

その後は、朝鮮半島への進出を目論む隋(ずい)や唐(とう)の侵攻を受け、668年に唐と新羅の連合軍に敗れ、滅亡します。

高句麗の歴史

建国当初の高句麗は、周囲を強い部族や国に囲まれた小さな国でした。近隣の部族を一つずつ統合しながら、徐々に国力を増強し、209年には鴨緑江(おうりょっこう)中流に「丸都城(がんとじょう)」を築いて遷都します。

313年には、晋(しん)が支配していた朝鮮半島北部の「楽浪郡(らくろうぐん)」を、翌年には「帯方郡(たいほうぐん)」を攻め滅ぼし、朝鮮半島に進出しました。391年に即位した「広開土王(こうかいどおう)」は、南方を中心に積極的に領土を広げ、高句麗の発展に貢献します。

427年には、広開土王の息子「長寿王(ちょうじゅおう)」が都を現在の平壌(ピョンヤン)に移し、新羅や百済との覇権争いも本格化していきました。7世紀に入ると、中国を統一した隋が、高句麗に攻撃をしかけてくるようになります。

高句麗は善戦し、隋の撃退には成功します。しかし徐々に国力は弱まり、内紛が起こったこともあって、新たに手を組んだ唐と新羅に滅ぼされてしまいました。

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高句麗と百済・新羅の関係性

高句麗が、朝鮮半島北部に進出した頃、南部には百済と新羅の二つの国がありました。高句麗にとって、百済と新羅はどのような位置付けだったのでしょうか。

新羅

新羅は、朝鮮半島南部の東側を支配していた国です。辰韓(しんかん)の小国が統一され、4世紀中頃に慶州(けいしゅう、キョンジュ)を都として建国されました。高句麗とは良好な関係にあり、百済と戦うときには、お互いに支援し合っていました。

しかし高句麗が百済と手を組むと、新羅は唐と同盟を結んで戦い、二国を滅ぼします(668)。その後、新羅は唐と戦って勝利し、ついに朝鮮半島の統一を果たしました(676)。

チョムソンデ。7世紀に新羅で造られた東洋で最も古い天文台(韓国慶尚北道慶州市)

百済

新羅と同時期に誕生したのが百済です。馬韓(ばかん)の小国が統一され、4世紀中頃に漢城(ハンソン、現在のソウル)を都として建国されました。百済は半島の南方にあった小国の集合「伽耶(かや)地域」をめぐって新羅と争っていたうえに、高句麗とも対立関係にありました。

ソウル北村韓屋村。百済の都であったソウルの伝統的な家屋街(韓国ソウル市)

 

そこで百済は、伽耶諸国に影響力のあった日本と同盟を結び、二国に対抗します。しかし高句麗滅亡直前の660年、唐と新羅の連合軍に敗れ、滅ぼされてしまいます。

生き残った人々が国の再興を期して戦いますが、惨敗に終わり、復活することはありませんでした。

5~7世紀頃の朝鮮半島と日本の関係は?

歴史上、朝鮮半島と日本の間には、常に深い関わりがありました。高句麗が全盛期だった5世紀から、滅亡する7世紀頃にかけての関係を見ていきましょう。

日本が朝鮮半島に進出

日本は、古くから朝鮮の進んだ文化や鉄を求めて、盛んに朝鮮半島に進出していました。特に、伽耶地域を「任那(みまな)」と呼び、進出の重要拠点と位置付けていたのです。

朝鮮半島の三国のうち、百済とは友好関係にありましたが、高句麗や新羅とは仲が悪く、高句麗の広開土王の石碑(好太王碑)には、日本と交戦した記録も残っています。新羅が朝鮮半島を統一してからは、日本の伽耶地域への進出も途絶えてしまいました。

日本は百済と同盟を結ぶ

百済と新羅の伽耶地域をめぐる争いが激しくなると、日本も黙ってみているわけにはいかなくなります。どちらかが伽耶地域を支配下に置いてしまえば、日本は朝鮮半島との関係を断たれてしまうからです。

一方で、新羅と高句麗を敵にまわしていた百済は、友好的だった日本を味方にしようと考えます。伽耶地域への進出を続けたい日本と、援軍が欲しい百済の利害関係が一致した結果、両国は同盟を結ぶことになりました。

百済が滅ぼされたときも、日本は百済の生存者を支援して、唐と争うことを決めます。日本は661年から3回にわたって出兵しますが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐軍に敗れ、百済の再興もかないませんでした。

白村江の戦いの結果は?

百済復興戦の2回目までは、唐軍の合流が間に合わなかったこともあり、日本と百済の連合軍が優勢でした。しかし3度目の出兵のとき、白村江でついに唐軍との戦闘となり、軍備や指揮力に劣る日本軍は大敗を喫します。

敗れた日本は、唐や新羅の侵略に備えて、国防を強化しなければなりませんでした。また戦争のための徴兵・徴税がしやすいよう、戸籍の整備にも取りかかります。

大野城跡の百間石垣。白村江の戦いでの大敗後、大宰府の防衛のために、天智天皇は「水城」や「大野城」を築いた(福岡県太宰府市、大野城市、糟屋郡宇美町)

 

これらの政策の指揮を執ったのは、白村江の戦いのリーダーだった「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」です。彼は、天智(てんじ)天皇となった後も、内政の充実に力を注ぎ、天皇を中心とした中央集権的国家を確立していきます。

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高句麗への理解を深めよう

高句麗は、日本が古墳時代であった頃に、中国東北部から北朝鮮一帯を支配していた強国でした。特に朝鮮半島に対する影響力は、大変大きかったと考えられます。

高句麗と周辺諸国の歴史や当時の情勢を押さえ、韓国や朝鮮半島への理解を深めていきましょう。

構成・文/HugKum編集部

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