ミハイル・ゴルバチョフとはどんな人? 生涯や功績について紹介【親子で偉人に学ぶ】

ソ連の最高指導者で大統領も務めたゴルバチョフの名前は知っていても、具体的にどのようなことをした人物なのかは、知らない人も多いのではないでしょうか? そこで、生い立ちや主な功績について紹介します。国内外で異なる評価についても見ていきましょう。

ゴルバチョフとは?

晩年まで国内外での発言力を持ち続けた「ゴルバチョフ」は、どのような人物だったのでしょうか?  幼少期からソ連の最高指導者になるまでの生い立ちを紹介します。

1931年に農家の子として生まれる

ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフは、1931年にロシア南部に位置するスタヴロポリ地方で誕生しました。幼少期は戦時中で、一時期ナチス軍に占領されていた地域です。

両親は集団農業の労働者で、ゴルバチョフも同じ仕事をしながら学校に通っていました。農場ではコンバイン操縦助手として働き、名誉ある赤旗勲章を授与されています。学業も銀メダルで卒業するほど成績優秀でした。

ソ連の最高指導者となる

モスクワ大学の法学部に進んだゴルバチョフは、在学中の1952年に共産党に入党しました。1955年に大学を卒業すると、党での活動に従事するようになります。

モスクワ大学(ロシア)。ゴルバチョフは18歳で労働赤旗勲章を授与され、19歳のとき、推薦でモスクワ大学法学部に入学(1950)。在学中に、哲学科の同級生ライーサ・チタレンコと結婚する(1953)。ちなみにプーチンは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)大学卒。

子どもの頃から、正直で公正な性格だったゴルバチョフは、周りから信頼されるリーダー的存在でした。スタヴロポリ地方委員会第一書記や、党の中央委員会第二書記などの職を経て、1985年に党中央委員会書記長に就任し、ソ連の最高指導者となったのです。

1990年には大統領制度を導入し、自身が大統領に就任しました。しかし、インフレや物不足など、不安定な国家運営に対する危機感から、1991年にクーデターが起こります。クーデター自体は失敗に終わりましたが、ソ連崩壊を招くきっかけとなったのです。

ソ連が崩壊して、大統領を辞任してからも、国内外のメディアにたびたび登場していましたが、2022年8月に91歳で死去しました。

ゴルバチョフが行ったこと

White House Photographic Collection (public domain)

ゴルバチョフは、国内のみならず、国際社会においても大きな功績を残しています。具体的に、どのようなことを実施したのか見ていきましょう。

ペレストロイカ

ゴルバチョフが力を注いだことの一つが「ペレストロイカ」です。ペレストロイカとは、ロシア語で「立て直し」という意味で、経済の加速化や自由化、民主化などを目指す政治体制の改革をいいます。

社会主義によって停滞していた、経済と政治体制の立て直しが主な目的です。といっても、社会主義から資本主義に移行するわけではなく、従来の計画経済の一部に自由市場を導入して、経済を活性化させることを目指しました。

さらに、経済を立て直すためには、汚職やマフィアとの癒着(ゆちゃく)などが蔓延(まんえん)していた一党独裁の政治体制を、根本的に変える必要があると痛感し、政治の民主化も目指したのです。

グラスノスチ

ペレストロイカを推し進めていくうえでも、重要なポイントとなったのが、「グラスノスチ」です。グラスノスチとは「情報公開」のことで、この方針がとられるきっかけとなったのは、1986年4月26日のチェルノブイリ原子力発電所事故でした。

事故が起こった際、国民だけでなく、ゴルバチョフにも情報がすぐには届かなかったのです。そのため、大量の放射線物質が放たれて被害が拡大し、国内外から強い非難を受ける結果になりました。

グラスノスチによって、政府の機密事項が公開されるようになったり、言論や思想の自由が認められたりするようになったのです。

チェルノブイリ原子力発電所(ウクライナ)。1986年4月26日午前1時23分、4号炉で事故は起きた。ソ連当局が10㎞圏内に住む人々を避難させたのは、事故の36時間後だった。それまで住民は通常の生活を送っている。30㎞圏内の避難開始は、実にその1週間後であった。

冷戦終結とソ連の崩壊

ゴルバチョフの最大の功績といわれているのが「冷戦(れいせん)終結」です。第二次世界大戦後、ソ連を中心とする社会主義諸国とアメリカを中心とする資本主義諸国は敵対していました。

この対立は「冷戦」と呼ばれ、直接戦火を交えることはなかったものの、国際社会に大きな不安や緊張をもたらしました。この冷戦が核戦争に発展することを防ぐため、1989年12月にゴルバチョフとブッシュ大統領の間で「マルタ会談」が行われ、冷戦終結宣言がなされたのです。

ところで、ペレストロイカを行うなかで、ゴルバチョフは民主化も推し進めていました。その民主化が、一部の共和国を独立へ向かわせ、ソ連の崩壊を招く結果につながりました。

ソ連崩壊については賛否両論ありますが、ゴルバチョフ自身は、民主化を望んではいたものの、ソ連崩壊は望んでいなかったといわれています。

ゴルバチョフの功績に対する人々の思い

大変革を起こしたゴルバチョフですが、その功績に対しての評価は、賛否が分かれています。国内外の人々が、どのように思っているのか見ていきましょう。

国外からは高い評価

国外からは、国際社会に不安をもたらしていた冷戦を平和的に終結させたキーパーソンとして、非常に高い評価を受けています。

冷戦終結に貢献した人物として「ノーベル平和賞」を受賞している(1990)ことからも、世界の歴史を変えて国際社会に平和をもたらした人物として、高く評価されていることがうかがえるでしょう。

オスロ市庁舎(ノルウェー)。この庁舎でノーベル平和賞の授賞式が行われる(他の5部門は、スウェーデン・ストックホルムのコンサートホール)。よく知られているストックホルム市庁舎での晩餐会にも平和賞受賞者は出席せず、オスロのグランドホテルが会場となる。

ゴルバチョフが死去した際には、アメリカのバイデン大統領をはじめ、各国の大統領や首相が彼の功績を称える言葉を述べています。

国内では賛否が分かれる

国内では、ゴルバチョフに対する評価は分かれています。自由をもたらしたと肯定的に捉える人がいる一方で、超大国だったソ連を崩壊に導いたと否定的に捉えている人も少なくありません。

ソ連を懐かしく思っている人や、ソ連のあり方に満足していた人は、祖国を奪われたと感じているようです。ソ連崩壊後の社会や生活の混乱に、怒りを覚えている人もいます。

ロシアのプーチン大統領も、ソ連崩壊に対しては「20世紀最大の地政学的悲劇」と否定的な意見を持つ人物の一人です。

偉大な政治家の足跡を知ろう

ゴルバチョフは、1985年にソ連の最高指導者である書記長に就任しただけでなく、「ソ連」の最初で最後の大統領にも就任した人物です。ペレストロイカやグラスノスチなどを通して、社会や政治の自由化と民主化を目指しました。

冷戦終結に貢献した偉大な政治家について、もっと詳しく調べてみると、当時の世界情勢や現在の課題に対する認識が得られるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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