伊能忠敬はどんな人物? その生涯や日本地図に関する功績を知ろう【親子で偉人に学ぶ】

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伊能忠敬は、江戸時代の後期に活躍した偉人です。50歳から天文学を学び、日本地図の作成で功績をあげました。忠敬が作った地図は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えています。忠敬の生涯や地図作成に取り組んだ経緯、驚きの測量方法を紹介します。

伊能忠敬とは?

「伊能忠敬(いのうただたか)」の名前を知っていても、詳しい功績までは知らない人も多いでしょう。まずは、忠敬の人物像を簡単に紹介します。

初めて実測による日本地図を作った人物

忠敬は、私たちが普段、目にしている日本の形を、初めて正確に表した人物です。長い年月をかけて全国を実際に測量してまわり、日本地図を作成しました。

当時の江戸幕府の将軍は、11代の徳川家斉(いえなり)です。江戸時代も後半にさしかかっていたとはいえ、日本に近代化の波が押し寄せるのは、まだ先のことでした。

忠敬は、現在のように精密な計測機器も、便利な移動手段もない時代に、徒歩で測量に臨みます。気の遠くなるような作業の末に完成した忠敬の地図は、精度が高く、人々を驚かせました。

伊能忠敬の生涯

伊能忠敬が、初めて測量の旅に出たのは、なんと55歳のときでした。忠敬の意外な前職と、地図作りにかかわるようになった経緯を見ていきましょう。

1745年に九十九里町で生まれる

忠敬は、1745(延享2)年、千葉県の九十九里(くじゅうくり)町で父親の養子先である名主の家で生まれます。17歳のときに、佐原(さわら、現在の千葉県香取市)の有力商人・伊能家の婿養子に迎えられ、十代目の当主となりました(1762)。

当時の伊能家は、経営が傾きかけていましたが、忠敬は商才を発揮して店を立て直し、大きな財を築きます。裕福な商家の主人として、家業だけでなく村の運営にも力を尽くしました。

地域で飢饉(ききん)が起こった際には、私財を投じて村人を救ったエピソードが伝わっています(1785年・天明の大飢饉)。

伊能忠敬旧宅(千葉県香取市佐原)。伊能家は、酒・醤油醸造・貸金業・利根川水運業などを営んでいた。当時の佐原村は天領で、武士は一人も住んでいない。村全体に大きな発言権を持っていたのは、永沢家と忠敬が婿入りした伊能家だった。

50歳で天文学を学びはじめる

1795(寛政7)年、50歳になった忠敬は、家業を息子・景敬(かげたか)にゆずり、江戸で隠居生活を送ることを決めます。江戸に出た目的は、天文学を学ぶことでした。

忠敬は以前より、商売のかたわら、暦学(れきがく)を勉強していましたが、引退後は、もっと本格的に学びたいと考えます。暦学は、太陽や月の動きを観測して暦を作る学問のことで、天文学と深いかかわりがあります。

そこで忠敬は、天文学者の高橋至時(よしとき)の弟子となりました。至時は、天文学や暦学の第一人者で、幕府で「改暦(かいれき)」にたずさわるほどの人物です。

しかし、当時の至時は31歳で、忠敬とは親子ほどの年齢差がありました。若い自分に頭を下げ、熱心に学ぼうとする忠敬の情熱に感動した至時は、惜しみなく知識を授けます。このときに習得した知識が、後の測量に生かされることになります。

全国を歩いて測量する

至時の下で学ぶうちに、忠敬は地球の大きさを知りたくなりました。しかし、そのためには蝦夷地(えぞち、北海道)まで行って、江戸との距離を測る必要があります。

当時は、一般人が幕府の許可なく蝦夷地に行くことはできませんでした。そこで至時は、蝦夷地の正確な地図を作る名目で、幕府に忠敬の蝦夷地行きを願い出ます。

ロシアなどの外国船の出没に頭を悩ませていた幕府は、至時の提案を受け入れます。こうして、1800(寛政12)年に忠敬は55歳という年齢で、蝦夷地へ向けて出発しました。

富岡八幡宮境内(東京都江東区)にある伊能忠敬の銅像。忠敬は、全国測量の旅に出かける際には、安全祈願のために必ず富岡八幡宮に参拝に来ていたという。また近くの門前仲町には、江戸での伊能忠敬旧宅跡を示す石碑がある。

 

忠敬は、蝦夷地の海岸を一歩ずつ歩いて測量します。歩けない場所は船から縄を使って測量し、正確な海岸線を描きました。忠敬が提出した地図を見た幕府は、その精密さに感心し、全国の地図作りを依頼するのです。

伊能忠敬の測量方法

忠敬は地図を作る際の測量で、当時、田畑の測量に使われていた「導線法(どうせんほう)」を用いています。導線法は、現地点から目印の棒までの距離と方角を測りながら進んでいく、シンプルな測量法です。

忠敬は、まず自分の歩幅を計測し、毎回同じ歩幅で歩けるよう訓練を重ねました。目印に到着するまでの歩数に歩幅を掛けて、正確な距離を求めたのです。

さらに、「交会法(こうかいほう)」と呼ばれる山の上から方位を測る方法も取り入れ、導線法で生じる誤差を修正しています。晴れた夜には天体観測を欠かさず行い、北極星の位置から緯度を割り出して測量結果の確認に使いました。

完成前の73歳で亡くなる

忠敬の個人的な動機から始まった地図作りは、幕府の直轄(ちょっかつ)事業にまで発展します。多くの予算や人員が割り当てられ、より高度な測量ができるようになりました。

日本初の本格的な地図作りを任された栄誉と責任感を胸に、忠敬は老体に鞭(むち)打って旅を続けます。蝦夷地への測量開始から14年後、ほぼ全国をまわった忠敬は、江戸で地図の仕上げに取りかかります(1817)。

しかし、完成を目前にした1818(文政元)年に、病によって73年の生涯を終えました。忠敬の死後、弟子たちが地図を完成させ、1821(文政4)年に「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」として幕府に提出しています。

伊能忠敬の墓(千葉県香取市)。伊能家の菩提寺・観福寺(かんぷくじ)境内にある。遺髪を納めた参り墓(埋めた墓とは別に、お参りしやすい場所に建てられた墓)。埋め墓は、師匠の高橋至時・景保父子と同じ東京・上野源空寺で、父子と並んで建てられている。

伊能忠敬の功績や影響

驚異の精度を誇った忠敬の地図は、その後、どのように使われたのでしょうか。日本史における影響を見ていきましょう。

現在の日本地図の基礎に

幕府は、忠敬の地図があまりにも正確だったため、外国の手に渡ると国防上不利になると考え、公開しませんでした。しかし、明治時代以降は、政府や軍が積極的に活用することになります。

現代の私たちが目にする日本地図も、忠敬の地図を基に作られたものです。なお、幕府に献上された地図の原本は、明治初期に起こった皇居の火災で焼失しており、実物を見ることはできません。

明治政府は、伊能家に伝わっていた控えの地図を使用していましたが、こちらも関東大震災ですべて焼けてしまいました。ただし、各地から副本や下絵などが見つかっており、現在も大切に保管されています。

西洋諸国にも技術が伝わる

幕府が必死に隠した忠敬の地図の存在は、間もなく外国人の知るところとなります。高橋至時の息子・景保(かげやす)が、地図の写しを長崎在住のドイツ人医師・シーボルトに渡してしまうのです(1828年・シーボルト事件)。

事件発覚後、景保は獄中で亡くなり、シーボルトは日本を追放されました。この事件により、日本に優れた測量技術があることが西洋諸国に伝わります。

幕末に日本が開国する(1867)と、当時、世界で最も高度な測量技術を誇っていたイギリス海軍がやってきました。彼らは自力で日本地図を作ろうとしますが、途中で忠敬の地図を見て驚き、断念します。

忠敬の地図がきっかけで、イギリスが日本への認識を改めたことが、後の薩摩藩や長州藩による倒幕運動に影響を与えたという説もあるほどです。

挑戦を続けた伊能忠敬

伊能忠敬は、50歳から一念発起して、天文学の勉強を始めました。それまで、伊能家や村のために一生懸命働いてきた忠敬にとって、勉強は老後の楽しみだったのかもしれません。

地図作りも、地球の大きさを知りたいという純粋な好奇心から始まったものでした。それでも忠敬は、応援してくれた師や幕府の期待に応えるべく、挑戦を続けます。

残された人生のすべてをかけ、前人未到の偉業を成し遂げた忠敬のエピソードを、日本の地理や歴史を学ぶ子どもたちにも教えてあげたいですね。

もっと知りたい人のための参考図書

集英社版・学習漫画  世界の伝記NEXT「伊能忠敬 正確な日本地図を信念と歩測だけでつくった男」

岩崎書店  フォア文庫「伊能忠敬 はじめて日本地図をつくった男」

ポプラ社  コミック版  世界の伝記「伊能忠敬」

小学館 渡辺一郎・編著「伊能忠敬測量隊」

河出文庫「伊能忠敬の日本地図」

講談社 井上ひさし「四千万歩の男 忠敬の生き方」

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構成・文/HugKum編集部

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