ミュンヘン会談とは
ミュンヘン会談とは、第二次世界大戦開戦前年の1938年、ドイツ南部の都市ミュンヘンで開催されたイギリス、フランス、ドイツ、イタリアの首脳による会談です。この会談での結果が、第二次世界大戦への道筋をつけたともいわれています。
いつ開催された?
開催されたのは、1938年9月29日~30日。1939年9月に始まる第二次世界大戦のちょうど1年前です。アジアでは1937(昭和12)年に日中戦争が始まり、1914(大正3)年〜1918年に連合国と同盟国が戦った第一次世界大戦からわずか20年あまりで、世界は再び戦火に包まれようとしていました。
開催場所
ドイツ南部、バイエルン州の州都であるミュンヘンで開催されました。ドイツ南部の中心となる都市で、第一次世界大戦後には、ヒトラー率いるナチスの拠点となり、第二次世界大戦中は激しい爆撃を何度も受けました。
参加国・参加者
イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、ドイツ総統ヒトラー、イタリア首相ムッソリーニが参加しました。
目的
ドイツは、同じ1938年に隣国オーストリアを併合、次にチェコスロバキアのズデーテン地方を狙っていました。イギリス、フランスが戦争を恐れて、チェコスロバキアにドイツの要求を受け入れることを求め、その一方で、ドイツは即時の併合という姿勢を譲りませんでした。
再び戦争が始まるかのような緊張が高まるなかで開催されたのがミュンヘン会談で、ズデーテン地方のドイツへの併合が決められました。
先の第一次世界大戦ではイギリス、フランスは連合国、ドイツは同盟国で、第一次世界大戦に負けたドイツは再び勢力を拡大しようとしたのです。イタリアは、第一次世界大戦は途中から連合国として参戦。会談では仲介役を務めました。
なお肝心のチェコスロバキアは、会談には参加していません。大国だけで国の割譲が決められたのでした。
ミュンヘン会談開催の経緯
ミュンヘン会談に至るヨーロッパの情勢を振り返りましょう。
第一次世界大戦に敗れたドイツ
第一次世界大戦(1914〜1918)は主戦場となったヨーロッパをはじめ、世界に大きな傷跡を残しました。特に敗戦国となったドイツは、領土の一部を失い、さらに多額の賠償金を課せられ、経済はどん底まで落ち込みました。
1929年には、世界は大恐慌に陥りますが、賠償金の支払いは続き、ドイツでは第一次世界大戦のいわゆる、ヴェルサイユ体制への不満が高まります。
そんな状況のなかで、ナチス党を率いたヒトラーが国民の不安を煽(あお)り、1933年に圧倒的な支持を集めて政権を握ります。同年には国際連盟を脱退、1935年には再軍備を宣言し、領土の回復と拡大を狙います。
オーストリア併合、ズデーテン地方の割譲を要求
1938年3月、ドイツはヒトラーの出身地で、ドイツ系住民の多いオーストリアを併合します。オーストリアは、ドイツとともに第一次世界大戦の敗戦国(戦争当時は、オーストリア=ハンガリー帝国)であり、戦後の厳しい状況から勢力を拡大するドイツとの併合を歓迎する人も存在しました。
ドイツはさらに、オーストリアと同じくドイツ系住民が多く住む、チェコスロバキアのズデーテン地方の割譲を要求しました。ここは第一次世界大戦前はオーストリア=ハンガリー帝国の一部だったのです。
ドイツとの対立に消極的なイギリス、フランス
チェコスロバキアは、第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国から独立して、1918年に誕生した国であり、ズデーテン地方の割譲に抵抗します。
一方、イギリスとフランスはドイツの勢力拡大を恐れつつも、戦争は避けたいと考えていました。また、1917年に「共産主義」を掲げて誕生したソビエト連邦が力をつけていくことも恐れていました。そこで、「防共」を掲げるドイツにソ連の拡大を抑える役割を期待し、オーストリア併合を黙認していました。
そうした経緯から、チェコスロバキアに対してもズデーテン地方のドイツへの割譲を認めるよう働きかけたのです。
日本との関係
日本は、第一次世界大戦を連合国の一員として戦いましたが、1929年の大恐慌に契機に、当時、海外に広い植民地を保有していたイギリス、フランス、そして第一次世界大戦後に疲弊したヨーロッパに変わって、世界経済の中心となったアメリカなど、いわゆる「持てる国」と対立するようになります。日本、イタリア、ドイツなど植民地を持たない国は「持たざる国」と呼ばれました。
ドイツではヒトラーが、イタリアはムッソリーニが政権を握り、独裁政治を行います。日本では軍部が政治に大きな影響を与えるようになっていました。
「持たざる国」の3つの国は急接近し、ミュンヘン会談が開かれる前年の1937年には「日独伊三国防共協定」を、さらに1940年には「日独伊三国同盟」を締結します。
ミュンヘン会談の内容
1938年9月30日、ミュンヘン会談が開催され、チェコスロバキア領であるズデーテン地方のドイツ併合が決定されました。
チェコスロバキアは不参加
会談には、ドイツ総統ヒトラー、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、仲介役としてイタリア首相ムッソリーニが参加しました。
しかしチェコスロバキアは、当事者にもかかわらず、会談には参加できず、隣室で結果を聞かされるのみでした。大国の動きに左右される世界情勢は、当時も今も変わっていないようです。
イギリス、フランスがドイツの要求を受諾
ミュンヘン会談では、イギリス、フランスは、ドイツの要求をほぼ全面的に受け入れました。隣室で待機していたチェコスロバキアの代表は、結果にショックを受け、涙を流したと伝えられています。
このように、強硬な姿勢を取る国に対して、譲歩することで問題の回避を図る政策を「宥和(ゆうわ)政策」と呼びます。のちほど解説します。
ドイツがチェコスロバキアを解体
ミュンヘン会談で、ヒトラーは「ズデーテン地方の併合を最後の領土要求とする」と約束します。しかし、この約束は、すぐに破られました。
翌年の1939年3月、ヒトラーはチェコスロバキアの西半分(チェコ)を占領、東半分(スロバキア)を独立させ、保護国として、チェコスロバキアを解体してしまいました。
宥和政策とは
宥和政策とは、強硬な姿勢を取る国に対して、譲歩することで問題を回避する妥協的な外交政策をいいます。
ミュンヘン会談は、宥和政策がピークに達したものとされています。
ミュンヘン会談で宥和政策をとった理由
戦争回避
イギリスとフランスが宥和政策を行ったことには、2つの理由があげられます。1つ目は戦争回避。イギリスとフランスは第一次世界大戦の戦勝国でしたが、多くの人を失い、莫大な戦費がかかってしまいました。
再び戦争に突入することは避けたかったのです。
共産主義の脅威
2つ目の理由は、共産主義の脅威です。ロシア革命でソ連が誕生して以降、共産主義は世界に広がっていました。資本主義の対局にある共産主義思想が自国に浸透することを恐れ、ドイツに共産主義を防ぐ役割を期待していたのです。
ミュンヘン会談の結果
ミュンヘン会談の翌日、10月1日にズデーテン地方はドイツに併合されます。ミュンヘン会談の結果を見ていきましょう。
ドイツとチェコスロバキアの戦争を回避
ズデーテン地方の併合をめぐって、ドイツとチェコスロバキアの対立は、戦争直前にまで高まっていましたが、それは回避されました。
イギリス首相チェンバレンとフランス首相ダラディエは、帰国した際、戦争を回避したということで、ともに国民から歓迎を受けます。ですが、歴史を見ると、それは一時的なものでしかありませんでした。
独ソ不可侵条約締結への布石
ミュンヘン会談の結果は、予想外の方向に進みます。当時、チェコスロバキアと同盟関係にあったソ連は、ズデーテン地方の併合を認めたイギリス、フランスに対する不信感を強めます。またドイツの領土拡大欲はとどまることがありませんでした。
この2国は1939年8月、独ソ不可侵条約を結び、世界中に衝撃を与えます。2国は密(ひそ)かにポーランドやバルト三国の分割について取り決めていました。9月1日にはドイツがポーランドに侵攻、17日にはソ連もポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)します。
第二次世界大戦のきっかけに
ドイツのポーランド侵攻を受けて、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告。宥和政策は失敗に終わります。ヨーロッパは再び戦火に包まれます。
1941(昭和16)年12月には、日本が真珠湾(しんじゅわん)を攻撃して、アメリカとの太平洋戦争が始まり、戦争は世界中に拡大しました。
歴史に、if(もしも)はありませんが…
ミュンヘン会談は、結果的に、第二次世界大戦を招いてしまいました。ですが、いずれにせよ、ドイツとの戦争は避けられなかったという見方もあります。対立か、宥和か、どちらがよいのか、簡単には判断できません。
第一次世界大戦後のナチスの台頭は、その勇ましい主張に国民が熱狂したことにあります。日本でも昨今、勇ましい主張が聞こえますが、歴史を知ることは、そうした主張に私たちがどのように接すればよいのか、教えてくれるのではないでしょうか。
この時代をもっと知るための参考図書
第二次世界大戦へと向かうこの時代について、もっと深く知るための参考図書をご紹介します。歴史を学ぶことは未来を守ることにつながります。
小学館版学習まんが 世界の歴史16「第二次世界大戦」
河出書房新社「図説 第二次世界大戦 新装版」
文・構成/HugKum編集部